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階段の上のこども、あるいはがらくた 2

いつから、明確に母が私を虐げだしたのか、はっきりは覚えていない。

けれどあのお葬式の日が、引き金になったのは間違いなかった。

それは、弟の死後に妹が生まれてから、より顕著になったんだと思う。

私より4つ下の妹。
つまり、しんちゃんが死んでから、ほとんど一年後に生まれたということになる。

はじめて、望んで、望まれて生まれたこども。

後に知ったことだが、第一子である私でさえ、望まれて生まれたわけではないらしい。

何故だかはわからないが、父は母の妊娠を知ると母の腹を蹴ったらしい。

母が当時つけていた日記を見つけた時に、ちゃんと愛せるだろうか、というような記述があったことを、なんとなく覚えている。

もしかして、私は父の子供ではないのかもしれない。
と思ったこともある。

それなら、今の私のこの境遇も、納得できる。

お前は、どこかの橋の下で拾ったんだ。

幼い頃、何度もそう言われたけれど。

あの頃は、それがとても悲しかったけれど、成長するにつれ、むしろそうだったら良かったのに、と思うようになった。

そうでないと、説明がつかない。

自分が、こんな目に遭う理由が、最もらしい理由がなければ、とても受け入れられない。

血が繋がっているのに。

実の子供なのに。

しんちゃんも、まあちゃん(妹、次女のこと)も愛せるのに、私は愛せないのはどうしてなのか。

それを認めることは、とても惨めで、かなしかったから。

だけど残念ながら、私達姉弟は、みんな父によく似ている。

父に似てみな毛深く、鼻が大きい。

だから、血の繋がりはあるのだろう。


とにかく、本当の地獄は、まあちゃんが生まれてから始まった。

面白いくらいに、格差をつけられた。

しんちゃんの生まれ変わり。

そう言って可愛がられた、容姿もしんちゃんに似た、妹と。

目の端に入るだけでいらつくと言われる、醜い姉と。

たとえばある日曜日の夜。

父と母と妹は、3人で仲良く、ハンバーグを食べていた。

みんな笑顔で、絵に描いたような団欒。

そこに、私だけが加われなかった。

私は、食事前に必ず、画用紙に1から100までの数字と、「あ」から「ん」までのひらがなを、3回ずつ、書かなければ、ごはんを食べさせてもらえなかったのだ。

だから、私が夕飯を食べる頃には、みんな食べ終わっている。

私は1人で、冷えきった、黒焦げのハンバーグを食べる。
小さい、かけらみたいなハンバーグ。

ちなみに、これは小学校に上がる前の記憶。


たとえば、家族で近くの湖に出かけた時。

父も母も、まあちゃんにだけ話しかける。

まあちゃんにだけ、ジュースを買う。

まるで私なんてそこにいないみたいに。

ほらあそこに鳥さんがいるよ。

可愛いね。

妹に、にこやかに話しかける母。

―楽しいね、お母さん。

私は一所懸命、母に話しかけた。

震えながら。

少しでも、私にも笑いかけてほしくて。

こんなに笑っているのだから、すこしくらいおこぼれを、もらえるかもしれない。

なのに。

波が引くように消え去る、母の笑顔。

能面のような顔。

母は、頑なに私の方を見ない。

鬱陶しそうに、すがりつく私の手を振り払う。

父も、それを見て見ぬ振りをする。

私は、一体何をしたと言うんだろう?


