見出し画像

小説 語る女

ライトを落とした真っ暗なテレビ局のスタジオで七十五歳の北岡幸子にスポットライトが当たっている。司会の野並啓子は、暗がりの中で幸子の語りを聞いている。迫真の演技で幸子は語っている。

「産気づいた葵の上は、いつもよりひどい物の怪に苦しめられていました。『ああ、苦しい、少し祈祷を緩めてください。源氏の君に申し上げたいことがございます』と葵の上が苦しそうに言うので、光源氏は、そばにより、妻の手を取り、『私がここにこうしています。あなたをお守りいたします』と励ましたのです。『いいえ、違うのです。調伏が激しくあんまり苦しいので、楽にしてほしいとお願いしたかったのです。人の魂は悲しみに耐えかねると、身体を離れるって、ほんとうにありますのね』。という声や表情は、葵上のものではなく、すっかり六条の御息所のものになっていました。『ああ、恐ろしい。あなたは六条の御息所。なんということだ。どうか、お帰りください。葵上にはなんの罪もありません。怨むなら私にしてください』。物の怪は、光源氏に自分の姿を悟られ、慌てて姿を消しました』」

 スタジオ全体がぱっと明るくなる。司会の啓子が話し始める。

「六条の御息所の情念の凄まじさの中に、女のせつなさや哀しさが、

にじみ出ていますね」

「私は源氏物語の中に出てくる女性たちの中で六条の御息所が一番好きなんです。教養も高く高貴の生まれの女性ですが、年若い光源氏に恋焦がれ、翻弄され、自分の気持ちを抑えられずに、生霊となってしまう。それほど一人の男を愛しぬいたんです。自分の気持ちに正直な女性だったと思います。子まで成している大人の女性がそこまで一人の年下の男に恋焦がれる。激しい情念と嘆きの深さに心打たれるのです。光源氏はこのとき十七歳。六条の御息所は二十四歳。先の東宮の后で、すでに寡婦です」

 幸子がしみじみした口調で話す。幸子の話を受けて啓子が答える。

「最近、年下の男性とつきあう高学歴キャリア女性が増えていますが、六条の御息所は、現代女性の最先端をいっていたんですね。六

条の屋敷を趣味よく設え、そこで歌の会や音楽の会などを開き、今

でいうサロンを開いていたんですね。そこには若い貴公子が集まっ

てきていた。その中に光源氏もいた。光源氏にとって、初めは高嶺

の花であった六条の御息所ですが、自分の手に落ちてからはだんだ

ん彼女のプライドの高い性格が鼻についてしまったのでしょう。年

の差もあり、六条の御息所にとっては、喜びより苦しみのほうが多

い恋だったのでしょう。六条の御息所の嫉妬心が自分自身も傷つけ

ていたのでしょう。嫉妬の心は、自分自身も傷つけてしまいますね」

「野並さんは、いつもきちんと急所を押さえて鑑賞してくださるの

でうれしいです。あなた、きれいな声ね。語りをなさったらいかが

かしら?」

 啓子は、ぱっと喜びの表情になる。幸子の語りの司会をするよう

になってから語りに魅了されていたのだ。

「私にも、できますでしょうか?」

「ええ、あなたの声には艶があるから。それに作品世界を読み取る

力もおありになります。きっと、できます。来週は競演しましょう

か?」

「それは光栄です。本日の『古典芸能鑑賞』は、北岡幸子さんの語

りで『源氏物語六条の御息所・物の怪』をお送り致しました。北岡

幸子さん、今日はありがとうございました。それでは、皆様、また、

来週、お会いしましょう」

 啓子の笑顔がアップ になり、エンディングの曲が流れる。フロア

ープロデューサーが、カチンコを鳴らし、大きな声で叫ぶ。

「カット」

途端に、スタジオの中が、ざわめきだす。啓子は、幸子に微笑み

ながら告げる。

「お疲れ様でした。片岡さんの語りをじかに聞けるなんて司会者の役得です」

幸子も微笑む。

「ありがとう。あなた、おやりなさいよ。語り」

「番組の内容を決めるのはプロデューサーですから。私にそんな権

限はありません」

 村瀬達也がサブから降りてきて、二人の後ろに立っている。

「北岡さん、お疲れ様でした。上で聞いていて、背中がゾクゾクし

ちゃいましたよ。女は怖いなあって」

「昔も今も、女は怖いのよ。村瀬さん、お遊びはほどほどにしない

と、そのうち生霊に祟られますよ」

 村瀬が、頭をかく。

「いやあ、まいったなあ。こりゃ、一本 取られた。北岡さんのお

かげで、この番組視聴率が高いんですよ。この調子でこれからもよ

ろしくお願いします」

「私もこの番組の収録、毎回楽しみにしているんです。さっきは番

組で出すぎたことを言ってしまってごめんなさいね。でも、野並さ

んの語り聞いてみたいなあって思ってしまったものですから」

村瀬は苦笑いした。

「ああ、あれね。一瞬、驚きましたが、面白いかもしれませんね。野並さん、やってみるか?」

「北岡さんと一緒になんてとんでもない」

「いいえ、あなたならできます。ほんとうはやりたいんでしょう?」

 幸子は圭子の顔を覗き込んだ。啓子は、微笑んだ。

「はい。実はおっしゃるとおりです。毎回、司会をしているうちに、

すっかり北岡さんの語りと源氏物語の世界にはまってしまいまし

た」

「視聴者から野並さんの語りが楽しみだっていうファックスや電話

がいくつか入ったからなあ。よし、じゃあ、来週は北岡さんの前座

で短いのをやってみるか?」

「はい、頑張ります」

「北岡さん、これからお食事でもいかがですか?」

「ありがとう。でも、もう十時を過ぎました。年寄りは家に帰って

寝ますわ。若い人たちでどうぞ」

「ああ、ふられちゃった。では、来週もよろしくお願いします」

 村瀬は、幸子に頭を下げる。幸子は、スタジオを去っていく。村

瀬は、啓子の肩をぽんと叩き、そっと耳打ちする。

「いつものところで」

 啓子が、頷く。

 

啓子は、ホテルセンチュリーサザンタワーの高層階にあるバー『サウスコート』に入った。啓子は店の中を、村瀬を探しながら歩く。すでに座っている男たち数人が視線の端で啓子の姿をとらえる。村瀬の姿はない。空いている窓側の席に座る。ウェイターが、メニューを持って現れる。
「ご注文が決まりましたら、お声掛けください」

「ブラッド・メリーをお願いします」

「はい、かしこまりました」

 ウェイターが去ると、啓子は、所在投げに窓の外を見る。高層階

から眺める東京の夜は、きらきらと輝いている。村瀬が、啓子の席

にゆっくりと歩いてきた。

「お待たせ」

「いいえ、私も今きたばかりよ。あなたは、いつも時間に正確ね」

ウェイターが、ブラッド・メリーとメニューを持って現れる。

「ハイパーのダブルね」

「はい、かしこまりました」

 村瀬と啓子は、グラスを合わせる。

「お疲れ」

「お疲れ様でした」

 村瀬は、ルームキーをテーブルに置く。

「先に行っててくれ」

 啓子はブラッド・メリーを飲むと、ルームキーを取り、店を出ていく。村瀬もグラスを一気に飲み干すと、店を後にした。

 

 高層階からの外の眺めは、宝石をまき散らしたように輝いている。

啓子が部屋でぼんやりと窓の外を眺めていると、村瀬が部屋に入っ

てきた。後ろから啓子を抱きしめる。

「ああ、いい匂いだ」

「くすっぐたいわ」

 村瀬は啓子を振り向かせ、唇を重ねる。村瀬は、啓子の服を楽し

みながら一枚一枚脱がせていく。一糸纏わぬ姿になった啓子の姿を

いとおしそうに眺める。村瀬のいつもの儀式だ。啓子は、恥ずかし

そうに自分の手で体の一部を隠した。。

「啓子の身体はいつ見てもきれいだ。僕がカメラマンだったら、絶

対写真に撮る。でも、誰にも見せない」

村瀬は、カメラで写真を撮るしぐさをする。

「もういいでしょう。恥ずかしいわ。灯りを消して」

村瀬は、部屋の灯りを落とし、服を脱いだ。村瀬と啓子は、ベッ

ドにもつれ込む。

二人はことがすむと、ベッドの中で寄り添っている。

「啓子の語り、上に通しておいたから。お粗末な語りはしないでく

れよ」

「私にできるかしら?」

「啓子ならできる。北岡さんも太鼓判を押していたじゃないか。君

は百万人に一人の素晴らしい名器だ」

「やだ。何いっているの。私はまじめな話をしていたのに」

「拗ねた顔がまた一段とそそるねえ」

 村瀬は、再び啓子に覆いかぶさる。二度目も激しくことに及んだ。

 啓子は、放心して天井を眺めている。村瀬は、啓子の様子を満足

そうに眺める。

「啓子は汲めども尽きぬ泉だ」

 村瀬は、啓子の額に口づけをする。

「私、朝の番組を持っているんだからね。もう、だめよ」

「ああ、姫はなんて冷たいんだ。僕は君の番組のチーフプロデューサーだということを忘れたの?」

「忘れてないわよ。商品に手を出すなんて、いけない人ね」

 村瀬が、指を折る。

「啓子とはもう、三年になるね。僕は君がアナウンサー部に入った

ときから見初めていたんだよ。あの時の君はうぶでかわいかったよ。

今や蕾は満開だ」

 村瀬は、啓子の背中に唇を這わせる。

「ああ、だめだってば」

 村瀬は、啓子を後ろから抱きしめる。

「もう、悪い人。語りの演目……ああ、……相談し……」

「最中に仕事の話はしないでくれ」

 村瀬は、啓子の胸をもみしだき、腰を激しく揺する。

「ああ……もう、だめ」

「こんど君にいいものを見せてあげるよ」

 村瀬と啓子は、激しく抱き合う。

 

