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花鳥の愛

 立ち上がって、さっきまで描いていた彼女の絵をじっと見つめる。彼女のことを思い出すとき、僕は言動ばかりを追ってしまうが、そうだ。僕が殺した女は容姿も美しかった。
 十二年前、都立高校三年二組の教室の片隅。緊張と慣れとが溶け合う時期、彼女に初めて声をかけた。
「おはよう」
「おはよ」
 文庫本を読んでいた彼女の目が僕を捉えた。題名はブックカバーで見えない。「なにを読んでいるの」
 僕が問いかけると、彼女は再び視線を文庫本に落として「お馬さんの詩だよ」と返事をした。
「そうか、ダダの詩か。『いちおー』という動画投稿者も、ダダを歌うのだけれど。もしかしてあなたが、その『いちおー』さんかな?」
 一鶯は、僕の言葉を黙って聞いていた。僕の心臓がどきどき脈打った。目の前の彼女が憧れの存在だと確信しつつも、探るような言い方しかできない自分に嫌気がさした。
「ねえ、今日の放課後、公園に行こうよ」
 彼女に連れられ、僕は歩いた。緊張で喉がからからに乾いて、今すぐにでも帰ってしまおうかとも考えたが、果たして実行には移さなかった。一鶯は、その場しのぎのお道化を許す人ではなかった。「そこに座ってよ」
 公園に着くと、彼女は一台のブランコを示した。僕がおずおず座るのを見届けると、彼女も隣のブランコへ腰を下ろす。

「誰に教わったの」
「だ、誰からも教わっていないです!」「本当かな?」
「本当です!」
 彼女の瞳は、雰囲気は、とても恐ろしい。彼女には大抵の嘘が通らないし、月並の意見が通らなかった。
「好きなのです、あなたの歌が」
「へぇ」
 彼女の心が、疑惑から好奇へと移り変わるのが見えた。
「お前はなんの花が好きなんだい」
 ああ、それだ。そのあやかしが獲物を見つけたときのような、ぞくっとくる冷たさが、僕には駄目だ。目に涙を浮かべて、僕は答えた。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」
「ふふふ、どこまでも女々しいヤツね」
 及第点を享受することのできた僕は、糸が緩んだとたん口が回るようになった。
「一鶯さんの歌は、動画の背景が単色でも映像が見えるので、好きです。あなたが歌をネットワークに流してから二年の間、何度もあなたの歌で絵を描きました」
 貞潔の少女はにっこりと笑った。どこかで、爆発のする音が聞こえた。世界では戦争がおこっていた。ここから、僕たちの付き合いが始まった。
 ひと月後、彼女から作品を見せろと迫られた僕は、彼女の部屋へ招かれた。初めての女子の部屋への往訪に、前回とは違った原因の赤面をした。
「今日はあたしの歌も聴いていってよ」
 一通り僕の作品を見ると、彼女はギターを持って椅子に座った。
「いいの?」
「自分だけ見せてもらう訳には、いかないでしょう?」
 彼女の自信満々の口から歌われる歌は、飴のようにのびやかで、宇宙の拡大を大幅に進行させた。美しい自然の土台に、たくさんの死体があった。胸の締め付けられるその響きは、空気の中で何倍にも揺らめいて、僕は初めて音楽に酔った。
「あたし、もう人前で歌わないようにしようと思っていたの。あんただから歌ったの。押し付けるようで悪いけど、わかってよね」
 ギターのネックを握りしめながら、彼女は怒った調子で言った。改めて、大変な人に出会って仕舞ったと思った。
「もう一曲、聴いて頂戴よ」
 かくは思いながらも、その彼女の弱い部分につけこんで仕舞うことを、僕は選んだ。
「君の歌いたい歌の数が、僕の聴きたい歌の数だ。途中でどんなに詰まらなそうな顔をしても、それは本心ではないから、そこをきちんと覚えておくのだよ」
