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便りの先に(その十)(最終話)

 脚付きの碁盤を部屋の真ん中に置いて、その前に腰を下ろす。手元には棋譜と今日届いたはがき。
 碁笥を開けて黒石を掴み右上の星へ。次に白石を左上の小目。黒、右下小目。白、左下小目。もう何度も繰り返してきた手順なので、棋譜を確認する必要もない。黒は祖父の大迫吉郎。白は上総伸一さん。
 
 お互いに様子を見合うような展開から、まず黒の祖父が動く。白の手に反発して、戦いを仕掛けにいったのだ。
 
 白番の伸一さんはなんというか堂々としている。お手本のような打ち筋だ。決して無理をせずに少しずつ自分が有利になるように打ち進める。僕と打っているときにも感じたが、多分四人の中で伸一さんが群を抜いて強い。
 
 祖父は僕の現実の印象とは違って好戦的な棋風だった。伸一さんにいなされてもいつも隙を伺って、打ちかかっていく。

 そして黒の五十九手目、初めて有効打が伸一さんを捉えた。この瞬間、祖父はどのような気持ちだっただろうか。
 僕が初めてこの棋譜を並べたときは、思わず声が出た。
 
 ――これ、お母さんには内緒な
 
 不意に、祖父の声といたずらっぽく笑う顔が脳裏に蘇った。小さい頃にお小遣いをもらった時だっただろうか?
 
 祖父とは残念ながらそれほどたくさんの思い出はないけれど、この棋譜の中にいる祖父は「俺もなかなかやるだろ」と、笑みをこぼしていた。
 
 手順は進んで黒の八十三手目。ここからが僕の手番だ。祖父から引き継いだこの対局。最初はなんとなく郵便碁というものへの興味だった。
 文箱に収められた伸一さんからの絵手紙の束、そして少しずつ棋譜に書き加えられた祖父の字を見て、このまま打ち掛けになるのは勿体ない気がしたのだ。あとは祖父という人を全く知らなかったことへの後悔のようなもの。
 
 形勢は少し黒が打ちにくく、僕はどこかで戦いを起こす必要があった。焦ったり相手の地に嫉妬してもいいことがないので、相手の言いなりにならないように、様子を伺っていく展開だ。
 
 残念ながら上手《うわて》の伸一さんの着手に隙は見当たらず、むしろ僕のまずい手もあって、差は開いていくように感じた。

 碁が変わったのは伸一さんが入院し、美咲さんと交代した百四十手目から。美咲さんの着手は若々しく、物怖じせずに向かってくる勢いがあった。棋力は僕と同じくらいだろうか。
 
 棋譜を見ながらゆっくり並べていく。このあたりから、美咲さんの攻めだ。優勢を意識しないかのような大胆な攻めだったが、なんとか耐えきって攻守逆転。
 
 一手一手、この一ヶ月程の応手を思い出しながら石を置く。もう僕が逆転できる可能性は、この一連の攻防にしか残されていなかった。諦めずに、粘りの手を選んでいく。

 しかし美咲さんは僕の少し無理気味の攻めを澱みのない手で打ち返し、やがて戦いが終わる。幾ばくかの戦果はあったものの、逆転には程遠かった。
 
 そして今日届いたはがき。
 
『白 212手 16ー七』

 これ以上は攻めは効きませんよという、自陣を守る一着だった。盤面にはまだ打つ箇所は残っているが、お互いに得になるところは無く、ここから終局まではほぼ一本道だ。
 
 もう少し打ち進めることはできるが、ここが頃合いだろう。
 
「負けました」
  
 僕は小さくつぶやくと、投了の印にアゲハマ(取った相手の石)を数個盤上に置いて写真におさめた。

 美咲さんの最後の着手を棋譜に書き込み、大きく息をつく。結果は負けてしまったけれど、終局まで打つことができたことに僕は満足していた。
 
 212手 完 白中押し勝ち
 黒:大迫吉郎、上村優吾
 白:上総伸一、上総美咲
 
 伸一さんも美咲さんも結局会うことはなかったが、私信と着手から伺い知れる人柄。一年以上の間、繰り返し石を並べ着手をなぞることで、不思議な親密さを感じていた。

 対面の対局よりも、相手の囲碁が、盤に向かう気持ちが、理解できる気がする。
 
 そして昨年亡くなってしまった祖父。もう最後に話した言葉も覚えていないけれど、この棋譜の中に確かに祖父はいた。僕の知らなかった祖父が。
 
「じいちゃん」
 
 まだ富山は寒く、雪も積もっているだろう。春になって暖かくなったら、この棋譜を持って祖父の墓参りに行こう。
 でもとりあえずは、母からじいちゃんの話を聞いてみようかな。

 最後の便りを書くために、僕ははがきに手を伸ばした。

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