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「ナイフ」を読んで 短編小説集『ナイフ』には五編の小説が収められている。いずれも「いじめ」をテーマとした小説である。今回、私は表題作の「ナイフ」をとりあげることにした。 「ナイフ」は父親とその息子真司が「いじめ」と戦う話だ。父親は「身長百五十二センチ、体重四十四キロ。運動がからきし苦手なうえに性格もおとなしく、腕力とは縁のない四十年を過ごして」きた男である。とてもヒーローになれそうにない。本人も十分自覚している。そのせいか、父親はかつての同級生ヨッちゃんをずいぶ
重松清「ナイフ」(新潮文庫)p101 ナイフを買い、それを肌身離さず持つ父の姿 実際にナイフを使ってやると~とは思ってないと思うけど、そういうものに頼って安心してしまうのは人の弱さなのかも? 自分がナイフを持っていることを誰も知らないことに上機嫌になるのは、頼っていることを知られたくないのかも? ちゃちなナイフだけど『私には似合いのナイフだ』と言い、自分が臆病なことを自覚している。 p105 真司の元へ行く途中、真司が生まれたときのことを思い出す 「生きることに絶望
【準備作業 その1】 一回、最後まで読み通しましょう。まずはそこからです。そして、再読する時、「気になるところ」、「おもしろいところ」に付箋を貼っていきます。もちろん、一回目に読む時に貼ってもかまいません。再読は飛ばし読みでもいいです。 付箋を貼り終えたら、それぞれの付箋に本文を短く書き写していきます。一文を抜き出すのです。この時本文のページを書いておくのを忘れずに。 付箋を台紙に適当に貼ります。この時の台紙はA3コピー用紙などの大きめの紙を用います。全部
自問自答形式によるパラグラフ・ライティング 『読者』を意識させるには、就職試験の作文を課題にするのが最も効果的です。 書き方はパラグラフ・ライティングを元にします。パラグラフの先頭にトピック・センテンスを置き、それをサポートするサポーティング・センテンスを書いていくというものです。 自問自答形式とは、面接の時に質問されることに対して答えていくというやり方です。こうすれば、聞き手である『読者』を意識していくことになります。 面接試験の要領で自分に質問し、自分で答えていきま
「それ、誰に読んでもらうの?」授業で作文指導をする時に忘れてしまいがちなのは、「読者」のことである。「読者」を想定させないと、文章の焦点がぼやけてしまう。 文書には「読者」がいる。「読者」のいない文書といったものは存在しない。そのことを教師は徹底すべきである。読者が教師(=採点者)であるのは授業において避けられないことではあるが、教師が「誰か別の者」に成り代わって読み、採点してもよいではないか。 国語教育におけるいわゆる「国語表現」でもっとも欠けているのが、この「読者」の
サイズの問題を解決することが、「作文が苦手」な学生には効果がある。 〈字数〉についてあらかじめ考えておかないのが、書けない理由の一つである。 パラグラフのサイズパラグラフのサイズは150字~200字である。 縦書きと横書きでは適切な字数が違ってくる。 縦書きの場合は200字程度が適当である。 横書きの場合は150字程度が適当である。 縦書きと横書きの違いは、読点の数もある。 縦書きよりも、横書きの方が読点が必要である。 これは漢字やひらがなの形によるものだと思
「たしかにA、しかしB」の形で小論文を書かせるのは、意味がない。 「しかし」の後の「B」がトピック・センテンスになるのだが、重要な文を目立たさせるというのならば、Bから書き出せばいいのである。 トピック・センテンスを先頭に置く、という原則に反している。 「A」の部分に気をとられる読者も多い、ということを考えていない。 この形を使う者(使わせる者)は、「しかし」があるので、「B」が強調され、自然に「A」が弱くなる、と考えているのだろう。 修辞的にはそうなる可能性が高い
具体例をエピソード化する学生には具体例をエピソード化するのが難しいらしい。 自分はどのようにして身につけたのか。小学生の時、偉人伝を読むのが好きでたくさん読んだ。 三浦一郎の『ユーモア人生抄』を読んで学んだような気がする。 高校生の頃、同級生たちと暇があれば雑談をしていた。 テレビを見るのが好きな奴がいて、昨日見たテレビの話をしてくれる。 自分は9時前に寝て、朝の3時頃に起きる生活をしていたので、夜テレビを見る習慣がなかった。 彼がテレビで見た番組を話してくれるの
ボトム・アップ授業でボトム・アップについて教えるのは難しい。 理論を教えるのは出来るが、実際にそれを学生にやらせるとなると、どれだけ時間がかかるのか。 ある程度制御して、時間制限をつければいいのかも知れないが、中途半端な状態で終わることは目に見えている。 そんな中途半端なものは真のボトム・アップではないだろう。 専攻科の学生にピラミッド・ストラクチャーを作らせたことが何回かあるが、上手く行ったことがない。何回かやって、無理だと判断し、ロジック・ツリーだけにしたのだった
パラグラフの構造がしっかりすれば、読者にとって分かりやすいものになる。ということは、構造が壊れると分かりにくいものになる、ということである。 作文を教えるものは、極力、パラグラフの構造を教えるべきである。 「しかし、」はパラグラフの構造を壊す。 「しかし、」の破壊力は凄まじい。 だから、「その『しかし、』は本当に必要か?」と問うべきである。削除しても問題ない場合が多々ある。
全体指導でできるもの文章の「型」を教えるのは、授業でもできる。 「型」がしっかりすれば、教室内で学生同士が教え合うこともできる。 個別指導すべきもの「発想」というもはとりとめのないものである。 それらを定着させるには、訓練が必要である。 しかも、その訓練は個別的にやらなくてはならない。 「発想」は個人的なものだからだ。 とりとめもない発想をきちんとした文章にするには、個別の指導と訓練が必要である。 授業向きのことではない。 授業で扱うべきものではない。