見出し画像

現代アートの価値と挑戦/「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展は未来の鑑賞者たちを育てる部屋となり得ていたか?

【③】
現代アートが「分からない」を前提にしていることは公然の事実だ。分からないから知ろうとする。観たいと思う。買おうとする。

「買おうとする」にかけては、少なくとも市場においては「将来値上がりするという確実な期待」が、現代アートを価値づけする必須条件となるのだろう。裏返せば現代アートは投資対象という面を外すことができず、公共の美術館が取り扱うには相当の注意が必要だ。お墨付きを与えることになるから。国立西洋美術館の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展でも、作家や作品に対して検閲があったのか。いや、そんなことをしてはせっかくの挑戦が一挙に冷める。キュレーターと作家を信頼して、自由に任せたのではないか。実際、記者内覧会では参加アーティストによるパレスチナ侵攻と美術館パートナーである川崎重工への抗議表明があった。

国立西洋美術館で飯山由貴らアーティストがパレスチナ侵攻に抗議、美術館パートナーの川崎重工に訴え。遠藤麻衣と百瀬文の抗議パフォーマンスも|Tokyo Art Beat

当然、記者の質疑では作家をどのように選んだか、断られた作家もいたのではないか、表現内容について何らかの指示やチェックを行ったのか――といった、普段の西洋美術館では飛ばないような質問が飛んだはずだ。残念ながらビジネス系メディアの編集者である自分はそこにはいられなかったが、やり取りの詳細が分かる記事があれば読んでみたいと思う。

さて会期末も近いGWに、一般鑑賞者として本展を家族で訪れた私は、内藤礼の白いキャンバスに没入する間もなく順路を進んだ。あそこにはどんな「色」が現れたのだろう?今後、セザンヌと並び立つ機会は二度とないだろうから、今も心にひっかかる。

小沢剛の「帰ってきたペインターF」は藤田嗣治がパリではなくバリにいっていたらというパロディー。この映像作品もほぼ素通りになってしまった。子どもたちが靴を脱いで上がれる展示へと駆けていってしまったから。遊べる場所とでも思ったのだろうか。

ごめんねという思いが湧き出していた。こんな退屈なところに連れてきてしまって。そこは遊び場じゃないんだよ・・・。

赤い毛氈のような敷物の上にブロンズ像が横たわっている。小田原のどかの展示だ。オーギュスト・ロダン《青銅時代》(1877[原型])と《考える人》。このためにつくった軽量のレプリカ?とその場では思ったが、作品リストを見ると本物のブロンズ像。重さは何キロあるのだろう。彫刻のラインに沿って輪郭がたゆんだ赤い台は、彫刻をそっとお姫様抱っこしているかのよう。同館所蔵品であるブロンズ像への負荷を、最大限に下げる設計が施されているに違いない。

西洋美術館の象徴的存在であるロダンの「転倒」。水平社宣言の起草者でありながら思想「転向」した西光万吉の《毀釈》(1960年代)。この対置の皮肉や警鐘をその場では全く理解できず、手を伸ばせば届く展示に手を伸ばしたい子どもを必死に制御した。寝転がるロダンの周りには、無情にも「入っちゃだめよ」シール。せっかく鑑賞者も寝転がれる参加型のコンセプチュアル・アートなのだから、どうせなら、その上に子供が乗っても大丈夫なレプリカにしてくれてもよかったのでは…というのは「子連れ様」の傍若無人な発想か。本物の芸術作品を転倒させてこそ、展示の真実性があるのだ。でもせめて、一角にキッズスペースでもあれば…と子連れ様節が止まらない。

その先に田中功起の「いくつかの提案」があった。ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表も務めた国際的評価の高いアーティストだ。子どもや車いす使用者の目線に合わせて低く掲示されたテキスト。その中身は超絶的に細かい字で難しそうな言葉が羅列されている。

ああ、せっかく目線を下げてくれたのに、なぜ本当に子どもにも楽しめるような内容でないのだろう。田中の提案は、本展では「託児サービス」という形で一部実現されているという。ではなぜ、展示室内にキッズスペースやハンズオンの作品を置いてくれないのか。恐らく私は田中の意図を読み取りきれていない。ここに来るべき人間ではなかった、少なくとも子連れではダメだった。黒い思いが押し寄せてくる。

真っ黒な言葉で塗りつぶすために、このレポートを書いているのではない。私はアートの寛容性を信じる。触りさえしなければ、頭の中では何を考えたっていいのだ。ゴチャゴチャとしたドス黒い思索も許してくれる。分かりやすい美しさや便利さ、楽しさを求めるのであれば、遊戯施設に行けばいい。

子連れでどこまでアートを楽しめるか。これはチャレンジだ。
鑑賞者が「分からない」という不快や、「楽しめないのではないか」という不安を乗り越えて挑んでこそ、現代アートが完成するならば、私も少しは貢献できているのではないか。
中盤以降には、子どもが向き合える展示にも出会えたという記憶が、くじけそうな心を引っ張ってくれる。④に続けたい。

※ウェブ記事ではタイトルに順番を入れると読まれにくいという原則は知っていましたが、本音で語るnoteでは順番を入れていました。でもやはり、読んでもらえたら嬉しいので、今回からはタイトルの順番を外して本文冒頭に置き、タイトルに記事内容を示唆する文言を入れることに挑戦してみます。①②もその点のみ編集します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?