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にじいろのしまうまのたからもの

先日、アンパンマンについて書いたが、子どもとアンパンマンを巡るエピソードは世界中に無数にあるはずだ。

30年前の私は、アニメのアンパンマンが始まる夕方の時間になっても迎えに来ない祖母にしびれを切らして、保育園を脱走した。徒歩数分の自宅に走って帰り、ガラッと引き戸を開けたとき、自営業の祖母が目を見開いたのを覚えている。そのあと怒られたのか、笑われたのか。今だったら園の防犯問題につながりそうだが、おおらかな時代だったろう。

まともに時計も読めなかったはずなのに、なぜ時間が分かったのだろう。アンパンマンの時間だけは覚えていたのか、それとも、いつもなら家で聞くはずの防災無線の音楽が、園で聞こえたからだろうか。「夕焼け小焼け」のメロディが、旅立って久しい祖母の顔とともによみがえってくる。アンパンマンは追憶と郷愁を誘う、心の宝箱だ。

長女の場合、初めてのやなせたかし体験はアンパンマンでなく、「にじいろのしまうま」という絵本だった。

奈良の図書館の児童書コーナーで、小学生のお姉さんグループが、まだやっとハイハイができるくらいの長女をひとり囲んで、読み聞かせしてくれたのだ。


(出典 金の星社)


その甘やかな情景とともに、自分の大切な、美しいものを分け与えていく切なさ、誰にでも描けそうで真似できない、丁寧なタッチが目に浮かんでくる。そして柔らかく鮮やかな色彩。

ただ、詳細なストーリーは忘れてしまった。しまうまは色を失って、どうなったのだろうか。アンパンマンの顔のように、再生産されたのだろうか。それともオスカー・ワイルドの「幸福な王子」のように、悲しい結末だったろうか?

出典 金の星社
(文絵 いもとようこ)

長女は当然、赤ん坊の頃の記憶などすっかり忘れている。と思っていたら、この記事を書いているのを後ろから見て「あ、これ知ってる!」と声を上げた。

保育園で、先生が読んでくれたという。えっとね、とストーリーをそらんじてみせた。でも、みんなのために色を減らしていくというプロセスが印象的すぎるのか、長女もやはり、結末を思い出せない。虹色を失ったしまうまは、どうなったのか?

虹の根元に眠っている宝物を探し当てるような感じだ。ネットで調べればすぐ出てくるかもしれないけど、そっとしておきたい。図書館で見かけたら、娘と開いてみよう。

それでこのことは、いったん忘れていたのだけれど、あらためて読み直してきたという長女が報告してくれた。

にじいろじゃなくなったしまうまはね…


(出典 金の星社)

結末を聞いて、まさに宝箱を掘り起こしたような心持ちになった。だけどその中身は、まだ見えない。この物語は、長女の小さな胸にどんな宝を残すのだろう?

自己犠牲や利他の物語は、必ずしも礼賛してばかりではいられない。子どもには優しく思いやりのある子でいてもらいたいけれど、その倫理観が果たして是なのか、現実社会を顧みれば、分からなくなってきている。

軍人だったやなせさんはもちろん、この絵本の作者であるこやま峰子さんも幼少期を戦争の中で過ごした。理想と現実の矛盾、人間の醜さを目の当たりにして、あんぱんの美味しさ、虹の儚い美しさを、現代の私たちよりもずっと知っていた。だから彼らのような大人は、他者を思いやる物語を再生産し続けるのだろうか。アンパンマンの新しい顔のように。

自分は自分の大切なもの(それは能力やスキルとは別なものな気がする)を、子ども以外の人に分け与えられているだろうか?

アンパンマンとにじいろのしまうまが届けてくれた、心の宝箱。長女も大人になったとき、そっと開けてみるのだろうか。







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