 翌朝、啓子はアナウンサー室で、机の上のはがきを眺め、迷っている。大学のサークルの同窓会のはがきだ。啓子は、携帯電話をバックから取り出し、高田真理子に電話をかける。

「野並です。元気? 明日の同窓会だけど、急用が入って、行けな

くなったの」

「えー、うっそお。同期では独身組みは啓子と私だけ。一人だと肩身が狭いなあ。うん、田岡さん? だって彼は男じゃない。独身でもまだまだいけるもん。女とは違うよ。旦那や子どもの話ばかり聞かされるのって辛いのよね。幸福いっぱいって感じでさあ。田岡さん、寂しがるんじゃない、啓子がいないと。どうもお目当は啓子って気がするのよね」

「そんなことないわよ。田岡さんは誰にでも親切よ。昔からみんな

のお兄さん的存在だったじゃない。この埋め合わせは今度するから。

本当にごめんね。みんなによろしく言っといて。そのうち、また康

子と三人で会おうよ。うん、じゃあね」

 啓子は携帯電話を切ると、ほっとした表情で携帯をバックの中に

しまった。

 

その日の夕方、京都駅のプラットホームに東京方面から新幹線が入ってくる。プラットホームには村瀬が立っている。新幹線の中の啓子は、窓の外を見ている。プラットホームに村瀬の姿を見つけ、にっこり微笑む。

 新幹線の扉が開くと、啓子は、新幹線の中から降りてきた。村瀬は、啓子を見つけて駆け寄ってきた。

「やあ」

 村瀬が、慣れた感じで啓子の肩を抱き寄せたが、人目を気にして

一瞬で啓子から身体を離すと、啓子の荷物を持ち、足早に歩き出し

た。啓子は、少し離れてその後ろからついていく。

 京都駅前のタクシー乗り場には大勢の人が並んでいる。

「今が一番つまらない時だ。京都は夏か冬に限るよ」

 啓子は、村瀬を甘く睨む。

「一番つまらない時に私を呼び出したの?」

「しかたないさ。嵯峨野のしだれ桜は今が見ごろだからね」

 村瀬は、啓子の荷物を持って早足で歩き出す。啓子も、その後ろ

を歩く。まるで見知らぬ人のように無言の二人。一台のタクシーが

二人の横で停まり、客が降りる。村瀬は、そのタクシーを拾う。啓

子を先に押し込むように入れ、後から自分が乗り込んだ。

「竹林荘まで」

「はい」

運転手は、バックミラーで後ろの二人の様子を見る。村瀬は、啓

子の肩を抱き寄せている。

 

竹林荘は、嵯峨野にある趣のある宿だ。周囲は竹林で囲まれて

いる。ひっそりとした旅館の離れで静寂につつまれている。部屋の中央には炉がきってあり、茶室のような趣がある。もう一部屋続き部屋があるが、襖が閉められている。

「ここは主の趣味で作った部屋なんだ。時々茶室として使っている

そうだよ」

時折、庭のほうからカーンという水琴窟の音がする。

「静かね。駅前の雑踏が嘘みたい」

「だろう」

 村瀬は、窓の障子を閉める。啓子を抱きしめ、唇を重ねる。激し

い口づけだ。啓子は、村瀬から身体を離す。

「まだ、日が暮れていないわ」

「暗くなるまで待てない。いいだろう」

「だめよ」

 村瀬は、あらがう啓子を強く抱きしめる。啓子の着ている服を、

花びらをむしるように、楽しみながら一枚一枚脱がせていく。激し

い抱擁が始まる。お楽しみが終わるころには、日もとっぷり暮れて

いる。

 

「さあ、行こうか? 君に見せたいものがある」

暗くなった嵯峨野の道を村瀬と啓子は歩いていく。空には朧月夜

がかかっている。桜並木が白く浮き上がっている。朧月の薄明かりの中、大勢の人が同じ方向へ進んでいる。その中に啓子と村瀬もいる。

「みんな、しだれ桜を見に行くんだ」

「美しいものに焦がれる気持ちはみんな同じなのね」

 啓子と村瀬は、しっかり手をつないで歩いている。

 しだれ桜の周辺には赤々とかがり火が焚かれている。炎に照らし

出された一本の大きなしだれ桜を声も出さずにただ眺めている人々。

啓子と村瀬も無言で桜をじっと見詰める。村瀬は、桜を見詰めたま

までささやいた。

「来てよかっただろう」

 啓子も桜を見詰めたままでささやき返した。

「この桜を見せてくれただけで、あなたに感謝する。もしも、あな

たと別れることになっても」

 村瀬は驚いて、啓子の顔を見る。

「別れるつもりはないよ、僕は。啓子なしの人生なんて考えられな

い」

「でも、一緒になることもない」

 啓子はひとりごとのようにつぶやいた。

「今は桜を楽しもう」

 村瀬は、桜に目を戻す。啓子の目に涙が浮かぶ。啓子は、そっと

涙をぬぐった。二人はただ黙ってかがり火に照らし出されたしだれ

桜を見続けている。

 

啓子と真理子は、郊外にある内田康子の家を訪れている。郊外にある庭付き一軒家だ。二人はドアチャイムを押すと、康子が出てきた。

「いらっしゃい。さあ、上がって」

「お邪魔します」

 啓子と真理子は家の中に入る。康子のもとに四歳の息子の光とそ

の友達がかけてきた。光は、啓子を指差して言った。

「あっ、この人見たことある」

 康子は、光の背丈までしゃがむ。

「こら、光。人を指差してはいけないって言っているでしょう。朝

のテレビ番組にでているお姉さんよ」

「ママの友達なの?」

「そうよ」

「へえー、すげえなあ」

光の友達も「すげえなあ」と声をそろえて言った。

「さあ、遊んでいらっしゃい。おいしいおやつ作ってあるからね」

「はあい。じゃあ、行ってきます」

「行ってきまあーす」

 光と友達は、運動靴を履くと、元気よく外に出て行った。

「そのうち、上の子も帰ってくるわ。ごめんね。落ち着かないかも

しれないけど。二人で来てくれてうれしいわ」

リビングで啓子、真理子は、ソファに腰掛けている。康子は、お

茶とケーキをトレーに載せて運んできた。

「ケーキ、焼いたの。食べて」

「おいしい」と真理子が言うと、啓子も「お店に出せるわよ、これ」

と言った。

「よかった」

「腕あげたね」と真理子が言う。

「この辺ではみんな手作りのお菓子を出すのよ。だから、必死でお

菓子作り覚えたわ。袋菓子なんて持っていったら軽蔑されちゃうん

だから」

「ふうん。主婦の世界も大変なのね」と啓子が言う。

「庭付きの家に子どもが二人。優しいご主人。お手製のケーキ。絵に描いたような幸福な家庭だね」

 独身の真理子が言う。

「あれ? それって真理子、結婚願望あり? キャリア志向だと思

っていた」

 啓子が驚く。

「康子の家に来るたびに思うよ。康子が羨ましいなって」

「そう? 私には啓子や真理子の方が羨ましいわよ。おしゃれして

身軽で社会の中で活躍しているんだから。私も仕事を続けていれば

よかったかなって思うこともあるのよ。もうすっかり、おばさんよ」

「三人の中で康子が一番早く結婚するなんて思わなかった」

 啓子の言葉に康子がうなずく。

「私も」

「あれ? それっておのろけかしら?」
啓子が言う。

「征夫さんのアプローチすごかったもんね」

 真理子の言葉にまんざらそうでもない顔の康子。

「まあね。初めての恋で結婚しちゃったからね。若かったから、熱

列アプローチがすごく愛されているって思っちゃったのね。今の私

だったら、多分、結婚しないかも。真理子は恋多き女ですもんね。

学生時代から」

「うふふふ。それがねえ、どうも最後の恋になりそうなんだ」

 啓子と康子は、真理子の顔を覗き込む。

「うふふふ。私、できちゃったの」

「できちゃったって?」啓子が聞く。

「そう、妊娠したの。とうとう成長株を見つけたの」

「やだ、いくら株をやっているからって、男と株を一緒にしないで

よ」

 啓子があきれて言った。

「あら、男も株も一緒よ。まだ芽が出ないうちに成長しそうなもの

を見つけ出す。男は自分で理想の相手に育てるのよ」

「それで結婚するの?」
康子が聞く。

「はーい。四歳年下のエリートゲット」

「おめでとう」と康子。

「おめでとう。ああ、とうとう私一人が残っちゃった」

 啓子が、ため息をつく。康子が心配げに啓子に聞く。

「啓子、いい人いないの?」

「いない。だって素敵な男性はもうすでに売約済みだもの。六条の

御息所みたいに奥さんを呪い殺すわけにはいかないでしょう。目下、

仕事が恋人かなあ」

「おお、怖っ。呪い殺すなんて。妻の立場としては捨て置けない発

言だわ」

 康子が少し怒ったように言う。

「啓子、だめよ、そんなことじゃあ。仕事も恋も両方頑張らなきゃ」

 真理子が意気揚々と言う。

「恋か? いいなあ、その響き。もう八年もご無沙汰だなあ」

「こら、康子。何、不謹慎なこと言っているの。あなたは結婚して

いて子持ちなんだから。恋なんてしちゃだめよ」

 真理子が康子をたしなめた。

「二人はいいわね。楽しんじゃって。主婦はつまらないわ」

「何言ってんの。一番幸せなくせに」

「そうでもないわよ。子育ては楽しいけど。専業主婦って案外つま

らないわよ」

啓子、真理子、康子は、とりとめもなくお喋りをしている。啓子

は、何の気兼ねもなく話せる友人との時間を楽しんだ。

 