「少しでも気がそれたなら、耳元でわめいてあげる」
 一鶯はすっかり満足すると、再びギターの弦に指を置いた。夕影が僕らのシルエットを浮かび上がらせるまで、彼女は歌い続けた。
 それから夏が過ぎ、秋が来た。僕と彼女は近所の自然公園へ散歩に出ていた。
 足元を流れる小川に、紅葉が、一枚また一枚と落下して、小さな舟を幾つもこさえた。頭上では小鳥が騒ぎ、往き過ぎる風は僅かに熱気をはらんでいた。不思議とざわざわ荒立つ心を疑問に感じながら、転覆した小舟の残骸たちを見送った。
「落葉樹は、どうして一気に葉を散らして仕舞うのだろうね。常緑樹みたいに、少しずつ少しずつ落としていって、見た目はずっと変わらずにいてくれたほうが、人格者なのにね」
「そうね、人格者は孝行者ではないけどね。落葉樹のほうが芸術家向きよ」
 一鶯は、僕と同じ景色を見ながら言った。
「あんたはどうして絵を描き始めたの?」
「アニメ映画が好きだからだよ。たった一つのことを伝えるために、何年もの時間をかけて描かれた作品がね。見ているうちに、いつの間にか僕も伝える側の人間になりたいと思うようになったのが直接のきっかけだよ」
 僕の話を聞き終えると、彼女は「そう」と一言相槌を打って、深く息を吐いた。
「あたしはね、弟が死んだから歌い始めたの」
 彼女と違う情景を見ていると気が付いたとき、ひときわ大きな冷たい風がザアと枝を揺らして心の荒立つ部分を削いでいった。
 僕にも、死んだ弟がいた。教養と沈黙ばかりの我が家を明るく照らす、幼気な弟がいた。いつも兄たちの背を追うばかりの僕の背を、追いかけてくれる弟がいた。
 久し振りに、故郷の津軽にある赤い橋で弟と語り合ったのを思い出した。彼女も周防の橋で笑い合ったのだろうか。
「そんなこともあったけれど、あの橋はもう、弟の墓に行くためだけの橋になっちゃったね」
 彼女は悲しみを閉じ込めた。
「汚れたものは気付かれないように落とすより、思い切り汚してやったほうがいい」
 葉擦れで消えてしまいそうなほどの小さな呟きに、油点草の花は木陰で嘲るようにうなずいた。
 翌年の夏。思えばそこが転機であった。別の大学へ進学した僕たちは浜辺で行われる花火大会に来ていた。日が落ちてもなお残る熱気を団扇で払いながら人混みの中を歩く。左隣を行く女学生は下駄をからころと小気味よく鳴らしながら、立ち並ぶ屋台に目を輝かせていた。
 普段はずどんと重い真っ黒のマントをかぶる彼女も、今日ばかりはあざやかに着飾った。その美しさたるや、神様が金魚と間違えて掬っていって仕舞うのではないかと危ぶまれるほどである。
 足は、ついに一つの屋台の前で止まった。
「射的! 懐かしいな!」
「得意なの?」
「上手くはないけど、好きなの」
 店主に三百円を手渡すと、彼女は袖をまくりにまくって目当ての景品に目を光らせた。コルクは合わせて五個。一発目で飛び具合を確認する。続けざまに二発撃ち込むと、景品がわずかに揺れた。勝利を予感した彼女は逸る気を抑えながら射的銃を構えた。
「万歳!」
 クッションへ落ちた景品を見て、僕は叫んだ。一鶯は得意気に景品のブルアネージュを受け取ると、僕の方を振り返った。
「あげる」
 僕は断った。
「いいよ。雪は実家で飽きるほど見てきたから、一鶯さんが持って帰りなよ」
 彼女の方もかたくなであった。
「あたしね、雪はそこまで苦手ではないのだけど、このブルアネージュの雪は駄目なの。あたしの人生の逆再生みたいだから」
 今になると、彼女の言葉の意味も朧気ながらつかめてきたような気もするが、それでも僕は、自身の死を見透かしたような彼女の言動の不気味さには、依然、慣れなかった。
 伸びをして、作業机に置かれたブルアネージュをのぞき見る。ドームの中のお道化者たちは、まだまだ笑顔を浮かべていた。
