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日本を原ねて 心の健康 ストレス解消【慈円】

 30 慈円(1155~1225)
まぶさび記 空海と生きる 篠原資明著 株式会社弘文堂
 心遣(や)るという言葉は、慈円から借りたるものだ。「四天王寺百首歌」跋において、慈円は次のようにしるしている。「心をやりたる事は歌のならひなれば」と。これは、慈円が歌の本質を心遣るところに見ていたことをあかすものだろう。
 自らを「マメヤカ歌ヨミ」評した慈円自身の歌も、一首だけ、次に引く。

  うき世いとふ心の色を人はみよ ちる言の葉をよそにおもはで

 この歌は、言語表現に心の色そのものを見てほしいということだから、まさに心遣ることにより生起する事態(じたい)を示しているといえるだろう。なお慈円とほぼ同時代の明恵上人は、自らの歌集「遣心和歌集」と名ずけていた。
 そこにある「遣心」のふた文字は、明らかに心遣ること響き合う。
 慈円と明恵との間に、歌の本質について共通了解のようなものがあったとすれば、興味深い事ではある.              32ページ


いけばなの起源 中山真知子著 人文書院
 慈円は、関白藤原忠通の子で、右大臣九条兼実(1149~1207)の弟にあたり、平安期から鎌倉初期にかけて天台座主を四回もつとめた。また建仁三年には大僧正になり、四天王寺別当にもなっている。…晩年の西行(1118~1190)、藤原定家(1162~1241)、寂蓮(1139~1202)らと広く交流し、歌合、歌会など歌壇でも盛んに活躍した。

 『新古今和歌集』には西行の94首に次いで91首も所収されたほどの歌人で、その死後にまとめられた『拾玉集』は、慈円の和歌の集大成としてだけでなく、和歌を含めた日本文化のひとつの方向を示す重要な書となった。
 …公家の出身であった慈円は、平安末期から鎌倉初期という時代が、政治の上で武士の台頭していく時代である。

 …慈円は道理に基づいた規範を確立し、自分たちの中心になるものを定めなければならないと考えて、歴史の研究に没頭した。
 彼の著した日本における最初の史論書『愚管抄』は、そのような中から生まれた。                   81・82ページ

いけばな日本の美 花鳥風月 講談社
  水の巻
春 花の中の「花」の意味 大岡 信

   花橘も匂ふなり
   軒のあやめも薫るなり

夕暮さまの五月雨に
山郭公(やまほととぎす)名告(なの)りして  慈円
   (七五・四句の歌謡 これを今様と呼ぶ)

花橘(タチバナの花をこういった)の芳香にまじって、軒端に下げた邪気払いのアヤメ(すなわちショウブ)も薫っている。夕暮を思わせるような五月雨空を、ホトトギスがみずからの名を告げつつ鋭く鳴いて飛び去ってゆく。         
                      97ページ

慈円は無為自然をあらわし、生活感情をあらわしている。


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