宛先は君に 2021年6月28日
2021年6月28日
夜の間降り続けた雨は、朝の到来とともに止んだみたいだ。服を着替え、外に出てみると、雨に濡れた下草が特有のにおいを立ち込めさせて、靴底を濡らした。門に続く歩道まで行くと、どこから来たのかも分からないミミズが這って移動していた。ああ、なぜだか分からないが、僕は少しだけそれに自分の感情を重ねてしまう。僕はどこからきて、どうしてこんなところにやって来てしまったのだろうかと。
せっかく雨が止んだというのに、りかはその気分に変化は起きないと言って、部屋から出ようとはしなかった。僕はひとりで、自転車に跨り、ジンさんとリンさんのバーを訪ねた。両手で強く押さないと開かない重い扉を開けると、冷気が皮膚を撫で、汗を一瞬で冷ました。店の前にいつも停まっている、真っ黒なBMWのカブリオレがなかったから、またジンさんが出掛けているのは店に入る前から分かっていた。そして、店内はリンさん一人だった。ギターを弾きながら、ノートにメモをしているところだった。
「あら、今日は何の用?」と弦をはじいた音が完璧に消える前に、ギターから視線をこちらに移し、リンさんは言った。
「本当はりかと一緒に来る予定だったけど、りかは来ないってね」と僕は言った。言った後に、これは何の回答にもなってないことに気づいた。
「兄は出掛けちゃったからいないよ。今は私だけ」と言って、リンさんはギターを椅子に立てかけ、立ち上がり、厨房に向かって、冷蔵庫にある冷えた炭酸水のペットボトルを二本取り出した。一本を僕に手渡しして、彼女は自分のボトルのキャップをひねった。未開封の炭酸飲料のペットボトルを開封した時の音が店内に響いた。僕はそれを見つめていた。飛沫があがり、彼女の手にかかるのが見えた。
「今は何してたんです?」と僕はギターを一瞥して言った。
「ちょっと、思いついた事を未来の自分にも覚えててもらおうと思って」
「面白い言い回しですね」と僕は言った。「覚えててほしいことがあったんですか?」
「今の気分とかそういうことね。どんな私だったか覚えてほしいとか。ほら、人間って変わっていくものでしょう?というか、私は一瞬ごとに違う自分がいるって思ってるくらいだから。時間は縦の流れじゃなくて、一瞬一瞬が点となって存在している。つまり、数えきれないくらいの私がいる。この私はこんなふうだよって、ノートにメモしているの」とリンさんは身振り手振りを交えながら、話した。「ほら、あなたも他人の声を録音したがっているじゃない?あれも同じようなものじゃないかな」
「確かに、僕も未来のある時点のためにそれをしています。もちろん、今の自分もそうしたいからしてるということもあるんだけど、でも、未来のためというのが大きいのかな」と僕は答えた。「でも、リンさんは断ったじゃないですか」
「恨み節はよしてよね」とリンさんは笑みを浮かべて言った。「自分の声が嫌いなの」
「いい声じゃないですか。歌声も好きですよ」
「どういうところが?」
「どういうところ?」と僕は訊き返すことで、考える間を作った。「なんだろ、ありきたりに聞こえるかもしれないけど、切なさを、歌詞の詩情を聞き手に想像させるところとか」
「それが嫌いなの。私の声って、相手に経験は絶対にしたことのない、でもその情景を思い浮かばらせる、そんな声なのよね。分かるかな?」とリンさんは学校の教師が生徒と一対一で問題文を朗読するような調子で言った。
「何となくわかる気がします。でも、そういった声って魅力的なんじゃない?例えば、誰だろう。ラナデルレイとかもそうじゃないですか。ほらトムヨークも」
「大きな名前を出すね」とリンさんは呆れたように笑った。「彼らもきっと、それに悩んでると思うわ。実際、彼らの歌はどれを聞いても切ない気持ちにさせるし。何か聞き終わった後、どんよりしちゃう。みんなでワイワイ聞くものじゃなくて、歌詞を見ながらじっくり聞くような歌。たとえ、騒がしいだけの歌を歌っても、その歌声だけで何か意味があるんじゃないかって思ってしまうんじゃないかな、きっと。うーん。何だろうな。声を楽器みたいに使ってないとでも言えばいいのかな。詩を朗読しているような感じ。つまり言葉の意味を歌っているの。音じゃなくてね」
リンさんは炭酸飲料にもう一度口を付け、それを机の端に置いた。結露が起きたペットボトルによってリンさんの掌、机は濡れていた。僕のまだ口を付けていなペットボトルの周りも水滴が落ちていた。リンさんはポケットに忍ばせていたハンカチを取り出し、掌を拭いてから、ペットボトルの外側を覆うようにして拭いた。そして、濡れたハンカチを机の上に畳んで置いた。
「それで、君は何しに来たの?」とハンカチから目を離し、リンさんは僕の目を見て言った。
「特に理由はないです。佐和子さんからの頼まれごともないですし」
「それじゃあ、少し散歩しない?開店まで一時間くらいあるし」
そうして僕らは、夏の到来をおずおずと告げる太陽の光を、高く天まで伸ばす木の葉を介して受けながら、通りに影を付けて歩いた。川のせせらぎが聞こえ始めると、その音が冷感を身体に浸みいらせ、気分が良くなった。リンさんとの会話はいつだって、僕を満足させる。彼女は博学で、僕も同年代の中では多くの芸術に触れてきていると自負しているが、でもそれは彼女にとっては朝飯前なんだ。僕が読んでいる本はどれもあー、面白いよね、と反応してくれるし、そしたら、これも読んでみな、とおすすめをしてくれる。たとえば、レベッカソルニットの本を何冊か貸してくれた。今それを読み進めているんだ。それに、僕が今まで触れてこなかったグラフィックノベルも何冊か貸してくれた。『サブリナ』という作品に僕は衝撃を受けてしまったんだ。なるほど、物語というものは本当に無限の可能性を占めているが、しかし、その表現方法で最高のものを選ばなくては、無限に伸びる線の見えてしまう範囲に点を打つことになってしまう。その点、『サブリナ』がグラフィックノベルという表現方法を用いたのは、まさにその伸び続ける線がどこに向かっているのかを、どこまで伸びているのかを教えてくれるものだった。まさしく完璧だったんだよ。その絵柄、構図、コマ割りも考えられるものは全てこの上ないものだった。