テレビ局の朝番組のスタジオにはカメラが三台スタンバイしている。テーブルの中央に啓子がいる。フロアープロデューサーが手で五、四、三、二と合図をしている。モニター画面が映し出される。沖縄県・西表島が映る。続いてコバルブルーの海にぽっかり浮かんでいる小さな島由布島が映る。浅瀬の海を水牛車がゆっくりとゆく。水牛車の中にはサンシンを弾き、島唄を歌っている人がいる。生き生きと働く島の人たちの姿が映し出される。

モニター画面の沖縄県由布島の映像をバックに啓子の顔が映し出される。啓子は、大きなモニターを背にして中央テーブルに座っている。

「おはようございます。今朝は沖縄県の西表島の鼻先にくっつくよ

うにある小さな島、由布島をご紹介しました」

 フロアープロデューサー、カチンコを鳴らす。スタジオ内は、ざ

わめきで満ちた。フロアプロデュサーが声をかける。

「お疲れ様でした」

 放送が終了し、啓子は、足早にスタジオを出て行く。

啓子はアナウンサー部の部屋で机に座り、資料に目を通している。こっそりバックからコンパクトを取り出し、自分の顔を見つめる。コンパクトに浅田めぐみの顔が映る。啓子は、コンパクトを閉じ、後ろを振り向く。

「やだあ。めぐみちゃん。いつからそこにいるの?」

「今きたばかりです。野並さん、特に今日は色っぽい。なんかあったんですか? 鏡を見てため息ついちゃって。あれ?」

 めぐみは、啓子の顔に近づいて、じっと啓子の顔を見る。

「目の周りくまですか? 野並さん、彼氏いないって嘘でしょう。昨夜の痕跡ですね」

「何馬鹿なこと言ってんの。面白い本を読み出したら止まらなくて、

徹夜しちゃったの。まずいわね。健康管理も仕事のうちなのに。今

日は早く寝るわ」

 啓子は、再び、コンパクトを開き、自分の顔をじっと見る。村瀬

が、アナウンサー室に入ってきた。啓子もコンパクトを閉じ、椅子

から立ち上がる。

「村瀬さん、おはようございます」

「おはよう」

 村瀬は、啓子に台本を渡した。

「野並さん、これ、来週の『古典芸能鑑賞』の台本。北岡さんは、台本無視のアドリブが多いからなあ」

「ええ。でも、それで北岡さんの味が出ていますから」

「君は当意即妙でよくやっているよ。ここがいいんだね」

 村瀬は頭を指さした。

「そんなことありません」

「君の語りは『竹取物語』にしたけど、いいかなあ?」

「かぐや姫ですね。素敵です」

「番組の打ち合わせをしよう」

 村瀬は、腕時計を見る。

「昼飯食いながらでどう?」

「はい、わかりました」

「じゃあ、昼ね」

 村瀬は、手をひらひらさせながら、部屋を出て行った。めぐみは

再び、啓子に近づく。

「いいなあ、村瀬さんと一緒にご飯食べに行くなんて。村瀬さんっ

て、ダンディですよね。その上、局の実力者だし。彼に愛されたら

どんなにいいでしょうねえ」

「何言ってんの。ただの打ち合わせよ。できれば、お昼休みは勘弁

してもらいたいわよ」

「村瀬さん、野並さんのほとんどの番組のチーフプロデューサーで

すもんね。村瀬さんに口説かれてみたいなあ」

「あら、村瀬さんは、妻子持ちよ」

「そんなこと関係ないですよ。野並さんはまじめですからね。先輩

たちの中で浮いたうわさが一度もないのは、野並さんだけですから」

「私は持てない女ってこと?」

「そんなことありませんよ。野並さんは、高嶺の花なんですよ。そ

れにガードが堅いんです。男どもは野並さんに流し目を送っても、

野並さんは無視ですもの」

 部屋の入り口から村上直哉が、顔をのぞかせた。

「浅田、打ち合わせだぞ」

「はい。今、行きます」

「村上さんは独身よ」

「やだ、あんなイモ。それに出世の見込みもないです」

 めぐみは小声で言うと、部屋を出て行った。啓子の携帯電話が鳴

る。田岡克彦からだ。田岡は啓子の大学のサークルの先輩だ。

「はい、野並です」

「久しぶり。今、大丈夫? 東京にいるんだけど。出張でさあ。今晩、時間ある?」

「今晩、ちょっと待て」

 啓子は、手帳を見る。

「うーん、何とかなりそうよ。じゃあ、七時に表参道で」

 啓子は携帯電話を切ると、熱心に台本を読む。

 

啓子は、バックを肩に颯爽と歩いている。昼過ぎ、赤坂のうどん

屋耳卯の店の中に入っていくと、。村瀬がすでに個室を予約していた。

仲居さんに予約してある個室に案内されると、村瀬はすで待って

いた。

村瀬と啓子は、ビールを飲みながらうどんすきを食べている。

「ここのうどんはいつでもうまいなあ」

「あなたはいつもおいしそうに食べるわ。おいしそうに食べる人っ

て好きよ」

「啓子はさすがだよ。朝、目が覚めたら、いつもどおり隣は、もぬ

けの殻。スタジオにはちゃんと三十分前に入っている。仕事をして

いる時の啓子は、一分の隙もない」

「あら、当然でしょう」

「そんな啓子の痴態を誰も知らない。僕だけが知っていると思うと、

わくわくする」

「嫌な人。めぐみちゃんに、目の下にくまができているって言われ

ちゃったわ」

「めぐみ? 啓子の後ろに立っていた浅田ね。啓子が魅力的過ぎる

からいけないんだ」

「あんまり激しいと、夕顔の君みたいに息絶えてしまうからね」

「夕顔の君は、嫉妬に狂った六条の御息所の生霊に取り殺されたん

じゃないの?」

「私が夢中でお慕いしているのに捨てておいて、こんな取るに足ら

ないつまらない女を愛されているなんて。口惜しくて悲しい」

 啓子は、語りの口調で言う。村瀬が、拍手する。

「そう、それ、それ。すごいなあ、すらっと出てくるんだね」

「だって、毎週、北岡さんの語りをそばで聞いているんですもの。

源氏物語ってこんなに面白いなんて今まで知らなかった。夕顔の死

は六条の御息所の生霊に取り殺されたことになっているけど、医学

的に考えると、二晩性愛に溺れた疲労による急性の心臓発作とも考

えられるんですって」

「物の怪の方が色っぽくていいなあ。源氏物語だと北岡さんの語り

と較べられる可能性があるから竹取物語にしたんだ」

「ちゃんと考えてくれてありがとう。衣装はどうします?」

「そりゃ、古典を語るんだから、着物でしょう」

「局の衣装部に何かあるかしら?」

「いや、自前でいこう」

「私、着物なんて、持っていないわ」

「僕にプレゼントさせてくれないか?」

「まあ、うれしい」

「今晩、着物を見にいこう」

「今晩はだめ。七時に約束があるの」

「じゃあ、その前の五時に行こう。夕方の番組はないだろう」

「ええ、そうだけど」

「アナウンス部の部長に通しておくから。五時から『古典芸能鑑賞』

の番組の打ち合わせをやるって言えばいいさ。あの番組は高視聴率

だから、いやとは言わないさ」

「いつも強引なんだから。今日は着物を見るだけですからね」

 啓子は、村瀬を甘く睨んだ。

 

赤坂の呉服屋の店内で村瀬と啓子は、数点の着物を見ている。啓子は、グレーの地に紅梅が裾と肩に描かれている着物に袖を通す。

「お誂えになったようにお似合いです」

「これがいいわ。どう?」

「僕はそっちの古代紫に桜の花を散らしたほうがいいなあ。着てみ

てごらんよ」

 啓子は、古代紫の地に薄桃色の桜を散らした着物を着てみる。

「よく似合うよ」

「そう? 私は梅の方が好きだけど」

「じゃあ、両方買おう。僕とデートするとき桜のほうを来ておいで

よ。番組には君の好きな梅の着物を着ればいい」

「でも、二枚なんて、値がはるから悪いわ。あなたの選んだ桜にす

るわ」

「気にするな。両方ともいただくよ」

「ありがとうございます」

 店員がお辞儀をする。村瀬と啓子は、店を出る。村瀬が、腕時計

を見る。

「六時か。その約束すっぽかせないの?」

「だめよ。こないだも京都行きで大学のサークルの同窓会行かなか

ったんだから」

「今日の約束の相手、男だろう?」

「あら、妬いているの?」

「妬いてなんかいない」

 啓子は、うれしそうに笑う。

「やあねえ。ただのサークルの先輩よ。出張で東京に出てきたんだ

って」

「僕は局に帰る。そいつと別れたら、すぐに携帯に電話してくれ。

すぐに君を迎えに行くから」

「わかったわ」

 村瀬と啓子は、別々の方角に歩いていく。

 

