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ニーチェの神話とソクラテスの論理

こちらはマガジン「Tough」の記事です。
かなめさんが書かれたこちらの記事への応答として書かれています。

かなめさんからいただいた2つの質問についてお答えします。

1.ニーチェの哲学について、どのあたりが気に入ってますか?何か信濃さんの気になるポイントはありますか?

→気に入っているところは、素直なところです。
ニーチェが、キリスト教やソクラテスがいかに偽善的かということを語る部分では、「筆が止まらないぜ…!」という感じで、たいへん饒舌になるのを感じます。言い回しは大げさで、一読して理解できないところも多いですが、著作のなかのメッセージ自体は一貫しているので、読者はメッセージを見失わなければ最後までついていくことができます。

→気になるのは、脱構築の歴史のなかのニーチェの立ち位置はどこか?ということです。
ニーチェは、ソクラテスの「合理性」や、キリスト教の「道徳」といったものの実情を詳しく描くことで、いかにそれがそれ自体の倫理を裏切っているかを証明していきます。これは、現代の哲学や批評のベースになっている脱構築のスタイルそのものだと思います。
ただ、ニーチェが元祖だったかというとそうでもない気がします。なぜなら、脱構築はプラトンの対話編のなかでソクラテスが披露した技でもあるからです。この辺の歴史はいずれ調べてみたいと思っています。

2.私は今回の読んだ論文の問題点として、まずもってドイツを理想視しすぎたところがあるかと考えたのですが、いかがでしょうか。その他になにかあると思いますか?(書きながら、結局ニーチェは哲学しか主張できなかったところに弱さがあるような気もしてきました。つまり具体的に何が起こるのかを主張できなかったのではないでしょうか。これもまた一つの妄想ですが、人は論理で神話を殺すから、逆に神話を、あられもない悲劇や暴力を現実に求めて起こしてしまうのかもしれないと思いました。しかしそれはなぜなのか?)

→ドイツを理想視しすぎというのは私も同感です。世界史に詳しくないので推測ですが、「おれたち●●人こそが、古代ギリシャ文明の真の継承者だぜ」というスタンスは、ルネサンス以降のヨーロッパで繰り返されてきたのではないかと思います。その意味で、ドイツアゲが過ぎるのは、非凡なニーチェの平凡な一面と言って良いかもしれません。

→人が論理で神話を殺し、代わりに現実に神話的な暴力を起こしてしまうのはなぜか、という問いをいただきました。
難しい問題ですが、自分なりの言葉で考えてみたいと思います。

そもそも「神話」とは何でしょうか。
ニーチェは神話とは何かを説明するために、ギリシャに伝わる伝承から次のような一節を引用しました。

王は尋ねた、人間にとって最善最上のことは何であるかと。この魔性のもの(ダイモン)は凝然と不動のまま黙していたが、王に強制され、ついに鋭い哄笑と共に突如次のことばを浴びせたのであった、『哀れ、蜻蛉の生を受けし輩よ、偶然と艱苦の子らよ、汝にとって聞かぬがもっともためになることを、何とて強いて俺に語らせるのだ? 汝にとって最善のことは、とても叶うまじきこと、すなわち生まれなかったこと、存在せぬこと、無たることだ。しかし汝にとって次善のことは、--まもなく死ぬことだ』

『悲劇の誕生』p44

生きることの耐えがたい苦しみをあらわすのに、これ以上の表現は難しいほどのことばです。「偶然と艱苦(なやみ苦しむこと)の子」とあるように、突如災害や病で失われるような儚い生に、古代ギリシャ人は根本的な恐怖を抱いていました。
だからこそ、まるで拷問にかけられた者が恍惚のうちに幻想を見るように、ギリシャ人たちによって神話が発明されたのだとニーチェは言います。「ダイモン(=デーモン)の言葉」として語られたような、逃れられない恐怖への反作用として、神話世界を作り上げてその栄光を称えることで古代人は現実を生き延びました。これは私の想像ですが、古代ギリシャ人は時間も空間も巨大なスケールで展開される神話世界を想像することで、自分の悩みや苦しみがちっぽけなものに思えたのではないでしょうか。

