For All We Know
落ちてゆく陽を追いかけて、息を切らし、帰宅した。ずいぶんと動いた一日だった。テラスに出ても寒くない。白い街明かりの背後に悠々と浮かび上がる山の稜線、黄金色の夕空、黒々と降りてくる雲の塊。影絵のようだ。
気分が良いので、久しぶりに外のチェアに座り、刻一刻と移り変わる夕暮れを眺めることにした。ピノノワールをグラスに少し、ピスタチオと一緒に小さなトレイに乗せて腰を落ち着ける。
心を奪われる自然のスペクタクルも、誰とも分かち合わずに鑑賞することに慣れた。
夕空を目にしながら、頭では、ここのところ続けて再読していた立原正秋の小説を思い返していた。登場する、芍薬のような女たち。どの女主人公も悲しくてやりきれなかった。
と、ぼんやりしていると、みるみるうちに最後の光線もするりと山陰に隠れて、宵闇が訪れた。濃紺の闇に遠くの水平線も溶け込んでしまった。
ふいに寒気を覚えてリビングに戻った。円柱型のカーボングラファイトヒーターのスイッチをいれて、点った橙色の灯りに気持ちを預けてみる。
帰宅してすぐに焚いた、柘榴のお香がかすかに漂っていた。今朝最後の一本、海の香りのインセンスを使い切ってしまったので、外出先で新しいものを買ってきたのだ。昨日生けた、淡い夢のような色のガーベラとスイートピー、蕾が開きかけた啓翁桜に、柘榴の甘い香りがよく似合う。
ああそうか、と思った。花を絶やさずにいると、いやでも季節の移ろいを感じてしまうと思った。
まだグラスにワインが残っているし、ふと思い立って低い音で音楽をかけてみる、いつもは無音の中で過ごしているけれど…JasmineからFor all we know。ひとつだけ分かっている、私もあなたも。もうすぐお別れだってことを。とかなんとか、そんな曲。ベルベットのように滑らかにピアノの音がこぼれ始めると、何もかもどうでもいいような気分になった。
この曲が終わったら、簡単な夕食の用意をしよう。食事を終えたら、読みかけの『A Girl I Know』の続きを読もう。
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