表参道の・ミュージアム店は、照明を幾分落としている。重厚なクラッシク音楽が流れている。啓子は、田岡を見つけ、歩いていく。田岡は啓子を見ると、手を挙げる。

田岡と啓子は、食事をしながら話している。

「同窓会、来なかっただろう。どうしているかと思って」

「私もみんなと会えなくて残念だったわ。東京にはいつまで?」

「明日、帰る。今晩だけ、ぽっかり空いたんだよ。お客様からキャ

ンセルがあってね。でも、君は忙しいから会えるとは思わなかった

けど」

「みんな、どう? 変わりない?」

「みんな元気だよ。独身組みはとうとう啓子ちゃんと真理子ちゃん

と俺の三人だけになったよ。皆、ガキまでつくっている」

「もう卒業して十年ですものね。この間、真理子と康子の家に遊び

に行ったの。可愛い子どもが二人もいるのよ。康子、しっかりお母

さんやっていたわ」

「啓子ちゃん、そろそろ結婚するんだって?」

「まさか。相手がいないわ。誰がそんなこと言ったの?」

「真理子ちゃんが……」

 啓子は、笑った。

「いやねえ。結婚するのは真理子よ。四歳年下のエリートだって。

しかも、もうお腹には赤ちゃんもいるんですって」

「そうなんだ」

「私はこんな仕事しているから、付き合う時間もないのよ。番組が

ないときは、台本を読んだり、打ち合わせしたり、資料を調べたり、

これが結構時間がかかるの。友達ともなかなか会えないわ」

「じゃあ、俺は運がいいんだ。時々、テレビで『古典芸能鑑賞』の

司会をしている啓子ちゃんを見ているよ。今朝のニュースも見たよ。

それで会いたくなって電話してみたんだ。ダメもとでね。会えてよ

かったよ。啓子ちゃんは、朝の顔だもんな。すごいよ。うちのサー

クルで有名になったのは啓子ちゃんだけだからなあ。頑張れよ。応

援しているよ」

「ありがとう」

「今朝は疲れているなあって気がしたよ」

「えー、画面を通しているのに、わかるの?」

「そりゃあ、わかるさ。俺、毎朝啓子ちゃんの番組見ているから。

サークルのみんなも君を応援しているよ」

「ご贔屓、ありがとうございます」

「来週の番組で、北岡さんと語りの競演するんだって?」

「ええ、そう。私は、竹取物語をやることになったの」

「竹取物語なら、誰でも知っているから、いいと思うよ」

「仕事の合間を縫って語りの練習もしなくちゃならないから大変な

の」

「そうだ。今度の俺のコンサートでも竹取物語の語りをやらない

か? 九月だし、月とピアノと語りのコラボレーションなんていい

よ。まさに『竹取物語』がぴったりだ。今年は野外ステージでやる

ことにしたんだ」

「どこで?」

「岡山の後楽園。しかも中秋の名月の日にしたんだ。メインの曲目

はドビュッシーの『月の光』。他にも何曲かやるんだけどね」

「田岡さんは学生時代から毎年ピアノコンサートを続けているから

偉いわね。サークルでも、田岡さんのピアノ演奏で合唱してたね」

「ピアニストになれなかったものの手慰みだよ。ただ、好きなだけ

さ。毎回コンサートは赤字だけどね」

「そうかしら? 趣味でピアノを弾く人はたくさんいても、コンサ

ートまでやる人はいないわよ」

「啓子ちゃんに誉められるとは思わなかったなあ。パワー、百倍に

なったよ。ねえ、一緒にやろうよ」

「うーん、やれるかしら?」

「やれるさ。細かい打ち合わせはメールでやればいいし。場所やチ

ケット、パンフレット作成、その他は俺が全部やるからさあ。啓子

ちゃんは、仕事のスケジュールを空けて、来てくれればいいよ。わ

くわくしてきた」

「面白そう。やるわ。ううん、一緒にやらせて。私もなんだかわく

わくしてきた。満月に照らされて、かぐや姫の語りをするなんて素

敵。なんだか学生時代に戻った気分よ。怖いものなんか何もないっ

て気分」

「美人アナウンサーの野並啓子と競演というだけでチケットは売り

切れ間違いなしだよ」

「そうだといいけど」

「コンサートの打ち上げは豪華にいこう」

「そうと決まったら、もう帰るわ。今夜から早速『竹取物語』の語

りの練習をしなくちゃ」

「えー、もう帰るの? まだ、八時だよ。会ったばかりなのに」

「田岡さんに会えてうれしかったわ」

 啓子が立ち上がると、しぶしぶ田岡も立ち上がった。

「わかった。九月のコンサート、頑張ろう。俺もピアノ、一生懸命

練習するよ。そうと決まったら、パンフレット作製にも力を入れる

よ」

 啓子と田岡は、店を出た。二人は、手を振り別の方向へ歩き出す。啓子は、携帯電話を取り出す。

「啓子です。今、どちら?」

手を挙げてタクシーを拾う。

 

ホテルセンチュリーサザンタワーの部屋の中で、啓子は、ベッドに座り『古典芸能鑑賞』の台本を音読している。村瀬は、部屋に入ってくるなり、啓子を抱きしめた。

「ああ、会いたかったよ」

「私も」

 村瀬は、啓子の唇をふさぐ。

「啓子が僕の知らない男に抱かれでもしたらと思うと、仕事も手に

つかなかったよ」

「嘘つき。あなたはそんな人ではないわ。すぐ来ると言って一時間も待ったわよ。時間に正確なあなたにしては珍しいわね。おかげでだいぶ読めたけど」

 啓子は台本を手に取り、再び音読を始める。村瀬は、啓子の身体

に唇を這わせながら、服を脱がし始める。啓子は、台本を読み続け

ている。

「五人の皆様の中で一番私がほしいと思うものをお持ちくださった

方を、他の誰よりも愛情が深いと思い、その方の妻になりましょう」

村瀬、一糸纏わぬ啓子の身体の隅々に口づけをする。

「さあ、おいで。ぼくが啓子の一番欲しかったものをあげるよ」

村瀬は、自分も服を脱ぎ、啓子とともにベッドの中に入る。

「ああ、あの月が天空に昇れば」

村瀬は、なおも台本を読み続けている啓子の唇をふさぐ。

「男とのデートは楽しかった?」

「ただの大学の先輩だって言ったでしょう。あなたとこうしているほうがいい。でも、うれしい。あなたに妬き持ち焼かれるなんて、それって私に惚れているってことでしょう」

「啓子は、僕の大事な人だ」

村瀬はベッドから起き上がり、カバンからプレゼントの包みを取り出し、啓子に差し出す。

「開けてみろよ。遅れた理由はこれだよ」

 啓子はプレゼントを受け取り、あけてみる。箱の中には銀色のストップウォッチが入っている。

「ストップゥッチ?」

 啓子は、ボタンを押したりして、ストップウォッチをいじってい

る。村瀬は、その姿を見つめている。

「どう? 気に入った? 北岡さんに聞いたんだ。彼女もストップウォッチを使って練習するんだってさ」

 啓子は、満面の笑顔になる。

「ありがとう。すごくうれしい」

「最高の五分間を演じてくれよ」

「今、あなたの前で竹取物語の語りをやってみせましょうか」

「勘弁してくれよ。僕はベッドに仕事は持ち込まない主義なんだか

ら」

「それを言うなら、家庭に仕事を持ち込まないでしょう。あなたの

奥さんは、何も知らないのよね。私たちのこと」

「もちろんだよ」

「私はあなたの妻にはなれないのね」

「そんなの最初からわかっていることじゃないか。この三年、女房

とは一度もないよ。女房を抱く気もしない。女としては愛していな

い。僕が愛しているのは啓子だけだ。でも、夫や父親としての責任

がある。僕は絶対離婚はしない。結婚は契約だからね。契約の不履

行はできないよ」

「大学時代のサークルの仲間のほとんどが結婚したんですって。私

は一生妻になることもなく終わるのかと思ったら、なんだか悲しく

なってしまったの」

「今まで結婚したいなんて一度もいわなかったじゃないか」

「馬鹿な人。そんなこともわからなかったの。好きになったら、一

緒に暮らしたいと思うのは、女なら誰でもそうよ」

「結婚なんてつまらないものだよ。燃え上がって結婚しても、あと

は義務と惰性だけだよ」

「その義務と惰性が、愛情なんじゃないの?」

「啓子との関係に義務も惰性もない。いつでも新鮮だ。君は汲めど

も尽きない泉だ」

 村瀬は、啓子をベッドに押し倒す。

 

 ことがすむと、村瀬は脱力して眠りについた。啓子は、傍らで眠

っている村瀬の頬にそっと口づけする。ベッドから出て、脱ぎ散ら

かされた服を身につける。身支度を終えると、部屋から音を立てな

いように静かに出て行く。村瀬は、ベッドでぐっすり眠っている。

啓子は、タクシーを拾い、麻布にある自分のマンションに明け方、帰っていった。

 

翌朝、啓子は、いつものようにバルコニーのプランターの植物に

水をやる。深呼吸を一つすると、ストップウォッチを片手に『竹取物語』の語りの練習を始めた。

「ああ、あの月が天空に昇れば、その時が、おばあ様とおじい様と

のお別れの時です。天界に戻っても、私はお二人のご恩は決して忘

れはしません」

 ストップウォッチがピッピッと鳴る。携帯電話も鳴る。液晶画面

に村瀬の文字。

「はい、啓子です。おはよう。今、家よ。ええ、語りの練習をして

いるの。だめ。会いたいけど、だめ。あなたが来たら、練習が出来

なくなるから。『古典芸能鑑賞』の番組が終わるまで、あなたと会わ

ないことにしたの。成功するための願掛けよ。あと四日間だけじゃ

ない」

「そっか。つまらないなあ」

 村瀬の家は、文京区にある洒落たつくりの一戸建てだ。村瀬頼子

が庭の手入れをしている。頼子が、庭から部屋に入ってくる。

「じゃあ、明日局で」

村瀬は、慌てて携帯電話を切る。

「あなた、休みなのに仕事の電話?」

「ああ、うん」

「仕事のことを忘れて休まないと身体が持たないわよ。いつまでも

若くないんだから」

「ああ」

 村瀬は、携帯電話をズボンのポケットに入れる。

 

 啓子は、携帯電話をサイドテーブルに置く。再びストップウォッ

チのボタンを押して、真剣な顔で語りの練習を始めた。しばらくし

て、ドアチャイムが鳴った。

「はい」

「呉服屋ですが、お着物をお届けにあがりました」

啓子は呉服屋から着物を受け取ると、二枚の着物をベッドの上に

広げ、交互に羽織って鏡で見る。啓子は、村瀬に電話をする。

「啓子です。今、大丈夫ですか?」

「いいよ。嬉しいね。先は冷たくあしらわれたけど、すぐ電話してくるなんて」

「今、着物が届きました。やっぱり、あなたが選んだ古代紫の方を

着ることにします。こっちの方が顔に映えるの。あなた、さすがだ

わ」

「だろう。ごめん、カミさんが呼んでいる。切るよ」

「かみさんが呼んでいるか……」

 啓子は、携帯電話をベッドに放り投げ、ベッドの上に寝転んだ。

 