ニーチェが「あたかもバラの花がとげのある茂みから咲き出るよう」だという比喩で表したように、古代ギリシャ人は苦しみの知覚と神話の創造を切り離せない表裏一体として考えていました。
ところが、ある哲学者の登場により、現実を理解することと神話を語ることは別個の事象に分けられてしまいます。それがソクラテスがもたらした論理(合理性、因果律)の効果でした。
ソクラテスは現実を、一定の原因から一定の結果が生じる秩序だった世界として、言い換えれば科学的な世界として認識していました。例えば津波は地震によっておこる現象です。ところが神話では、津波は神によって突然発生し突然終わるものです。科学者ソクラテスからすれば、神話は原因と結果が結びつかない甚だ不完全なストーリーに過ぎません。
こうして現実を理解するための手段には科学がもちいられることになり、神話は格下げされ、一種の心地よいエンタメへ堕してしまいます。これが「論理(科学)が神話を殺した」という事件です。
(もうひとつ付け足すなら、ソクラテスよりあとに登場したキリスト教も、道徳という因果律で世界を説明するものとして、科学同様ニーチェが名指しした「犯人」でした)

ここからはニーチェの書いたことではなく、私の考えたことです。
ソクラテスは論理でもって神話の役割を代替しましたが、それに留まらず、現実をも変えられると考えたのではないか。
プラトン『国家』のなかでソクラテスは、理想の国家とは真理を追求する哲学者によって構築され、統治されるべきだと説きました。真理を追求するということは、物事の根拠をどこまでも論理的に遡っていくことです。その後の人類史において、哲学者の王こそ登場しませんでしたが、真理を追求する道筋としての科学は世界を席巻していきました。より論理的・科学的になれば世界を変えていける。近代国家はまさにその確信のうえに立ち上げられました。だから現代から振り返れば、ソクラテスの哲学はかなめさんの言葉で言う「具体的に何が起こるか」までを論じてみせた、実践的な哲学だったと言えます。

ところが、時代が移り変わっても、そもそも人間が「偶然と艱苦の子」であることはそう簡単には変わりません。ソクラテスは現実を変える哲学を目指しましたが、その後の人間が現実をアンダーコントロールに置いたかといえば、決してそうはなりませんでした。ニーチェいわく、ソクラテスの主張は「世の中をより良くできるはずだ」という「楽観主義」であって、たしかにそれを目指すことはできても、理不尽な現実そのものを無くしたわけではないのです。
のみならず、たいていの暴力は世界をより良くするために行われます。他国への侵攻も、テロとの戦いも、少数者の弾圧も、「やられたからやり返す」という、論理的に導かれた(ように装われた)結論です。

だから、いくら合理的な世界観で現実を解釈しようと、人生のある場面ではやはり、人は「ダイモンの言葉」に直面せざるを得ません。逆に言えば、科学や、道徳的な因果律で説明されるキリスト教には、現実の理不尽を表現する(昇華する)言葉がない。にもかかわらず、近代は相変わらず「現実はより良くできる!」と信じ続け、裏面では暴力を再生産し続けている。
ニーチェは現実に起こること(たとえば20世紀ドイツの暴走)を予測できなかったのは確かですが、一方で神話の不在によって人が現実を直視できなくなった、という「皮肉な現実」をこそ描いてみせたのかもしれません。(本当は、だからこそドイツ芸術こそが新たな神話となる、と信じていたと思いますが、それははじめに述べたように過剰な期待でした)

「人が論理で神話を殺し、代わりに現実に神話的な暴力を起こしてしまうのはなぜか」というかなめさんからの問いに正面から答えることはできませんでしたが、とりあえずのまとめとしては、「人は今も昔も暴力を起こし続けているが、それを論理の力で解決できると楽観的に信じ続けているがゆえに、皮肉にも暴力を無くすことができない」ということになるでしょうか。

最後に、次回のかなめさんへの質問です。
私たちは次の本として、ギリシャ神話の代表的な作品であるホメロスの『オデュッセイア』を読み始めました。私は読みながら、こうした古代の神話と、私たちが普段触れている物語の違いはなんだろうかと考えています。前者が後者の原型になっているのは確かです。しかし違いがあるとすれば、それは古代と近代の違いのような、大きな問題につながるのかもしれません。
かなめさんは神話と物語の違いをどう考えますか?

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