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国語ってどうやって教えたらいいんだろう?                     ーーーーーーーーーー「国語通信」から 

自己紹介もかねて、私が以前大学の授業の中で出していた「国語通信」(教科教育法の授業で発行)の第1号から引用します。


国語ってどうやって教えたらいいんだろう?

 私が初めて教壇に立ったのは、1980年4月でした。いざ教師としてスタートを切ろうとしたときになって、「国語ってどうやって教えたらいいのか」という基本的なことがわかっていない自分に気がつきました。大学時代には、国語教育について勉強するサークルを友人たちと作っていました。国語教育に関係する本もいろいろと読んでいました。中学校の公開授業を友人と見に行ったこともあります。それでも先の疑問が湧いてきたのです。それからの数年間は、「(国語の)授業をどうやっていますか?」「どう教えたらいいですか?」と職場で、参加した研究会で、いろいろな人に聞いて回りました。
 私の教師としての原点に「国語ってどうやって教えたらいいんだろう?」という問題があります。

国語科は、教科内容が曖昧である

 今の私なら、当時の自分がなぜそのような思いを持ったのかが分かります。そして、その解決の道を示す自信もあります。
 一言で言えば、国語科は、何を教えるのか、どのような力をつけるか(どのようなことができるようにしていくのか)を明確にしてきませんでした。国語科は、教科内容が曖昧のまま現在まで来ているのです(教科としての国語科が誕生したのは1900年です)。
 数学で二次方程式を習わなかった人はいないでしょう。それに対して国語で「握手」(井上ひさし)や「檸檬」(梶井基次郎)をみんなが学習するわけではありません。
 数学をはじめ他教科はそれなりに教科内容が明確です。ですから教科書が違っても、その内容はかなり共通します。しかし、国語は教科書が違えば、掲載されている教材が全く異なります。確かに、いくつか共通教材(定番教材)と呼ばれるものはありますが。つまり、国語科は「教材を」学ぶ教科ではないのです。「教材で」学ぶ教科なのです
 最近はあまり見られなくなりましたが、国語は担当する教員ごとにテスト問題が異なることもありました。これなども、教科内容の曖昧性に起因します。何を教えるかがはっきりしていないのですから、教師は自分が教えたいことを中心に授業を組み立てます。そうなると、A先生とB先生では教えたいことが違うから、同じ教材を扱っていたとしても、共通テストはできなくなるわけです。加えて、教師によって教材の解釈が分かれるという問題もあります。
 何を教えるかが曖昧ですから、教科の系統性も曖昧のままです。系統性というのは、小学校低学年では何を教え、中学年では、高学年では、中学、高校ではと、学年段階に応じて何を教え、それをどのように発展させていくかという見取り図です。
 系統性が明確になることで、小学校卒業までにどのようなことをできるようにするのか、中学では……。といった到達状況がある程度明らかになり、教える内容もはっきりします。

国語科は、読む力・書く力を中心的に鍛える

日本の子どもたちにとって、日本語の知識と能力こそ、その全面発達を支え・うながす基本的な要素をなすものである。国語科は、この知識・能力の高めに中心的に責任を負うべき教科である。

 私が大学時代に主として勉強した大久保忠利(言語学者・児童言語研究会の理論的中心の一人1909~1990)さんの本からの引用です。国語教育とは何かを考えるとき、私はこの規定に立ち戻ることが大事ではないかと考えています。ただ、若い頃は日本語の知識・能力を高めることのあり様が、私にはわかっていませんでした。そのため、この規定は私の中では空文化していました。
 現在の私は、知識・能力を高めるためには、読む力・書く力を鍛えることを中心にすすめていけばよいと考えています。その中でも、読みの力が中心に位置すると考えています。このような考えに至ったのは、大西忠治(生活指導・国語教育1930~1992)氏との出会いがありました。また、大西先生が創立した「読み」の授業研究会(読み研)での研究・実践が大きく関わっています。
 *国語の研究会はたくさん存在します。児言研や読み研以外にも、文芸教 育研究協議会(文芸研)、日本文学協会国語教育部会、日本作文の会、文学教育研究者集団……。
 日本語を教えるのですから、当然のこととして日本語がどのような言語なのかという理解や認識が重要になります。日本語を歴史的にとらえるところに、古典(古文・漢文)教育は位置づけられます。母語としての日本語ととらえるところから、日本の文化や歴史、社会のあり様なども関わってきます。