 フロアープロデューサーが、カメラの位置や照明をチェックして

いる。フロアープロデューサーの指示に従ってADが動いている。

啓子は長い髪を結い上げて、古代紫の地に薄桃色の桜を散らした

着物を着て、スタジオに入ってきた。一瞬、スタッフの目が啓子

に釘付けになった。

「おはようございます。これからよろしくお願いします」

「野並さん、今日は艶やかですね。女優顔負けだ」

フロアープロデューサーが言った。

「今日は司会者兼語り部ですからね。少しは華がないとね。カメラ

さん、綺麗に撮ってね」

「もちろんですよ」

 幸子も、結城紬の着物を着てスタジオに入ってきた。

「北岡さん、おはようございます。心臓が飛び出してきそうです」

「野並さん、朧月夜の君みたいね。お美しいわ。着物の見立てのセ

ンスがいいわね」

「ありがとうごさいます」

フロアープロデューサーが手で番組が始まる合図をする。啓子と

幸子は、並んで座っている。啓子の笑顔がアップになる。

「今日は北岡幸子さんの源氏物語の語りの前に、私、野並啓子が『竹

取物語』の語りをやらせていただきます」

 スタジオの照明が暗くなり、啓子にスポットライトが当る。

「五人の皆様の中で、一番私が欲しいと思うものをお持ちくださっ

た方を、他の誰よりも愛情が深いと思って、その方の妻となりまし

ょう」

 啓子の語りが終わると、スタジオのライトがぱっと点き、拍手が響いた。

「あなたの語りから、愛するものを残して月に帰らなければならな

いかぐや姫の悲しみと五人の男たちの滑稽さが伝わってきました

よ」

「ありがとうございました。テレビをご覧になっている皆様はどう

お感じになりましたでしょうか? さて、これから、皆様のお楽し

みにされている北岡幸子さんの源氏物語の語りです。今日は『朧月

夜の君』です。それでは北岡幸子さん、お願いします」

スタジオの照明が落ち、幸子にスポットライトが当る。

「朧月夜のこと。紫辰殿では左近の桜の花見の宴が催されていまし

た。源氏の君はこの日も舞や詩作で人々からの賞賛を一身に浴びて

おいでになりました。源氏の君はほろ酔い加減で宮中の廊下を歩い

ていると、『朧月夜に似るものぞなき……』と唄いながら廊下をこち

らに近づいてくる姫ぎみがいらっしゃいました」

幸子が語り終えると、スタジオの照明がぱっと明るくなった。

「北岡さんの語りはいつもながら素晴らしいです。朧月夜の君は、

受身ではなく、自分から恋に忠実になり、情熱的に燃え上がります。

その恋に打算がない。セクシーで華やかです。こんなかわいい女性

だからこそ、朱雀院は、光源氏との不倫を許し、愛し続けたのです

ね」

「その通りです。朧月夜は、光源氏との関係も最初は受身でしたが、

しだいに自分から恋を追い求め、自分の性の欲求に正直に生きるこ

とを恥としません。この辺は六条の御息所の気位の高さとは正反対

ですね。私は六条の御息所の次に好きなのが朧月夜です」

「光源氏は、この朧月夜の君との密会が右大臣に見つかり、官位を

剥奪され、須磨へ流されることになります。そして、流された須磨

の地で明石の君と出会います。来週は、明石の君です。来週またこ

の番組でお会いしましょう」

 啓子の笑顔がアップになり音楽が流れる。番組の撮りが終わると、

啓子は、ほっとした表情になる。

「北岡さん、お疲れ様でした」

「あなたが緊張している姿を初めて見ましたよ」

「語りってエネルギーがいるんですね。なんだか体中の力がいっぺ

んに抜けたような感じです」

「いいできでしたよ」

「よかった。この一週間、大好きなものを断って『竹取物語』の語

りに掛けてきましたから」

「舞台の語りは、テレビと違って一方通行ではないの。客席からエ

ネルギーをいただくんです。舞台をやったら、あなた、語りを止め

られなくなるわよ。だから、この年でも続けているのよ」

「北岡さんは、若いですよ。肌の色艶といい、とても実年齢には見

えませんよ」

「ありがとう。あなた、着物がよくお似合いよ。それに見立てがい

いわ」

「ありがとうございます」

 村瀬が、サブから降りてきた。

「北岡さん、お疲れ様でした。野並の語りはどうでした?」

「私の弟子にしたいくらい。野並さんの着物を選んだの、村瀬さん

でしょう」

「いやあ、まいったなあ。なんでもお見通しなんですね。北岡さん

は」

「年取るとね、見なくてもいいことまで見えてしまうのよ」

 幸子は意味深な笑顔を残して、スタジオを去っていった。村瀬は、

啓子にそっと耳打ちする。

「いつものところで。そのままでおいで」

 啓子は無言で頷く。村瀬は、スタッフたちに「お疲れ様」と声を

掛けながら、スタジオを去っていく。

 

ホテルセンチュリーサザンタワーの部屋では。、村瀬と啓子は、夜

景を眺めながら、グラスを合わせた。

「語りの大成功に、乾杯。今日の啓子は一段と美しい。昔、時代劇

で悪者が美女の帯を手荒く解くシーンがあっただろう。あれ、一度

やってみたかったんだ」

「じゃあ、叫びましょうか?」

村瀬は、啓子の帯を手荒く解く。啓子は、帯を解かれながら、く

るくる回る。

「アーレー、何をなさいます」

 村瀬は、笑い出す。啓子も笑う。

「好きだよ。大好きだ」

 村瀬は、啓子を抱きしめる。嵐のようなひと時がすぎた後、村瀬

と啓子は、素肌にガウンを羽織り、小さなテーブルセットに座りな

がら酒を飲んでいる。

「なんだかハイな気分。やり遂げた満足感でいっぱいよ。この一週

間、あなたと会えないのは辛かったけど、見返りは十分にあったわ。

あなたは、何をしていたの?」

「啓子が相手にしてくれないから、局からまっすぐ家に帰っていた

よ」

「ほんとうかしら? 怪しいなあ」

「ほんとうだよ」

 村瀬は、啓子にキスをする。

「私、もっともっと山を登りたい気分。いっそ、アナウンサーを辞

めて、語り部になっちゃおうかしら?」

「何、馬鹿なことを言っているんだ。人も羨むニュースキャスター

の君が」

「確かに今はね。でも、これから先の保障はないわ。十年先もニュ

ースを読んでにっこり笑っていられる自信はないの。アナウンサー

の賞味期限は、あと二、三年ってとこじゃないかしら。あなただっ

て、私から若い子に乗り換えるんじゃない?」

「馬鹿だなあ。そんなことあるわけないだろう。語り部では食って

いけないんじゃない? 北岡さんは例外だけど」

「そうね」

「語りは趣味でやればいいさ」

啓子は、村瀬の腕枕で眠りにつく。村瀬の携帯電話が鳴る。村瀬

は、そっと啓子から腕をはずし、ベッドから起き上がり、携帯電話に出る。啓子の様子を伺いながら、小声で話しだした。啓子は電話の着信音で目が覚めたが、ベッドで眠っているふりをしていた。村瀬は啓子の顔を覗き込むと、音を立てないように服を着て、静かに部屋から出て行った。啓子は、ベッドの中から、村瀬が出て行く姿を見ていた。

 

 翌朝、アナウンサー室で啓子が机の上の資料に目を通していると、

めぐみが入ってきた。

「野並さん、おはようございます」

「おはよう」

「野並さんの『古典芸能鑑賞』すごく評判よかったみたいですね」

「そう? 誰から聞いたの?」

「村瀬さんから」

「いつ、聞いたの?」

「昨夜遅くです」

啓子の顔色が変わる。その時、村瀬が書類を持ってアナウンサー

室に入ってきた。

「おはようございます」

「やあ、おはよう。野並さん、昨日の番組、いつもより視聴率が三

パーセントも上がっているよ。君の語りの評判がすごくいい。また、

君に語りをやって欲しいという電話、ファックスがいっぱい来てい

るよ」

村瀬が、啓子に書類を渡す。啓子は、にこりともしないで受け取

った。

「そうですか」

 村瀬は、啓子の肩をぽんと叩く。

「もっとうれしそうな顔をしたらどう?」

「ありがとうございます。番組の評判のことは、めぐみちゃんからたった今、聞きました」

 村瀬が、めぐみの顔をみる。めぐみは、にやりとした。啓子は、

怒った顔をしている。村瀬は、困った顔になった。

「来週の打ち合わせはいつしますか?」。

「そうだなあ。今日の三時、小会議室で」

「はい、わかりました」

 啓子はむっとした表情のままで返事をした。村瀬は困惑した表情

で部屋を出て行く。

「今日のお昼ご一緒してくれませんか? 相談したいことがあるん

です」

「いいわよ」

 めぐみは、自分の席につく。啓子は、資料を読む。

 

