ライフワークとか言うものの何たるかを滅茶苦茶まわりくどく語らせておくれ
唐突に社長の自宅兼オフィスに招集がかかった。
その日、本当は出向先のテレビ局に向かうはずだった。
それが朝7時過ぎに僕を含む新卒者4人に連絡が入り、スケジュールが変更された。
朝8時半、4人揃ってオフィスに入った。
4人に珈琲を淹れながら、社長はやたら軽い口調で喋っていたように記憶している。
「あなたたちに用意できる仕事がない。仕事が激減している」
「しばらくはオフィスにきて、自己研鑽に励むように」
「研鑽期間は無期限。多分2、3年は続く」
「先輩らも仕事がない。働きたいけど、研鑽を行う。だから我慢して」
「将来が不安だと思う。私も同じだから、無理に引き留めるつもりはない」
こういったことを伝えられた。
忘れもしない社会人生活1日目の出来事だった。
リーマンショックが起こった翌々年、僕らは学校を卒業して社会人になった。
この前年から徐々にテレビ局はローカル番組の削減を行なった。
47都道府県で47種類の番組を作るより東京で1つの番組を作って全国に流した方が遥かに安いからだ。不況の煽りを受けての策だったのだと思う。
僕が入社した会社はローカル番組の制作や裏方の業務を担当していた。だから仕事が激減した。そして僕らは路頭に迷った。
少し遡って学生生活の4年間について触れたい。
4年間、僕はぬるま湯にどっぷり浸からせてもらった。
音系サークルに入ってバンドとバイトまみれの生活だった。
どちらの場面でもチヤホヤされたのだ。バンドは地元のベテランバンドマンから囃し立てられた(今思うと、学生同士の横の繋がりの強さが目的の集客行為でもあった)。
バイトでは学生というだけで多少のミスや至らなさも大目に見られたし、こちらが困っている素振りを見せたら大人は喜んで助太刀してくれた。
社会人デビュー初日、ぬるま湯は急速に冷却された。
凍って震えが止まらなくなるくらいに。
お荷物として会社に通い続けることに嫌気がさした。僕は会社を半年で辞めた。
学生時代の先輩からは「遅れてやってきた内定取り消し」だと言われた。
その通りだと思う。でも、そう思うと惨めに思えた。惨めな気持ちにはなりたくなかった。周りから同情されるのなんかまっぴらゴメンだった。
だから家族や学生時代の同期には「仕事が合わないから辞めた」と伝えた。すると母は「考え直して」と言い、泣いてしまった。
家族や、新社会人生活を謳歌していた地元の友人や、学生時代の同期ともだんだん疎遠になった。家族には罪悪感しかなかったし、会っても心配されるだけだった。友人たちは別世界の人間に思えたのだ。同じタイミングで新生活がスタートして、彼らには仕事上の悩みは多々あれど、それぞれ順調な滑り出しをしているように思えた。彼らと絡むとひたすら居心地が悪かった。
だから会社を辞めた年に地元を離れて大阪に移り住んだ。逃げるように島国を出た。
大阪には知り合いがいた。僕と似たような連中といえば似たような連中だ。僕より前向きな理由で大阪に出てきた奴らだった。
彼らもまた学生時代の同期と先輩で、バンドマンだった。彼らは共同生活をしていた。このうち1人が脱退して、部屋が空いたのだ。金がなかった僕は、敷金礼金は勘弁してもらうよう頼み込み、そこに転がり込んだ。
彼らはまた、全員フリーターだった。同期ははなから就職しなかったし、先輩はバンドをするために会社員をドロップアウトしていた。
なぜそんな選択をするのだろう?と不思議に思われるかもしれない。
答えになっているかわからないが、学生時代にバンドに打ち込んだ人間として痛切に感じたのは、卒業と同時に強制二択を迫られるということだった。
バンドを辞めて正社員として働くか。
もしくはバンドを継続してフリーターになるか。
両極端な選択だが、何かに打ち込んだ人間は極端になるのかもしれないし、妥協できない性分なのかもしれない。
妥協するとはつまり、バンドを継続して正社員として働くということだった。
仕事に支障が出ないよう作曲もリハも集客活動もほどほどにすること。あくまでメンバーそれぞれの都合を優先して空いた時にライブを行うこと。
稀にこの形式で成功している(つまり多くの人から愛されている)バンドがあるが、本当に稀であり、知り合いにも知り合いの知り合いにもいない。ちなみにこの妥協案を採った先輩たちはもれなく数年で空中分解した。