母語の教育としての国語教育

 国語教育と日本語教育、どう違うかわかりますか?小学校から高校まで公教育の中で行われるのが国語教育です。これは、基本的に日本語を母語とする人を対象としています。一方、日本語教育は、日本語を母語としない人たちに日本語を教えるものです。今のところ、この2つは別々に、ほとんど関わりを持つことなく存在しています。
 ウシンスキー(ロシアの教育学者1824~1871)は、母語について次のように述べています。

 国民の言語は、遠い歴史のはてから始まる国民の全精神生活のもっとも素晴らしい、決して萎れることのない、永遠に新しく咲き開く花である。国語の中に全国民が、全祖国が霊化されている。国語のなかで国民の精神の創造力により、祖国の空・その空気・その自然現象・その気候・その野・山・谷・その森や川・その風や雷は、思想に、絵画や音に化した。…(中略)…要するに、自己の精神生活の全足跡を、国民は国語のなかに大切に保存するのである。国語は、国民の過去・現在・未来の世代を、一つの偉大な歴史的生命のある全体に結びつける最も主にした、最も豊かな堅固な結合である。それは国民の生活力を表現するだけでなく、まさにその生活そのものである。…(中略)…子どもは母語を学ぶとき、単にその音を学ぶのではない。母語の乳房から精神的生命と力を吸いこむのである。母語は、子どもに自然に関して、どんな自然科学者も説明し得ないようなことを説明する。母語は、子どもの周囲の人々の性格、子どもがその中に住む社会を子どもに知らせる。またその歴史、その社会の趨向についてどんな歴史家も知らせ得ないようなことを知らせる。それは、子どもを国民的詩情の世界に引き入れる。また最後に、それはどんな哲学者も子どもに伝えることのできないような論理的概念、哲学的見解を子どもに与える。…(中略)…国民によって創造された言語は、人間にコトバを生み出したところの、そして人間と動物とを区別するところの能力を、子どもの精神のうちに発達させる──つまり、精神を発達させるのである。…(中略)…母語を習得するとき、子どもは、単に単語やその組成・変形を習得するだけではなく、無数にたくさんの概念・事物についての見解・たくさんの思想・感情・芸術的形象・論理・言語の哲学を習得する。…(中略)…母語とは、かくも偉大な国民的教師なのである。

 国語科は、日本語を母語とする私たちが、日本語についての知識を深め、思考力や認識力を高めていくものでなくてはなりません。

「中等教科教育法(国語Ⅲ)」が目指すもの

 まず、教材研究の力(読みの力)を高めて欲しいと考えています。国語科は、いろいろな文章や作品を教材として扱います。定番教材はあるものの、教科書が違えば教材も異なります。それらの教材を教師が読めていなくては、教えられません。教材が読めるとは、意味がわかるといったレベルではありません。教材が読めるとは、その教材で何を教えていけばよいかが見えることです。
 教師になりたての頃、一読して分かるような文章は、教える必要がないと思っていました。読んだら分かるのだから、教えようがないとも思っていました。しかし、それは違いました。教える必要がない、教える意味がないと思っていたのは、教材が読めていなかったからです。教材研究とは、その教材で何を教えていくのかが見えるようにすることです。
 読みなんて、一人ひとり異なるのだから、自由に読めばよいとは思わないで下さい。最終段階として、自由な読みがあることは認めます。だからといって、国語科教育において初めから自由でよいのではありません。
水泳を教える時、最初から教師は「好きに泳ぎなさい」とは言わないでしょう。基礎的な動作を一つ一つ丁寧に教えていくはずです。読みも同じです。まずは、基本的な読み方を身に付けていくことから始めます。「型に入って型を出る」という言葉がありますが、国語教育においても同じです。型にこだわるところから、授業は始めるべきですし、この授業もそのように進めていくつもりです。
 読みの力は一朝一夕で付くものではありません。時間をかけ、繰り返し訓練していくことが必要です。他人の筋トレを見ているだけでは自分の筋力は鍛えられません。自らの力は、自らで鍛えていくしかありません。
 二つ目に、授業の力を付けてほしいと考えています。教師の一番大きな仕事は授業です。授業を通して子どもたちの学力形成を図ります。授業とは何か、国語の授業はどのように展開すればよいのか、一言でいえば授業を組み立てる力を鍛えていきます。
 授業に関わって、ここで発問について考えておきましょう。授業の中で、教師が生徒に向かって発する問い、これが発問です。
 なぜ、わかっている教師が、わからない生徒に問うのでしょうか。これは発問の本質にかかわる問題です。


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