赤坂のスターバックス店内で、啓子とめぐみは向かい合って座っている。

「私、とうとう、村瀬さんと寝ちゃったんです」

「……いつ?」

「五日前です。局の廊下ですれ違ったとき、誰もいなかったから、

私、自分から食事に誘ったんです。で、その日のうちに彼を落とし

ました。それから、もう、毎日」

「相談というより、おのろけ?」

 めぐみは勝ち誇ったような表情で、啓子の顔をじっと見る。

「あれ? 何か怒っています?」

「そんなことないわ」

「昨日のことなんですけど。ベッドに入るなり、私を抱かないでグ

ウグウ寝てしまったんです。ひどいと思いません。女として否定さ

れたみたいで、悔しくて」

「疲れていたんでしょう。きっと」

「そうですか? そうかもしれません。啓子さんがそう言うなら」

「えっ?」

「局アナ皆が知っていますよ。野並さんと村瀬さんのこと」

 啓子は、驚きを隠せない。めぐみは、不敵な笑いを浮かべる。

「野並さんは身体で番組を取ったって陰で皆噂していますよ」

「村瀬さんと私はそんな関係ではないわ。邪推しないで」

 啓子は立ち上がり、お店を出ようとする。その背中に投げつける

ようにめぐみが言う。

「私、野並さんの朝の番組の後釜になりますから」

啓子は立ち止まり、めぐみのもとに戻り、怒った顔でめぐみの目

の前に立った。

「村瀬さんの名誉のために言うけど、彼は公私混同する人ではない

わ。それに私は、愛情のない相手とは寝ない。番組は実力で取るも

のよ。そんな甘い世界ではないわ。アナウンサーを冒涜しないで」

 啓子は、めぐみの頬を思いっきりひっぱたいた。めぐみは、頬を

押さえた。

「私と村瀬さんを侮辱したお返しよ」

 啓子はめぐみを残し、店を出て行く。

   

テレビ局の会議室で村瀬と啓子は、資料を見ている。

「啓子の語り、すごく評判いいよ。来週も五分くらいの短いのをや

ってみるか」

「ええ、やらせていただけるなら、ぜひ、やりたいです」

「よし、決まりだ。じゃあ、演目は何がいいかなあ?」

「四谷怪談なんてどうです?『村瀬さま、裏切りましたね』」

「おい、よせよ。まだ、夏には早いよ」

「めぐみちゃんと寝たのね」

「あのお喋りめ」

「ひどいわ。私が語りの練習をしているときに」

「ごめんよ。啓子、怒らないでくれよ。向こうから誘ってきたんだ。僕からではないんだ。強引なんだよ。まいったよ。若い女の子に涙目で口説かれてみろよ。男なら誰だって行っちゃうよ」

「毎晩会っていたそうねえ」

「君なしで寂しかったんだ」

「一度だけなら弾みだって許せるけど、毎晩なんて……。もう私た

ち、終わりにしましょう。今まで育ててくれてありがとうございま

す」

 啓子は、涙ぐみながら会議室を飛び出そうとする。

「語りの演目はどうするんだ」

 啓子は、立ち止まり、振り返る。頬には涙が光っている。啓子は、

部屋の中に戻って来て、椅子に座る。村瀬は、啓子の頬に触れよう

と手を伸ばす。啓子は、村瀬の手をよける。

「それではお互い私情を挟まずに、打ち合わせの続きをしましょう」

「うん。それでは何にする? 短くできて、源氏物語に引けを足ら

ないものは?」

「『落窪物語』はいかがでしょう。『古典芸能鑑賞』は、この一年間は源氏物語をやっていきます。毎回五分のコーナーを私に下さるなら、『落窪物語』を少しずつやりたいです」

「『落窪物語』ねえ」

「『落窪物語』は、現存する物語としては日本最古のひとつとされています。一言で言えばシンデレラストーリーです。心美しく不幸な少女が、美形の貴公子に救われる。その上、美形の貴公子は、生涯ただ一人の愛した女性を守り抜くんです。これはいつでも女が夢見るパターンです」

「生涯ただ一人の女性を守りぬく男がいたら、俺が見てみたいよ。

まだ、光源氏のほうが人間らしい」

「『落窪物語』は、『源氏物語』に遜色ないと思います」

「よし、わかった。『落窪物語』でいこう。とりあえず、来週は一番

印象的なシーンでいこう。そして、評判がよければ、五分の語りの

コーナーを僕が責任を持って企画として通す。だから、君は来週、

最高の出来の語りをやってくれ。いいね」

「はい。ありがとうございます」

「『落窪物語』のアレンジはどうする? 君に任せて大丈夫? それ

とも構成作家に頼む?」

「私にやらせてください」

「了解。君に任せるよ。君に期待しているから頑張れよ」

「はい。それから朝の番組ですけど、続投させてください」

「もちろん、そのつもりだよ」

「めぐみちゃんが私の後釜に成るって言っていましたけど」

「そんなことはしない」

「私は、あなたと寝たから朝の番組を持てたの?」

「そんなことはないよ。実力がなければ抜擢できないよ。でも、僕

は君のことが好きだから、実力のある君を推した」

「ありがとうございます。今日の打ち合わせはもう終わりでしょう

か?」

「うん。なんだか他人行儀だなあ」

「はい、私たちはもう他人ですから。それでは失礼します」

 啓子は、部屋を出て行く。村瀬は、啓子の後姿を見詰めている。

 

アナウンサー室で、めぐみは、机に突っ伏して泣いている。他の

アナウンサーたちが心配してよってくる。

「めぐみちゃん、どうしたの?」

 めぐみは、顔を上げる。頬が赤くなっている。

「野並さんにひっぱたかれたんです。私のどこがいけなかったので

しょう」

「理由もなく打ったの?」

「はい」

「人気アナだと思っていい気になっているんじゃない?」

 啓子が、資料を抱え部屋に入ってくる。めぐみの周りにいるアナ

ウンサーたちが、啓子を冷たい目で見る。啓子は、素知らぬフリを

して、自分の机に座る。アナウンサーたちが、啓子の机のそばに来

る。

「野並さん、あなた、めぐみちゃんを理由なく打ったんですって」

 啓子は、めぐみを睨む。

「私はそんなことしないわ。明日の番組の準備があるから、悪いけ

ど邪魔しないで」

 啓子は皆を無視して、資料を読む。背中に突き刺さる冷たい視線

を感じた。

 

夕方、テレビ局の屋上で、啓子は、深刻な顔をして、金網ごしに下を見ている。啓子のピンクの花柄にレースの縁取りがあるハンカチが、金網を越えて、下にひらひらと落ちていく。

「野並さんは身体で番組を取ったって、皆、陰で噂していますよ」

めぐみの言葉が頭の中でリフレインする。啓子の頬に涙が伝う。

堪えきれずに嗚咽する。

その時、啓子の携帯電話が鳴る。携帯電話の液晶画面。村瀬の文字。鳴り続ける携帯電話。啓子は、携帯電話を見詰めたまま出ない。しばらくして、呼び出し音がやむ。再び携帯電話が鳴り出す。液晶画面の文字。田岡。啓子は、携帯電話に出る。

「田岡です? 今、大丈夫?」

 恵子は黙ったまま。啓子の嗚咽が聞こえる。

「啓子ちゃん、どうした? 何かあったのか?」

「私って、いやな女かしら?」

「そんなことないよ。惚れ惚れするくらいいい女だよ」

「今、局の屋上にいるの。ハンカチがひらひらと落ちていったわ」

「屋上で、ハンカチがひらひらって。落ち着けよ。馬鹿なこと考え

るなよ」

「恋人に裏切られたの。それで恋人を寝取った後輩を殴ったの。私

は実力で番組を取ったのに……それなのに」

 啓子は、感情がせりあがってきて、こらえきれずに激しく泣き出

した。

「わかった。啓子ちゃんは悪くない。待っていろ。今からそっちに

行くから」

「来てくれるの? 岡山から? まさか」

「ああ、行く。必ず行く。だから馬鹿な真似だけはするなよ。今す

ぐ、家に帰って、自分の部屋の中へ戻れ。約束してくれ。俺が行く

まで、馬鹿なことはしないって」

「わかった。約束する。田岡さんって頼りになる兄貴ね。いつも」

 啓子は、放心した様子で遠くを眺めている。夕日に染まる空。

 

一方、田岡は、オフィスで携帯電話で話している。同僚は、隣の席でそれとなく聞いている。

「すぐ行くよ。だから待っていて」

「今の電話、これ?」

 同僚は、右手の小指を立てる。

「違うよ。そんなんじゃない。彼女なんていないの、お前もよく知

っているだろう」

「確かに」

「後輩がピンチなんだ。だから、これから助けに行く。今日はこれ

で仕事はお仕舞いだ。先、帰る」

 田岡は、机の上を急いで片付ける。

「後輩のピンチを助けに行くって、おまえ、ウルトラマンか?」

「まあね。そんなとこ。お先。明日は休むかも。フォローよろしく」

 田岡は、カバンを持って出て行く。同僚は、あきれている。田岡

は、会社を出ると、そのままタ。タクシーを拾い、岡山駅に向かっ

た。

 

