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あわい名月

 やけに静かな夜だったからふと外へ出た。漠然と歩いていると、足元に影がある。中秋の名月であった。友達と砂丘で眺めた去年のものと同じものだった。今年は風のない、落ち着いた夜にひとりでいる。しかしながらひとりでいることがもったいなく感じられた。様々な記憶が思い出される。嫌なものから至高のものまで。そのすべてがいとおしく、感傷的に感じられていかにも秋だという感じだった。明るい夜だった。

 同じ哲学徒の知り合いが演習の授業の自己紹介で、彼から創作を奪えば簡単に死ねるということを言った。初回の自己紹介でそんなことを言うのも少し変な感じを抱かないでもなかったが、そんな情熱的に創作に打ち込めることをうらやましくさえ思った。
 情熱のない創作に意義は無いのは同意するが、情熱だけで成立する創作ほどつまらないものはないのではなかろうか。情熱を注いだ文字列に熱いものを確かに感じるのだが、それを成立させるものは、ひどく冷静な、冷酷とさえ言えそうな理性ではないのか。情熱的な感情の裏にそれを操る存在を感じないのは動物的ではないか。哲学を学びながら創作に打ち込むということはそういうことではないのか。私たちは文字を操りながら、文字に操られている。そんな批判を思い浮かんだが残念ながら率直に意見する仲ではなかった。

 雲がまわりに現れた。秋の雲である。秋の雲はほかの季節のものと比べやや明るく淡く映る。私がふうっと息をかければ飛んでいきそうな軽さがある。明るい月がその印象を強く印象付けた。どこかの誰かが吸っているたばこのにおいが届いた。あの頃と同じにおいである。あれはしかし冬の季節だったか。忘れた。においだけが残る。

 この夏が終わり、暮れが近づいてくる。思い出深い出来事が過去のものになり、次第に忘れていく過程さえ愛さなければいけない。かつて忘れないと誓った内容さえもう忘れた。かなしいことだ。
 毎日が濃密なものになっていく、いや実は日常にも濃淡がある。夜にも濃淡があるように。明日の朝も早い、濃い日になればいいが、はたして。

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