同期と先輩は後者を採った。僕は前者を採った。
同期たちは卒業と同時に先輩のいる大阪に移り住んで、みんな労働を人生のサブ的なものに置いた。そしてライブ、作曲、リハ、飲み会、ひたすらバンドをやった。
僕はといえば、正社員でバリバリ働くつもりでいた。卒業と同時にバンド活動一切は辞めた。だから入社前の春休み中に4年間大切に弾いてきたギターを売った。そして入社した会社で盛大にレールを踏み外した。
大阪に転居して同居人たちのライブを頻繁に観に行った。
案の定、感化されて自分も何か表現したいと思うようになった。
感化されただけではなかった。
何かを発信しないとやってられないと思ったのだ。
前述した出来事もあり、当時の僕は社会から弾かれたと思っていた。その影響か、周りの人らを敵視していた。「お前ら俺の苦労を知らんだろう」と言わんばかりに、同居人以外の人々に対してすごく刺々しかった。例えば、上司、同僚に対してだ。あるコールセンターに入職して毎日食い繋いでいたが、職場の人たちに対して刺々しさMAXで接していたのだ。「苦渋舐めてない甘ちゃんどもに意見されたくないわ」「脳内お花畑な奴らと馴れ合いたくないわ」という具合だった。
他人の意見を素直に聞けなかった。顧客に対してもそうだった。ひたすらクレームを言われまくる毎日だった。
なので、必然的に職場で浮いた。
自分でそうしたとはいえ、僕にとっても強いストレスだったのだ。
日頃の鬱憤を吐き出したくて仕方なかった。
が、ここで反面教師的なバンドマンと出会う。
同居人たちのライブに行ったとき京都から来たというバンドを観た。
彼らの演奏が、まあ酷かったのだ。だがMCではイキっていた。
それほど華のない女子が言う。
「あたしらは全力でやる。だからちゃんと反応して」
「さっきからスマホ見てばっかの人いるよね」
このお嬢、何言ってんだ?と思った。
真剣に見ようにもそそられるものがないのだ。共感できるものもなかった。演奏も、佇まいも、MCも、何も。
よくもまぁ他人から時間を貰っておいてそういうこと言えるなと思った。こちとら日銭稼ぎたい気持ちを押し殺して残業ポシャってライブ来てんねん、という気持ちだった。
そしてハッとした。
多分僕が鬱憤を吐き出すというモチベだけで表現活動をやったところでお嬢と同じことになるのだ。そこに誰かのためにという気持ちがないからだ。それは自己満だ。
見ず知らずの他人の自己満を見たいだろうか?いや見たくない。こちらの時間を差し出してまで見たいとは思わない。ある種の不快感すら覚えるかもしれない。実際、僕はお嬢のそれを見て不快に思ったのだ。13年後の今でも覚えているくらいに。
何かを表現したいとは思っていたものの、他人に何を残したいかは考えていなかった。
そう思うと、バンド、ブログ、その他諸々…何をしたいのか皆目見当がつかなくなった。こうやって半年くらい燻り続けた。
誇れたものではないが、他人に興味を持てなかった反面、自分への興味は人一倍強かった。そして世間一般的に、そういう自己愛だけの輩は職場で浮いたり社会的に孤立する傾向にあることも知っていた。
自分と同じ境遇の連中に何かを伝えることならできるかもしれないと思った。
そういう人らに響くものは何か考えた。
それは複数人で行うものではないと思った。僕含めて捻くれ者は基本、集団で何かやる人らに、実例を挙げるとそれこそバンドマンらに良い印象を持ってないと思っていた。一応、僕も元バンドマンだったが、正直言うとザッツバンドマン的な人らが苦手だったのだ。ライブは精力的に!飲み会は社交の場!何をするにもみんなで!みんなで最高の場を作る!と言う人たちは苦手だった。
だから独りでやろうと思った。
じゃ、アコースティックギターでもやるか、と思った。
アコギと言えばゆずとか押尾コータローとか、当時は爽やか系な人らばかりがピックアップされていた。
自分はそうじゃなかった。日陰者だった。好きなギタリストやアーティストも、どこかしら陰が見える人たちだった。特にブルースの色が出ている人たちだった。チバユウスケ、田中和将、どちらもバンドマンだったが。
ブルースは哀しみの音楽と言われる。
ブルースはどこで生まれたのだろう。
