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母とはずっと他人と暮らしているような気がしていた〜人生のギフトを探す旅・3


「蝶よ花よと育てたつもりよ」


そう言って
冗談を言うように笑った母の言葉を
私は
ずっと宝物のようにして握りしめている。


それが
母が唯一私にくれた
母親らしい言葉だったから。



現実的には


私の母は、
子どものことを
「蝶よ、花よ」と
かわいがるタイプでも
着飾らせて愛でるタイプでもなく、


心配したり怒ったり
感情的に接してくれるようなこともなく


私はいつもひとりぼっちだった。

子どものすることには
「無関心」という言葉がぴったりな人だった。



私が小学生になった頃には
父と離婚して
女手一つで二人の娘を育てるために


なおさら平日は仕事ばかりしていて
休日はずっと寝ている。
子どもと遊ぶ余裕なんて全くない。


そんな母だった。



母の帰宅はいつも22時ごろで

姉は中学生になると、
夜遊びばかりしていたので
ほとんど家に帰ってくることがなかったため


私はいつもひとりぼっちで
22時まで家で過ごしていた。


今の世の中なら
間違いなく「ネグレクト」に相当する
幼少期だったと
我ながら当時の自分を可哀想に思う。



ネグレクトとは育児放棄の虐待だからね。。


小学生の私は、母の作った冷たいご飯を
一人で食べた。買ってきた弁当の時も多かった。

用意されていないときは
お腹を空かせて母の帰りを待った。


お腹が空きすぎると
人間、腹が立つというのは本当のことで


ご飯が用意されていないときの
夜の22時まで
母が仕事ではなく
パチンコで遅くなっている時などは


なおさら怒りが込み上げた。
自分が不当な扱いを受けているように
感じていた。
あの怒りは正しいと大人の私は思う。


「なんでご飯も用意してないの!」

弁当を買って帰ってきた母に
怒りをぶつけても、

「勝手にラーメンでも食べとけばいいじゃない」

と、怒り返されて虚しくなるだけだった。


今の私が幼少期の自分に会いに行けるなら
「あなたは何も悪くない」と言ってやろう。

「ご飯もなくて、誰もいない中待たされるのは
辛いよね。悲しいよね。寂しいよね。悔しいよね。」と
共感してやりたいと思う。



そんな感じで小学生の私は


母も姉もいない
がらんとした古い団地の一室で


ただひたすら母の帰りを待つ子どもだった。


夜がとっても怖くて
夜になると布団から足を出すのが怖かった。

手や足を出していると
暗闇の中から何か恐ろしいものが出てきて
さらわれてしまいそうな
そんな不安を抱えた子どもだった。


当時の恐怖は夢にもよく現れた。

小さな頃は怖い夢をよく見た。


年齢が上がるにつれて
母に期待しなくなった私は

自分のことは自分でするし、
親に相談しないで決めることが
当たり前になった。


いつも、いつも母との間には
薄い壁が一枚あった。


高校生になった頃には、
母のことを


「同居している他人」のように
感じていたし、年頃になった友達が


「両親が手を繋いでいるのが気持ち悪い」


とか


「お母さんがいろいろとうるさくて嫌だ」


なんて言っているのを聞くと
幸せな家庭なんだな。


と微笑むような
変に大人びた子どもになってしまっていた。


当時の私は
母が手をかけない

散らかった家も
寂しい雰囲気の家も嫌いで


早く家を出て
自分だけの城(家)を作りたい


そう強く願っていた。


できればそれが
きちんと整頓されていて
汚れてなくて
あたたかくて居心地が良い家に。


そんな世間一般的には
「あたりまえ」とも言えるかもしれない
「普通の暮らし」や「あたたかい家」が


当時の私の将来の夢でもあり、
今も望み続けている唯一のこと。

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