 本番は、ここからである。それは、花火の打ちあがる直前の出来事であった。
「げ、胸糞悪いもの見ちゃったなあ」
 僕が先に、それを見つけた。それというのは、段ボール箱の中にいる汚れた猫のことである。箱に元飼い主のものとみられる張り紙があった。ちらと目に映った文字たちをどんな気持ちで書いたのか、想像するだけで、虫唾が走った。僕は先へ急いだ。
 しかし、一鶯は人の流れに逆らい箱に近付くと、その猫を優しく両手で掬いあげた。
「君が親だと思っていた相手は、もう居なくなったみたいだから、我が家へおいで。つらくなったら、一緒に泣いてあげる。寒くなったら、抱きしめてあげる。だから、我が家へおいで」
 遥か後方で花火の弾ける音がした。先日の暴風雨なんか知らないような乾いた響きだ。猫を抱いたサンタ・マリヤは、喧噪に背を向けると、月光を受け、砂の道を歩いていった。
 その猫は、すくすく健やかに育った。その猫はシキという名を新たに得、一鶯と共に育っていった。
「あ、またシキが僕のところへゴハンを持って来てくれたよ。この子は自分のことなんか二の次なのだね。相手が喜んでいてくれれば、それでいいのだね」
 僕を見上げて誇らしげな顔をするシキは、とても愛らしかった。
「飼い主にはない献身の精神が、この子には備わっているのだね」
「うるさいね」
 シキのひたいを撫でる僕の頭を、飼い主は叩いた。彼女の暴力はちっとも痛くなかった。
「飼い主に似たから気遣いの心があるんだよ」
 得意気に言う彼女の言葉は正しかった。でも、事実を言うと調子に乗らせて仕舞うので、黙っておいた。
「そろそろ僕らは学生を辞めるわけだけど、勤め先は決まっているかい?」
 大学二年の正月、今から八年前のことだ。彼女の家の炬燵に足を延ばして、呑気な声で僕は言った。僕らの通っている大学はどちらも四年制であったけれど、周りの人間があまりにも退屈だったので中退することに決めたのだ。
「まだ」
「そうか、でもそんなにあせることじゃないよ」
 ギターを抱え、床板の隙を見つめる彼女を励ましながら、僕は背伸びをした。憧れのアニメ制作会社への就職が内定したことはもうしばらく黙っていようと思った。
「おめでとう」
 驚いて彼女を振り返ると、彼女はへらりとわらった。相変わらずの千里眼である。
「忙しくなるね」
「うん」
 手元のぬるくなったココアを一口飲む。
「君の歌を題材にした作品を作るよ」
「まだ下端にすらなっていないのに、よく言うよ」
 潤んだ双眸を輝かせながらも少し困った調子で笑う彼女の頬を、僕はそっとなでた。そのとき、僕は人生ではじめて幸福だと思った。それが、人生で一度きりの幸福である。
 それから、僕は職場に泊まることが多くなり、それに伴って一鶯と話す機会もだんだん減っていった。最後に会ったのは、今から四年前だ。
「夏の花が好きな人は、夏に死ぬっていうけれど、本当かしら」
 隣を歩きながら、一鶯は言った。縁起でもないことを言うと思った。
「それじゃあなんだい、金木犀が好きな人はときどき二度死ぬとでもいうのかい」
 僕の気持なんか知らない彼女は朗らかに笑って「それもいいわね」なんて言うから参ってしまう。
「あたし、そろそろ結婚しようと思うの。お見合いなんだけどね。守るものができるのね、壊してばっかりじゃいられないのね」
「久し振りに会ったと思ったらそんな話か」
「そんな話って、酷いじゃない」
「酷いのは君だよ」
 僕はとうとう不機嫌を隠し切れなくなって言った。
「せいぜい、仲良くするがいいよ」
「うん、そうする」
 ひまわりの咲く道を軽やかに歩く一鶯の背中を、僕は追いかけなかった。それから、僕と彼女は葉書だけのやり取りになった。
 彼女の夫から死亡通知状が届いたのは、今からひと月ほど前のことだった。彼女の遺品整理をしていたら、葉書がたくさん出てきたらしい。