幼い頃は、本当に理由がわからなかった。

突然、変わってしまった父と母に、ただただ困惑して、ただただかなしかった。


そのうちに、母親による折檻が始まった。

父のいない昼間に。

足で蹴られ、拳で頭を殴られる。

掃除機でも殴られた。

スリッパで思いきりはたかれたり。

煙草の火を、押し付ける振りをして、脅されることもあった。

「誰が悪いか言うてみい」

そう言って、煙草を近づけてくる。

そのたびに私は泣きながら、私です、と答える。

とにかく本当にささいなことで、母はすぐに機嫌を悪くした。
機嫌のいいことなんて、ほとんどなかったけれど。

たとえばさっきまで笑っていて。

すこし今日はいつもより優しいかもしれない?と、淡く期待を抱いた直後に。

たとえば返事のしかたが悪かったとか。

すぐに返事をしなかったとか。

不満そうな態度だったとか。

調子に乗った発言をしたとか。

何が悪いのかもわからないような理由で。

母は突然キレた。

私は何度も謝り続けた。

蹴られながら、泣き叫びながら。

ごめんなさい。

許してください。

私が悪い子でした。

あとはひたすら正座をさせられ、2時間でも、3時間でも、父が帰ってくるギリギリまで、「お説教」を受けた。

私がどんなに生意気な子供か。
悪魔のような子供か。
いつ捨てたっていいんだぞと。
私は優しいから面倒を見てやってるんだと。

えんえんと説き伏せられる。

足はしびれて、たんこぶだらけの頭が痛んで、意識も朦朧としながら、私はひたすら謝り続ける。


もっと最悪だったのは。

母の怒りは、不況を買ったすぐではなく、数時間後に爆発することだった。

たとえば「お手伝い」という名の、私に課せられた家事がいくつかあった。

食事前の配膳とか、皿洗い。

玄関の掃き掃除。お風呂掃除。

ある日の配膳中、母の箸を、強めの音で机に置いてしまった。

私なりの、ささやかな反抗だった。

その時は、母は何も言わなかった。

だけど、私が眠りについたころ。

夕飯から、何時間も経ってから。

母はものすごい勢いで階段を上ってくる。

うとうとしていても、足音ですぐにわかる。

母は、足音でさえ怒っているから。

勢いよく私とまあちゃんの部屋のドアを開け、二段ベッドの下段で寝ている私の頭を、いきなり、勢いよく叩く。

寝ぼけた頭で、わけがわからないまま、叩き起こされて。

なんなんやあの反抗的な態度は。
ふざけやがって。
親に向かって、何様のつもりや。

唾を飛ばしながら、ものすごい剣幕で、輩みたいな汚い口調で、罵声を浴びせだす。

まるで妖怪だ。

もちろん、まあちゃんは上段で寝ている。

そこから、約2時間。

真夜中でも、「お説教」は突然始まる。

そんなことが日時茶飯事だった。


学校終わりに、友達が遊ぼうと誘いに来ても。

ちょうど「お説教」の最中で、母に、断わってこいと言われる。

ごめんね、ちょっと用事があるねん。

そう言ってなんとか笑う私を見て、友達も、何かを察した顔をしていた。

どうしたん?
泣いてたん?

そう聞いてくれる子もいたけど。

「あそこの奥さんはキチガイやから」

小さな、20軒ほどの団地の中で、母はすっかり有名人だった。

昼でも夜でも、怒鳴り声と、こどもの鳴き声が聞こえる家。

そういう認識をされているのが、子供ながらにわかっていた。


私は、母を憎んでいた。

恐れていた。

だけどそれと同じくらい、愛されたいと願っていた。

もちろん、幼い頃は、の話だけれど。

私がいい子にしていれば。

いつかは愛してくれるかもしれない。

そんな淡い夢を見ていた。


だから、「シセツ」というお仕置きが、一番嫌いだった。

ひととおり折檻して説教した後、母は必ず、「ほな、シセツに電話したろか」と言うのだ。

幼い私には、その「シセツ」という場所がどんなところなのか、全くわからなかった。

ただ、とにかく、得体の知れない、恐ろしい場所のように思えた。

「もしもし、シセツですか。
 こんな子いらないんで、すぐ迎えに来てくださ 
 い」

母は決まって、そう言う。

私は恐れ慄き、本当にその得体の知れない人達が迎えに来るんだと思って、必死に懇願した。

ごめんなさい。

私が悪かったから。

だから捨てないで。

お願いします。

泣きながら、縋りついた。


大人になった今、何故あんなクソみたいな母親に、あんなに固執してたんだろう、と不思議に思う。

あんな地獄から逃げられるのなら、「シセツ」でもどこでも、喜んで行ったのに。

ここより非道い地獄なんて、有りはしないんだから。

だけど、こどもだった私にとって、母は、この世界のすべてだった。

母イコール世界と同じで、母に拒絶されることは、世界じゅうから、お前なんかいらないと、拒絶されることと同じだったのだ。

子供というものは、悲しいかな、そういうふうに出来ているんだと思う。

だから、憎みきれず、切り捨てられず、逃げられず、自分を責めてしまう。

そうじゃないんだと、悪いのは私なんかじゃないと、私は気づくことができたけれど。

気付けなければ、私は今でも、母に支配されたままだったのかもしれない。

そして、世界じゅうに、そんな呪縛に囚われた子どもたちが、たくさんいるのだろう。


「お父さんもお母さんも、お前なんか愛していない」

お説教と称してよく閉じ込められていた押し入れに入れられる前に、母に言われた言葉。


このときの言葉だけは、でも、いまだに呪いのように、私にまとわりついてくる。


お父さんも、お母さんも、誰も

世界じゅうの誰も

お前なんか愛していない

愛せない


そう、今、突きつけられているのかもしれない。

思い知る時が、来たのかもしれない。


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