僕もグラフィックノベルを作りたくなったよ。素晴らしい作品に触れると、僕はいつもこうなってしまう。肥大する自分のエゴが止まらなくなるんだ。しかし、自分を見極めなくちゃいけないだろう。結局、可能性が放射され、それがどこにも行きつかず放物運動をしたもののどこにもそれを受け取るものがなく、ただ空しくどこかに落下するだけになってしまう。そうやって腐死した事例は、人間の歴史の中に幾つも埋もれていることだしね。僕はまず、小説に集中しなくてはいけない。何よりもそれが重要なのだから。
「あなたの小説は進んでいるの?」とリンさんは時計をチラッと見て、開店時間までまだ三十分はあるのを確認して言った。虫の声がどこからともなく聞こえてきて、でも、人間の耳は不思議なもので聞こえてくる音に優先事項を定められる。この時も、リンさんの声は鮮明に聞こえてきた。
「構成は決まっているんです。この物語が結局、どこに向かっていくのかも。だけど」
「だけど?」とリンさんはすぐに反応した。
「まだ、もったいない気もするんです」
「もったいない?」
「はい。もったいない」と僕は繰り返した。僕は本当にこう思っていて、その理由を説明したら、君って本当に面白いねと、リンさんはお腹を抱え、苦しそうに笑った。そして、涙を拭くような仕草をしながら、息を整えて、再びさっきの言葉を繰り返した。そして続けた。
「自信があるのかないのか、どっちか分からないね。でも、その乱高下があなたの発想の源なのかもしれない」
確かに僕は言われてそう思った。僕は感情の変化が起こる度、創作が生まれるんだ。つまり、揺り動かす出来事、単調ではない流れが繰り出す衝動が新たな流れを生み出すということなんだ。
「そうかもしれません」と僕は答えた。リンさんはもう笑うのを止め、僕をじっと見ていた。
「そろそろ戻らなきゃね。でも、今君がその作品を完成させなくちゃいけないと思う。たとえ、あなたがまだ読んでいない沢山の本がこの世に存在していて、そこに創作のための知恵が隠されているとしてもね。それは割り切って完成させなくちゃいけないものだから。それに今のあなたがそれを完成させて世に出すことが重要なの。それに私は、というかこの世界で誰もまだ読んでいないけど、それが読まれるべきってなぜだか思うの。あなたの前だからお世辞で言っているわけではなくてね。それはきっと、人々の間で会話を生み出すものになると思う。そしてその会話が街ってもの、そこで形成される社会ってものを変えていくに違いないから。だから、約束してね。完成させるって」
リンさんはそう言うと、時計を見ずに太陽を見て、時間の確かな流れを空で確認すると、僕に向かって微笑みを投げて、来た道を引き返し始めた。僕はその後ろ姿に誓った。唾を吐き、それが僕を治癒していくと確信して。
「どうしたの?あなたは残るつもり?」と振り返ってリンさんは疑問の表情と共に言った。
首を横に振って、僕は彼女の後を追った。
そして、僕は午後からずっと、部屋に籠ってノートとにらめっこしている。単純だが、僕は勇気をもらい、そして指針もあるんだ。そうなると、不思議なものだが、筆が進む。
夜になってやっと、りかが彼女の部屋を出て、僕の部屋を尋ねてくるまでまるでゾーンに入ったスポーツ選手のような気分で、そうだな例えて言うなら、試合終了のホイッスルが鳴らないようにと願った選手のようで、りかのノックの音とその後に続いたドアが開く音がそのゾーンを失わせるまで、言葉が溢れて止まらなかった。しかし、休息が必要だったから、それは素晴らしい合図だった。りかは僕のベッドに腰掛け、ぼんやり正面を見つめていると思うと、その後背中を付けて、天井を見つめ出した。僕は机の椅子からそれを見ていた。りかは化粧もせず、皺の付いた寝間着のままだった。髪の毛も重力を無視した方向にはねており、数日前の彼女からは程遠い見た目をしていた。
「大丈夫?」と痺れを切らして僕は尋ねた。
「何が?」と彼女は答えた。彼女は身動きを一切取らなかった。口も動いているのかすら分からないほど、それは無機質なものだった。
「いや、ほら様子からそう察しただけ」
「うん」と彼女は答えた。そして、上体を起こし、僕の方を見た。
それから僕の部屋は沈黙が降り立った。窓の外では再び、雨が降り始め、少し開いた窓からは濡れた草の匂いが、地上から昇って来ていた。りかは再び、背中を付けて天井を見つめていた。僕はどうすることもなく、窓を見た。夜の暗さが僕の顔を写した。その先に、世界が広がっている。しかし、そこには誰もが受け入れられるべきなのに、自然はそれを望んでいるはずなのに、社会はそれを排除しようと試みる。そして、それは人間が築いたものだ。
部屋を出て行くとき、りかは最後に僕に呟いた。それは答えを求めない問いかけだった。僕を見た、しかしその後ろにある世界に向けられたものだった。
『どうして人は人を傷つけるというの?』
僕に出来ることは小説を通してそれを問いかけることだけだ。
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