 啓子は、家で酒を飲んでいる。携帯電話が鳴る。

「もしもし、啓子ちゃん、田岡だけど。今、東京駅についた。タク

シーに乗ってすぐ行く」

「うっそお。ほんとうに来たの。岡山から。信じられない。ハハハ」

「酔っているの? それ以上飲むなよ。今行くから」

 啓子は、笑いながら携帯電話を切る。

「なんで田岡さんが来るの? 信じられない。男なんて皆、信じら

れない」

 啓子は、酒を飲み続けている。再び携帯電話が鳴る。

「はい、野並です」

「ぼくだよ。酔っぱらっているな。おれのせいだね。今、どこにい

るんだ」

「家よ」

「これからそっちに行っていいか? 僕の話を聞いてくれ」

「だめ、来ないで」

「啓子、僕には啓子が必要なんだ」

「あら、そうなの。ちっとも知らなかった」

 啓子は、携帯電話を切る。再び携帯電話が鳴る。

「何度もうるさいわね。来ないでよ。あなたの顔なんて見たくない

んだから」

「啓子ちゃんが心配で岡山から出て来たんだけど」

「ああ、田岡さんだったの。ごめんなさい。今、どこ?」

「啓子ちゃんのマンションに着いた」

「じゃあ、上がって来て」

「啓子ちゃんの泣き声聞いて、ここまで来ちゃったけど、俺、一応

男だし。まずくないか? 女性の一人住まいに上がりこむのは」

「いいわよ。田岡さんだもの。兄貴みたいなもんだから」

「……わかった、今行くよ」

 ドアチャイムが鳴る。啓子は、ふらふらした足取りでインターホ

ンを取る。

「はい」

「俺だけど」

 啓子は、ふらふらと玄関に向かった。啓子は、ドアを開け、田岡

を中へ入れる。

「田岡さん、ほんとうに来てくれたんだ」

 啓子は、田岡に倒れ掛かる。田岡は、啓子を受け止める。

「大丈夫か? 飲みすぎだよ」

 田岡は、啓子を支えながら、部屋の中へ入る。綺麗に整頓された

部屋。テーブルの上には、ワインの空き瓶が何本もある。啓子をソ

ファに座らせると、自分も対面にどかっと腰を下ろす。

「こんなに飲んじゃって、何があったんだ?」

「もう、男も女も信用できない。可愛がっていた後輩に恋人を寝取

られちゃったの。もう、だーれも信じない。あっ、田岡さんは別よ。

うっ、気持ち悪い」

 啓子は、口を手で押さえてトイレに駆け込む。便器に顔を突込み

吐いている。田岡は、啓子の背中をさする。

「大丈夫か?」

 田岡、コップに水を入れて持ってくる。

「ほら、水を飲めよ。楽になるから」

 啓子は田岡からコップを受け取り、水を飲む。また、便器に顔を

突込み吐く。

 

翌朝、啓子は、ベッドの中で目覚める。田岡は、服を着たままベッドの下で寝ている。啓子は、田岡の寝顔を見て微笑む。

「私が泣きたいときは、いつもそばにいてくれたのね。田岡さん、

あなたは私の青い鳥だったの?」

 啓子は田岡をそのままにして、身支度を整えている。ドレッサー

の前で口紅を引く。身支度が整うと、啓子はキッチンで、朝ごはん

の支度をする。テーブルの上には簡単な朝ごはんと置き手紙と鍵が

ある。啓子は、颯爽と出て行く。田岡は、ドアの閉まる音で目を覚

まし、部屋をきょろきょろ見回す。

「啓子ちゃん」

 田岡は、テーブルの上の書き置きを読む。

『田岡さん、おはようございます。昨夜は、ありがとうございまし

た。岡山からわざわざ来ていただき、ほんとうにご迷惑をおかけし

ました。朝食の用意をして置きましたので、食べてください。私は

朝の番組がありますので先に行きます。部屋の鍵は下のポストに入

れて置いてください』

「なんだ、あいつ。もう、すっかり元気になっている。変わらない

なあ。俺、何やっているんだろう」

 田岡は、時計を見る。時計は五時半を指している。

「俺も会社に出るか。午後には間に合うな」

   

 朝のスタジオでは、カメラマン、スタッフが番組の準備でざわざわしている。啓子は、机の前に立っている。フロアープロデューサーがキューを出す。テレビ画面モニターは、広島県の宮島が映る。啓子の顔がアップになる。

「今日は安芸の宮島からお伝えしました」

 放送が終了する。村瀬が、サブから降りてきて、啓子の肩をポン

と叩く。

「お疲れ様」

「お疲れ様でした」

 啓子は、村瀬に会釈してスタジオから出て行く。村瀬は、スタッ

フに声を掛けながら、啓子のあとを追う。追いつき、啓子の腕をつ

かむ。

「話があるんだ」

「私にはありません」

 啓子は、村瀬の手を振り払い、去っていく。村瀬は、啓子の後姿

を見つめている。

   

こじんまりした小さな店。隠れ家的雰囲気の店だ。啓子は、窓の

外を見詰めながらランチを食べている。ランチを食べ終わると、

コーヒーを飲みながら、『落窪物語』を読んでいる。村瀬が、店の

前を通りかかり、店内の啓子と目があう。村瀬は、店の中へ入ってくる。

「やあ、ここいいかなあ?」

「お好きなように」

「ほんとうはここにくれば君がいるような気がしてね」

 啓子が、苦笑する。

「……、私もあなたが来るような気がして通りが見えるこの席に座

ったのかもしれない。長年の習慣って怖いわね」

 啓子と村瀬、見詰め合う。

「ああ、たまらない。啓子、店を出よう」

 村瀬は、強引に啓子を連れて店を出た。村瀬をこっそりつけてきためぐみは、村瀬と啓子の姿を見つけ、電信柱に身を隠し、携帯で二人の姿を隠し撮りする。

村瀬は、タクシーを拾い、啓子とともに乗り込んだ。めぐみはその姿も写真に撮る。めぐみも、タクシーを拾い、二人の後をつける。村瀬と啓子を乗せたタクシーが走っている。めぐみを乗せたタクシーが、そのあとを追う。ホテルセンチュリーサザンタワーの前で村瀬と啓子を乗せたタクシーが停まる。めぐみも、少し離れた所でタクシーから降り、ホテルに入っていく二人の姿を撮る。

 

ホテルの部屋の中では、村瀬が啓子を抱きしめる。二人は、ベッ

ドで激しく求め合う。

啓子は、村瀬の腕枕で横たわっている。

「理性があなたを拒否しても、身体は正直だわ」

「啓子、僕を許してくれ。啓子なしの人生なんて考えられない。め

ぐみはただ若いだけで、こんなに満たされない」

「そんなの勝手だわ。私は泣きたいときにそばにいてくれる人を選

ぶことにしたの。あなたには奥さんがいるじゃない。こんなことは、

今日で最後にしましょう。奥さんを大切にしてあげて」

啓子はベッドから出て服を着ると、村瀬を残し部屋を出て行く。

 

翌日、朝、アナウンサー室に啓子が入っていく。

「おはようございます」

 数人の同僚アナウンサーたちは、啓子を無視してひそひそ固まっ

て話している。一人がスポーツ新聞を持っている。めぐみと部長が

一緒に部屋に入ってくる。

「野並さん、ちょっと。じゃあ、浅田さん、いいね。しっかり台本

読んでおいて」

「はい」

 めぐみは、ニコニコしている。啓子は、怪訝な顔をする。啓子は

部長に呼ばれ、部長とともに部屋を出て行った。会議室に入ると、

部長がスポーツ新聞を広げた。新聞の一面にでかでかと、ホテルに

入る村瀬と啓子の写真が掲載されていた。『人気アナ野並啓子と敏腕

プロデユサー村瀬との道ならぬ恋』とタイトルには書かれている。

啓子はスポーツ新聞の誌面を食い入るように見る。

「誰がリークしたか知らないが、村瀬さんと君の写真がでかでかと

出てしまった。真偽はともかく、君をこのまま朝の番組のニュース

キャスターにしておくわけにはいかない。悪いけど、君には番組を

降板してもらうよ」

啓子は、唇をかみ締めている。

「誰がこんなことを」

「ここに書かれていることは事実なのか?」

「いいえ、ひどい中傷です。ラブホテルではないじゃないですか。ホテルで打ち合わせすることだってあります」

「君も村瀬も隙があったということだね。人前に顔をさらす仕事をしているんだから、十分注意すべきだったと思うよ」

「あの、村瀬さんはどうなるんですか?」

「人の心配より自分の心配をすべきだと思うけどね。村瀬は一ヶ月

の謹慎処分が出た。君は今日から資料部に移動になる」

「え、今日からですか?」

「そうだ。部屋に戻ったら荷物をまとめて移動だ」

「それでは『古典芸能鑑賞』の司会は、どうなるんですか?」

「君は資料部に移動だから、他の人が代りにやるから心配いらない

よ」

「それでは、語りのコーナーもなしですか? 私、『落窪物語』をや

ることになっていたんですけど」

「なくなるよ。当然だろう。資料部が嫌なら、局をやめてもいいん

だよ」

 部長は、啓子の肩に手をまわす。

「魚心あれば、水心あり、っていうだろう。君次第で、悪いように

はしないよ」

 啓子は部長を睨みつけ、部長の手を振り払う。

「私はそんな女ではありません。これはセクハラになりますよ。村

瀬さんは、セクハラはしていません」

「自由恋愛ってわけか? 村瀬は結婚しているよ。君たちのしてい

たことは不倫だよ」

 啓子は立ち上がり、部屋を出て行く。

「気の強い女だ。村瀬のやつ、よく落としたなあ」

 部長は、啓子の後姿を見ている。

 