戦前、特に第一次世界大戦直後に発生したという説を聞いたことがある。黒人奴隷制がアメリカの南部で当たり前のように敷かれていた時代だ。
農園での肉体労働を繰り返して奴隷たちは疲弊していた。そこである農園主は、音楽で彼らを鼓舞しようとした。労働者たちの前でギター片手に歌を歌い、奴隷たちにも無理やり歌わせた。それがコールアンドレスポンスになり、黒人たちは段々大声で歌うようになった。彼らが大声で歌うにつれ、なぜか作業スピードは上がった。労働歌はますます農園に浸透し始めた。
やがて黒人奴隷の中でギターを覚え、周りを鼓舞するものが現れ始める。彼らの中からさらに、農場での重労働に嫌気がさして脱走する者が現れ始める。
彼らはギター1本でアメリカ大陸を放蕩し始めた。かつての労働歌にアレンジを加えて旅先の人々の前で演奏した。「がんばれ、もうひと踏ん張りだ」とか言う超絶に前向きな詩を、虐げられた記憶の詩に変えて、歌い演奏しながら日銭を稼いだ。それがブルースであり、ブルースマンたちだった。
今でこそバンド形式でブルースは演奏されるが、紐解けばバンドや電子楽器が生まれる前からブルースは存在した。アコースティックギター片手にブルースは歌われていた。
学生時代に断念したアコースティックブルースを、もう一度やってみるか。
譜面通りに演奏していたはずなのに全く聴けたものにならなかったあの音楽を。
今度はちゃんと学ぼう。ギター教室に通って理論を学んで。
人前で良い演奏ができれば自分と同じ境遇にいる人にも、それこそ日陰者にも何かしら刺さるかもしれない。
そう思ってからは話は早かった。
僕はギター教室に通い出した。その教室では定期的に演奏会が開催されていた。
生徒さんは演者になって各々の練習の成果を発表する。僕も含めて決して手練ではないものの、演者みんながどこかしら似たような境遇の人たちだった。他の生徒さんと絡んでいくうちに、そう感じた。
今は歳をとって余裕を感じさせるあの人も、実は昔、会社に馴染めなかった。僕と同年代の人らは同じように燻っていた。拗ねている人もいた。
お互いがどこかしら似ているから、お互いに寛容になれるのだと思う。
僅かにでも光るものがあれば、その人の良さとして認められる。何の抵抗もなくお互い称賛し合える。称賛されると自信につながる。自信につながると、なぜか他人にも優しくなれる。職場の人ら、友人、家族に。
こういったサイクルが出来上がっていた。サイクルは年月をかけてループした。
不思議と職場でもうまくいき始めた。角が取れていったのかもしれない。
年相応にレイヤーが上がるようになった。
思えばコールセンターにも、どこかしら僕と似たような人らは沢山いたのだ。
好きでコールセンターで働いている人なんかほんの一握りだと思う。コールセンターに入職したと言うより、コールセンターに流れ着いたと言う方が正確ではないか。僕と同じように会社を辞めた人、職場でトラブル起こして辞めた人、捕まってた人…レールを踏み外した人など、枚挙にいとまがないのだ。彼らに対しても、何かしら残すものはないかと考え始めた。その方法を模索しだした。それはこちらが発信すると言う方法に限らなかった。むしろどう受信するかと言う方が大事だと思うようになった。
仕事に熱を出し始めるとギター教室に通う頻度も減っていった。
月に2回から月に1回、隔月に1回と。かつては毎日のようにギターに触れていたのも、同じように減っていった。誰かに何かを伝える方法はギターだけではなくなってしまったのだ。良くも悪くも。
いつからか発表会にも出なくなった。
それでも頻度を落としつつではあるものの練習を続けている。大阪を離れた今でも僕は当時と同じギター教室に通っている。
明日は久しぶりに大阪に行く。
来月には発表会がある。発表会に参加するのは7年振りとなってしまった。
かつての20代後半青年は30代中盤のおっさんになった。歳をとった今、当時のように誰かに何かを残すことができるだろうか。
穿った目で見ず他人を称賛できるだろうか。
他の生徒さんと会うのも7年振りだ。メンツは結構変わったらしい。
あの時の大きなサイクルは今もあるだろうか。
目で見てわからないものほど懐かしくて尊いように思う。
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