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何のために古文や漢文を学ぶのか。

古文や漢文なんて、何の役に立つの?
という疑問をさまざまな文脈で目にする。

何のために、古文や漢文を学ぶのか。
それは、自分の育った国の文化を理解するためだと思う。
文化は国を作り、人を作る。

日本の人口が減少に転じ、少子高齢化も甚だしい中、国を維持していくのに必要なこと。
それは、
『日本という国を世界の多くの人々に理解してもらうこと』
だと思っている。

これは外交上でも重要なことだ。
そして、理解してもらうためには、日本人自身が自国の文化を理解している必要がある。

海外をみると、移民の多い国でも、いやむしろだからこそ、自分のルーツを大切にしている人が多い。

ヨーロッパでは、自分のルーツがどこかを知るために遺伝子情報が登録されており、先祖を辿ることができる。
自分がどこから来たのか、というのはアイデンティティ確立のためには重要なことだ。

日本は島国で、今まで比較的その必要に迫られなかったこともあり、そういったことに無関心だったけれど、これからの時代はそうはいかない。

日本人は減っていく。
あるいは薄まっていく。
そのことはもう抗いようのない未来だ。
そして、日本の文化を理解する人がいなくなった時、日本は滅びる。

契丹文字のように、あるいは仰韶文化のように、その文化を知る人がいなくなったとき、文化は完全消滅する。

地球が滅びると想像することより、日本の文化が忘れ去られ、消滅してしまうことを想像する方が、私は寂しい。

しかしそれは、十分に可能性があることなのだ。

義務感で嫌々勉強するのが逆効果であることはわかる。
私も、中学高校の授業で古典文学が好きになったわけではないのでよーくわかる。
サ変カ変、ありをりはべりいましかり、など文法や単語だけ覚えても面白いわけがない。

大切なのは楽しむこと。
面白いと思えば、人は自ずから興味を持つ。
日本の学校教育ではそれはなかなか難しい。
他の教科にも言えることだけれど、そういった部分が個々の先生たちの資質に委ねられてしまっているからだ。

かといって、学校教育でまったく教えなくなると、まったく触れることがないまま育ち上がってしまう人が多くなるだろう。

そういう意味では、中学高校で強制的にでも古典に触れる機会を作ることで、ひとりひとりの子どもたちに興味の入口を残しておくという、一定の効果はあると思っている。

あー中学でやったよね、枕草子の暗唱。
そうそう、高校の古典の先生、マニアックでずっと李白について1人で話してたなぁ。

そんなふうに記憶の片隅に残っていることで、知らず知らず得られるものも少なからずあると思う。

何が言いたいかというと、
『古文や漢文に興味を持てなかった人たちに、その先にある楽しさ、面白さを知ってもらう』
というのが、まず私の野望の第一段階だということ。

最終的には、『日本の文化ってこういうことなんだな』と世界中の人々に理解してもらうことだ。
ちょっと遠大すぎるけれど、そこが本当のゴールだ。

ただ神社仏閣を見学するだけでは、文化を理解したことにはならない。
神社なら、祀られているのは何の神様で、それはどんな背景から生まれてきた考え方で、何を目的に広められたのか。
地域で、また日本の歴史の中でどんな役割を果たして来たのか。

それを知ると、個々の神社仏閣の歴史は全て繋がっていて、つまりそれは日本の歴史だということがわかる。

またしても長くなってしまったけれども…
つまり!
そうやって点と点が繋がってくると、とても面白くて、それを知らない人に伝えたい!
理屈をこねても、結局ただそれだけ。

それだけのことを頑張ります。

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