啓子がアナウンサー室に戻ると、同僚たちは、固まって啓子に冷

たい視線を送る。啓子は、毅然とした態度で、机の荷物を段ボール箱に入れている。めぐみが、啓子の目の前に勝ち誇った顔で立った。

「野並さん、朝の番組、今日からいただきました。私、言いました

よね。野並さんの後釜になるって」

啓子はめぐみを睨みつける。

「めぐみちゃん、あなたね」

めぐみあは、啓子から少し離れる。

「おっと、殴らないでください。これから本番ですから」

めぐみは、勝ち誇ったように高笑いして出て行く。啓子は、悔し

そうに乱暴に残りの荷物を段ボール箱に入れる。啓子は立ち上がり、同僚たちにお辞儀をする。

「みなさん、お世話になりました」

「野並さん、辞めちゃうの?」

「いいえ、辞めません。今日から資料部に移動です」

「資料部へ」

「姥捨て山の資料部に」

「ええ、喜んで姥捨て山に行きます。こんなことで辞めたら、私の負けですもの」

 啓子はダンボール箱を抱え、肩にバックをかけ、部屋を出て行く。

同僚たちは、ひそひそと話している。啓子はダンボール箱を抱えて

颯爽と歩いている。そうしないと、くずれそうだからだ。

 資料部は地下一階にある。薄暗い部屋だ。小林雄太の机の上には

今朝のスポーツ新聞が広げられている。山崎直子、神部淳子、佐伯

裕子は、小林の机の周りに集まり、新聞を見ている。そこに啓子が、

段ボール箱を抱えて入ってくる。

「おはようございます。今日から資料部に移動になった野並啓子で

す。よろしくお願いします」

「私が室長の小林です。こちらから山崎さん、神部さん、佐伯さんです」

「あら、実物の方が美人じゃない」

「騒がれるのもこの一週間よ。一ヶ月もすれば、みんなけろっと忘れるから心配要らないわ」

「『古典芸能鑑賞』楽しみに見ていたのよ」

 啓子は、一人、一人と握手する。

「ここでは新人ですので、いろいろ教えてください」

「首にならないだけましさ。資料部も捨てたもんじゃないよ。今ま

で君は表舞台で活躍していたけど、我々資料部のような縁の下の力

持ちがあってこそなんだから」

「はい。番組の前には必ず資料には全部目を通していましたから。

よくわかっています。感謝しています。今までありがとうございま

した」

 啓子は、深々とお辞儀をした。

「あら、かわいいところがあるじゃない。花形キャスターで、あな

たみたいに感謝した人は、今までいないわよ。なんとかキャスター

に返り咲かせてあげたいわねえ」

「今資料部に移ってきたばかりです。お払い箱にしようとしないで

ください」

 小林、裕子、淳子、直子たちが笑った。啓子も笑う。

 

田岡は、机でコーヒーを飲んでいる。同僚の山本が、スポーツ新聞を持ってくる。

「おい、これ見ろよ。これ、おまえの知り合いだろう?」

山本は、田岡に新聞記事を見せる。

「うん、どれどれ」

 田岡は、新聞記事を見る。

「こんなの嘘だ。でっち上げだよ。それにしてもひどいなあ」

「火のないところに煙は立たないっていうぞ」

 田岡は、黙っている。

「おまえのコンサートでこの彼女が語りやることになっていただろ

う。どうすんの?」

「あとで連絡してみるよ。おれはこんな記事信じないから」

 田岡は、新聞を乱暴にゴミ箱に投げ捨てた。

 

田岡は仕事が終わると、家にまっすぐ帰り、ピアノを弾いている。曲は月光。時折、指が止まり、物思いにふける。田岡の携帯電話が鳴る。

「野並です。今、いい?」

「大丈夫だよ。ピアノを弾いていたところだから。どう、語りの練習は順調?」

「私、田岡さんのコンサートに出るの、辞める」

「なんで?」

「スポーツ新聞見ていない?」

「見たよ」

「私、ニュースキャスター首になったの」

「それで?」

「田岡さんのコンサートに私が出たら迷惑がかかる」

「語り、やりたくないの?」

「……やりたいけど」

「なら、やろうよ。コンサートは秋だから、それまでにはみんな忘

れるさ」

「記事が真実かどうか聞かないの?」

「そんなことどうでもいいよ。それより、これからどうすんの?」

「今日から資料部に移動になったの。番組は全部降ろされたけど、

局を首になったわけじゃないから」

「困ったことがあったらいつでも相談に乗るから」

「うん、ありがとう。なんだか元気が出た。本当に一緒にやってい

いの?」

「いいよ」

 田岡は電話を切ると、窓の外の月を眺めた。啓子も電話を切ると、

窓を開けて、夜空を見た。夜空には三日月がかかっていた。

 

一週間後、啓子の部屋に康子、真理子が尋ねてきた。

「それにしても啓子、大変だったわね」

「ありがとう。身から出た錆ね」

「私、夫と別居したの」

 康子が言った。

「なんで?」

 結婚を控えた真理子が聞いた。

「夫の浮気」

 康子は、ため息を漏らした。

「私も三年付き合った彼と別れたの。もう二人ともよく知っている

と思うけど。やっぱり彼の浮気が原因。しかも後輩アナウンサーが

新聞社にリークしたの。彼の浮気相手が」

「彼の浮気って? 妻の立場からしたら、啓子こそ浮気相手じゃな

い。妻の敵よ。啓子にとって今回のことは天罰よ」

 康子が強い口調で言った。

「そうだね。でも、こんな時でも、来てくれる康子と真理子に感謝

する」

「そうよ、感謝してよ。実家の母にお留守番を頼んで来たんだから」

 真理子が、康子と啓子の肩を抱く。

「おお、可哀相な二人」

「そうでもないの。私、タウン誌の記者になったの。子どもが幼稚

園に行っている間に取材して、家で子どもを遊ばせながら原稿を書

いて、メールで送る。結構楽しいのよ。母親が元気なら、子どもた

ちも元気だし。仕事といっても、今はまだ大して稼ぎはないけど。

少しずつ仕事を増やそうと思っているわ」

「私も彼と別れてよかったかも。ふふふ、幸せの青い鳥を見つけた

かも」

康子と真理子が声を合わせて言った。

「わかっているわよ。田岡さんでしょう。ねえ」

「向うの気持ちはわからないけど」

「何言ってんの。啓子の涙声を聞いて岡山から飛んでくるなんて、

大切に思っている何よりの証拠じゃない。とぼけるのもいい加減し

なさい」

 真理子が言った。

「でも、何も言われていないの」

「田岡さんってそういう人じゃない。啓子が告白しなさいよ。じゃ

ないと、チャンスを逃すわよ」

 康子が言った。食事をしながら、三人のおしゃべりは続いた。

 

数か月後の岡山県・後楽園の入り口に「名月鑑賞会『月の光』ピ

アノ田岡克彦、語り野並啓子と書かれた看板がある。庭園内が美しくライトアップされている。大勢の人たちが、野外ステージのほう

に向かって歩いている。

 野外ステージの舞台では黒のタキシード姿の田岡が、ドビュッシーの『月の光』を弾いている。啓子は、真っ白いドレスを着て舞台中央に立っている。ステージの上には十六夜の満月の月が輝いてい

る。

「五人の皆様の中で一番私が欲しいと思うものをお持ちくださった

方を、ほかの誰よりも愛情が深いと思って、その方の妻となりまし

ょう」

聴衆は、啓子の語りをしいんと聞き入っている。ピアノの調べが

静かに流れている。啓子が語り終わると、聴衆は、盛大な拍手を送

った。田岡と啓子は満面の笑みでお互いを見詰めあった。

 

コンサート後、近くのレストランで啓子と田岡は、二人だけのお

疲れ会をしている。啓子と田岡は、グラスを合わせる。

「コンサートの大成功に乾杯」

「田岡さんのピアノ、心にじいんと響いてきた」

「啓子ちゃんこそ、かぐや姫になりきっていたね」

「語りのときは登場人物になりきるけど、実生活はいたって地味よ。

日の当らない資料部でこつこつと資料作りしているんだから。今は、

付き合っている人もいないし」

「そうなの?」

「そうよ。テレビ局の仕事が終わると、家に直行よ。毎晩語りの練

習をしていたわ」

 啓子は、バックからストップウォッチを取り出して、テーブルに

置いた。

「このストップウォッチが恋人かな」

「へえー。なんて幸福なストップウォッチ。手に取ってもいいかな

あ?」

「どうぞ」

 啓子は、ストップウォッチを田岡に渡す。

「うっ、いててて」

田岡は、慌ててストップウォッチをテーブルに投げ出した。啓子は、驚いた。

「田岡さん、大丈夫?」

「手に取った瞬間、電流がビビッビって流れた……なんて、うそだ

よ」

 啓子は、笑いを含んで睨む。

「いやねえ。これをプレゼントしてくれた人が、田岡さんを岡山から呼び出す原因をつくった人よ」

 田岡は、ストップウォッチを手に取る。

「ふーん。やっぱりいわくつきだったんだ。ずっと大事に持ってい

るってことは、まだ、啓子ちゃんはそいつを思っているってことか」

「そんなことないわよ。田岡さんが岡山から来てくれた晩に、過去

はゲロと一緒に全部トイレの中に流しちゃった」

「なら、なんで……」

「新しいストップウォッチを田岡さんにおねだりしていいかし

ら?」

「いいよ。喜んで。でも、俺は啓子ちゃんの過去の男のことなんか

気にしないよ。他人も過去も変えることはできないんだから。変え

ることができるのは、自分自身と未来だけ。今、目の前のことに全

力投球するだけさ」

「田岡さんのそういうところ、好きだなあ。学生時代とちっとも変

わらない」

「啓子ちゃんだってちっとも変わっていないよ。何があってもへこ

まないし、前向きだし。それに今もチャーミングだよ」

 啓子は、微笑んだ。

「目じりに皺が増えたわよ。私、気がついたの。ずっと探していた

幸福の青い鳥は、自分の目の前にいるって」

 田岡は、唾を飲み込んだ。

「……えっ、あの……、それって、もしかして、俺のこと?」

「ほかに誰がいるの?」

 啓子は、田岡の手に自分の手を重ねた。

「毎年、二人でピアノと語りのデュオをやりましょう」

「……毎年って……」

「私にそれを言わせる気?」

「えっ、……、俺と結婚してください」

「はい」

「ほんとうに、ほんとうにいいの?」

「はい、喜んで」

 啓子は田岡と二人寄り添ってレストランを出て行く。テーブルの

上に置き去りになっているストップウォッチ。

 

半年後、夜の六義園。満開の枝垂れ桜の下に舞台が設えてある。舞台の周りにかがり火がたかれている。客席は大勢の聴衆で埋め尽くされている。スポットライトが、舞台中央に正座している啓子を照らす。啓子の薬指にはダイヤの指輪が光っている。

   

                  

      

 

参考資料

『源氏物語の女性たち』瀬戸内寂聴 日本放送出版協会発行

『落窪物語』花村えい子 中央文庫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?