 彼は出会って早々、通夜や葬儀に僕を招かなかったことを詫びた。それほど、僕らは疎遠だった。
「随分おくのほうに仕舞ってありましたので」
「いえ、こうして教えていただけただけでも、十分ありがたいです」
 喫茶店の一角ではじめて顔を合わせたこの男性は一鶯の幼馴染らしかった。彼女の思い出話をいくつか交換すると、彼は嘆息した。
「あの人は、元から一筋縄じゃいかない人でしたけどね、シキが寿命で死んでからは特におかしかったんです。笑えたもんじゃないんですよ。お腹に赤ちゃんもいて、もうすぐ臨月だねなんて話していたところで倒れちまったんですから。はは、あの人にとっては我が子も猫には敵わないんですね」
 僕の目の前に、ある風景が浮かんだ。宗教画ともとれるような、浮世離れした風景である。あの、月夜の浜辺の一枚絵である。
 ああ、あのとき神と思っていたのはホトトギスだったか。ウグイスに托卵し、愛を乱用させたのはお前だったか。
 僕は歯をぎりぎりと食いしばった。一所懸命に涙をこらえると、頭の奥がジーンとした。鉄の味が舌にのった。その様子を見た対面の男は、春風駘蕩。嬉しそうに手を打って、舌をまわした。
「そうですか、あなたも私のやりきれない気持ちがわかってくださいますか! そうなんですよ。あの人は仕方なかったとしても、赤ん坊だけでも遺してくれたらと、何度思ったか!」
 彼は僕の手を握ったが、僕は握り返さなかった。
「申し訳ないですが、僕はあなたのお気持ちに賛同しかねます。一鶯は、愛することが得意ですが、愛の加減をしませんでした。彼女は中道がきらいなのです。知っていて、やらなかったのです。運命のレールから脱さなかった一鶯を赦してやってください」
 深く頭を下げると、相手は呆れて言った。
「実は通夜に来たあの人の友人にも、同じようなことを言われたんですよ。はは、芸術家ですか? 私はそういう連中にはもう寄りつかんね」
 ひとりになったカフェの机で、僕は辞表を書いた。恩を仇で返すとはこういうことだ。
 僕はカフェを出たあと、あの夏祭りの会場へと足を運んだ。そこに海棠が狂い咲きしていて、その紅が、僕の目に痛烈に突き刺さった!
 これは、風の音だろうか、それとも波の音だろうか、僕の心のざわめきだろうか。僕は、海原に向かって、虚を思い切り殴りつけた。
「死んでみると、やっぱり一鶯だ、ねえ。段違いだ」
 一鶯という鉱石の輝きは、常に素数であった。幾つ傷が入っても、純粋であった。
 十一月の海は斜陽をうけて赤く色づき、誘うように、拒むように、ゆったりと動いた。……くそッ、なにがサンタ・マリヤだ!
 入水しようかと思ったが、彼女との約束を思い出して、やめた。潰れた海棠の花弁が浮かぶ海水を掬って、顔を洗った。
 芸術というのは転換期に生まれやすいように感じる。だが、何度も転換しては、身体的にも精神的にも社会的にも満たされない。それでは、芸術とは健康を手放すことなのかと聞かれれば、そうでもない。不健康な人間に、どうして健康な人間模様が描けようか。
 僕は、死んだ。僕は、新たに生まれた。僕は、芸術家という生き物だ。一鶯の笑顔が描かれた紙に涙が落ちる。
 かくして僕には歌がのこった。たった一つ、歌というがのこった。
 これから僕は、彼女の死を平らげて、苦しみながら生きていく。
 ブルアネージュの中。幼少の乙女の上には、真綿のような雪が降っていた。

 この物語は昨年の超然文学賞に応募した作品です。今読んでもかなり赤面してしまう部分があるので、大学受験が終わったら書き直します。
 見出しの画像はT_GAIさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます!