宛先は君に 2021年5月29日

2021年5月29日

 朝 電車内 書き起こしを始める。
「二人の名前は?」
「小島裕樹、8歳です。小学三年生」
「小島昌子、祐樹の母です」
「祐樹くん、君には夢はある?」
「サッカー選手」
「へー。ポジションはどこ?」
「ミッドフィルダー」
「それは攻撃的?守備的?」
「うーん。どっちもやるけど、好きなのは攻撃」
「得点とアシストは?」
「アシストする方が好き」
「好きなサッカー選手は?」
「モドリッチ。レアルが好きなんだ」
「マドリーが好きなんだね。じゃあ、将来の夢はレアルの選手?」
「もちろん。久保みたいになれたらいいな」
「大きな夢だ。努力が必要だよ。でも、やるに値するね」
「あたい?うん。そのために頑張ってるよ」
「昌子さんの夢は?」
「私の夢?」
「そう。あなたの夢」
「ママの夢を聞かせてよ」
「難しいね。夢を見る年齢じゃないから」
「どうして?」
「祐樹の四倍以上生きてるから」
「祐樹君、掛け算は学校で習った?」
「当たり前じゃん。くいちがく、くにじゅうはち…」
「九の段が一番難しい?」
「ううん、七の段かな。先生の前で言わなきゃいけない時、最初は言えなかったんだ。それを友達に笑われて、恥ずかしかった。今も七の段を言う時、思い出す」
「昌子さん、目標ならある?」
「そうね、免許かな。車の免許を取るために教習所に通ってるくらいかな」
「それはどうして?」
「祐樹を送るのにあったら便利だから」
「あなたは祐樹くんを愛しているんですね」
「当たり前でしょ。母親ですから」
「母親になって驚いたことは?」
「うーん。子供を一人育てるのがこんなに大変だってことかな。私は兄と妹と弟がいるから、私のお母さんはどうやって四人も相手してたのかしらって思う」
「ばぁば?」
「そう。ばぁば」
「あ、私の夢あった」
「それは何ですか?」
「この子が大きくなるにつれて、今私、あなたもだけど、そう、みんなが抱えている問題が解決されていけばいいと思う。そしたら、祐樹は大きくなるにつれて、いい世の中で生きていることが出来るでしょ」
「僕もそうだといいな。七の段をすらすら言えるようになったらいいな。明日にでも。それに、ママの問題も今すぐ解決されればいいのに」

書き起こし終了。

 夜
 当地に降り立ち、風が木々の葉を揺らす音に耳を傾ける。どこからか、鳥の鳴き声も聞こえてくる。名も知らぬ鳥だ。でも、僕の耳にその声は辿り着く。
 二人の別荘に着くと、佐和子さんと茂樹さんはわざわざ玄関まで出てきて迎え入れてくれた。僕は離れまで案内してもらい、そこで一週間ほど様子をみると伝えた。朝昼夜の食事は、二人が届けてくれると言ってもらい、僕は感謝を告げ、マスク越しの笑顔を三人で交わし合い、別れを告げた。中に入ると、洗いたてのシーツが置かれているベッド、読書灯のある机、そして、その上に十冊の本とメモが置いてあった。
『暇な時間はこれを読んで過ごしてください。小説書き終えたら、読むのを楽しみにしています』
 ヘミングウェイの短編が一番上に置いてあった。何ページか捲り、読んだことがあるか確認した。覚えのあるものだった。それを脇に置いた。次はカフカの短編集だった。カフカはもうすべて読んだことがあるから、それをヘミングウェイの上に置いた。そして、残りの八冊も読んだことがあるものだった。本を机の上で壁に立てかけ、空いた机のスペースに今僕が筆をしたためているノートを置いた。そして、今に至る。小説を書こうと何度か努力したが、書き始めにしっくりこない。物語の全てを意味する書き起こしでなくてはいけない。読む人にはこれがどんな小説か分かってくれるような、まるでエンドローグから始まるように思わせなくてはいけない。それこそが最も優れた小説なのだから。
 カフカの短編集を選んでみる。ここにかの有名な『変身』は入っていない。『変身』は最高の作品で、今僕が立っている場所からではそれは、本来の大きさと比べてとても小さく見えてしまうほどだ。そうだな、まるで今夜の月のようなものだ。確実に僕の視界に入りこんくるが、それがどれくらい大きいのか目視では分からない。手に触れることも、辿り着くことも出来ないからだ。でも、僕はあのカフカの全てが本性の中に取り込まれていくのを感じるんだ。僕は巨人となって、あの月まで到達する、そしていつかは地からは離れ、月のようにどこからでも見られる、浮遊した存在物に変わっていくのだ。
 書き出しは決まりそうだ。これでいこうと思える案が浮かんできた。今ちょっと、外に出て町を歩いてきたんだ。もう十二時を超えていて、寝間着では肌寒い夜だった。風が揺らす町の音を聞きながら、僕はまるで人生のすべてを人質に取られたかのように思案に耽っていた。でも実際にそうだ。人生を賭けた作品なんだ。これは僕の全てを決定づけるだろう。
 書き出しは簡単だ。
「私は目を覚ました」
 これが僕の始まりだ。

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