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奈良井宿お茶壷道中に垣間見る、江戸幕府の興隆

お茶壷道中を知っていますか?
正式名称は、宇治採茶使。
江戸時代にあった、宇治で採れた新茶を将軍家に送るため江戸から宇治へ取りに行く、という制度。
行きは東海道を通り、帰りはお茶の傷みを防ぐため中山道を通りました。
多い時は実に1000人以上が遣わされる大行列だったといいます。

宿場町の風情が残る、中山道の奈良井宿

よく『大名行列を遮ることが出来るのは、飛脚と産婆だけ』と言われますが、お茶壷道中は、大名でさえも駕籠を下りなければならない異例中の異例の存在。まあ、将軍家ですもんね。
徳川家康は、将軍となった後も宇治の茶を好み、わざわざ宇治から取り寄せさせました。
そのことから、お茶壷道中は1613年(慶長18年)に初めて行われ、徳川家光によって1633年(寛永10年)に制度化、実に235年もの間毎年続きました。

そんなお茶壺道中の行列を再現する催しが、毎年6月第1週に長野県の奈良井宿で行われています。
奈良井は、中山道六十九次の真ん中に位置する、大きな宿場町。
今も住民の方々の努力によってその面影を残しており、文部科学省文化庁によって重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

お茶壷道中の存在を知り、さっそく今年行ってきました。
実に4年ぶりの開催の開催とあって朝から賑わっています。

数年ぶりの賑わい
軒下にも芍薬が活けられて、爽やかな初夏の風に揺れる
奈良井宿では、江戸時代の高札場(幕府からの通達の掲示板)
も再現されている
豊富な湧き水が町のそこかしこに
防火用水と生活用水を兼ねていたそうだ

一年で一番賑わうであろうこの時期に、お店もたくさん出ています。
目を惹くのはやはり、こういうお店!

いい香りのする朴の葉で餅を巻いた、朴葉巻き
軸に葉がついた状態で作られており、買う分だけ切ってくれる
味は胡桃あんとつぶあんがあり、これは甘じょっぱい胡桃あん。
中山道をゆく旅人もこれで疲れを癒したのだろう、素朴なおいしさ

町家を改装した素敵なカフェが何軒もあり、お茶壷道中を意識したスイーツも。

カフェ『いずみや』
ジャズの流れるシックな和カフェ。インテリアが素敵
ブラウンパフェ¥1600
和三盆メレンゲや河内晩柑など和スイーツとフルーツがたっぷり
見た目も麗しい

町を歩いていると、呈茶席がありました。
あ、綾鷹??
ペットボトルのお茶で有名なあの綾鷹は、お茶壷道中の責任者である宇治御茶師の上林春松家が監修しているのだそう。
そして、このお茶席では、上林春松のお抹茶、瑞鶴を頂くことができるのです!
写真を撮り忘れるという愚をおかしたため画像はありませんが、とても美味しいお抹茶でした。
呈茶券500円。ぜひ、お茶壷道中に思いを馳せながらお抹茶を頂きましょう。

瑞鶴、すっきりとした清涼感のある苦みのあるお抹茶でした
お饅頭がまた美味しいのなんのって
写真を撮り損ねたのが悔やまれる
呈茶席、実はお茶壷道中を観るには
最高のロケーションです
裃姿の学生さんたちが忙しそうに
何かの準備をしている
彼らは都留文科大学の吹奏楽部!
提携してもう十五年ほどになるのだとか

実は、この奈良井宿のお茶壷道中は、山梨県都留市と提携しています。
お茶壷道中で運ばれた新茶は、中山道を通って都留市の勝山城の茶壷蔵で夏の暑さを避け、熟成させて江戸に向かったのだとか。
都留市でも、10月にお茶壷道中が行われているそうです。
そちらにもぜひ行ってみたい!

さあ、本日のメインイベント、お茶壷道中の行列が来ましたよ!

お代官様の被ってるアレ(陣笠という)をつけた先払いが
先頭で太鼓を打ち鳴らします
毛槍を振り上げて、下に~下に!と声をかけながら進む
行列の後ろの方には
利休帽を被っている茶道頭らしき人も見えます
茶道頭とは、茶道を職として主君に仕える人
お茶壷を担いでいます。
実際は御茶師によって詰められたあと、
羽二重でくるみ、箱に入れて真綿をつめられたのだとか
陣笠にはもちろん徳川家の家紋、三つ葉葵が描かれています
都留市のお茶壷道中もきましたよ
宇治から江戸まで、初夏から秋にかけて
歩いて茶壷を運ぶというのは大変だったでしょうね…

行列の最後には、ご祝儀箱も通ります。
私も微力ながら入れてみました。

茶壷といえば、やはりあのわらべ歌『ずいずいずっころばし』が浮かぶでしょう。
『茶壷に追われてとっぴんしゃん、抜けたーらどんどこしょ♪』
あの歌は、お茶壷道中が通るときは道々の掃除をせねばならず、葬列や田植えすらも規制された大変さを、農民たちが歌ったものだとか。
お茶壷道中に追い立てられて、戸をぴしゃっと締める。
行列が行ってしまったら、やれやれとほっと一息…
というような、そんな感じなのでしょうか。

お茶壷道中は、単にお茶を運ぶという意味合いだけでなく、将軍家の権威を示すためのものでした。
人数が増え、費用がかさんでも幕末まで続きました。
度重なる財政難により改革が行われても、将軍家の権威を示すという意味合いから廃止されることのなかったお茶壷道中。

その最後は、慶応3年。
形だけ整えられた急ごしらえのものでした。
たった4名で行われ、京都の二条城から新茶ではなく土用の直前のものが詰められ、人足によってただの荷物として江戸に運ばれていったということです。
一時期は1000人を超えた行列であったことを思えば、なんとさみしいものだったでしょうか。

そして、その年の11月9日に大政奉還。
お茶壷道中はまさに幕府の勢いを体現していたといえるでしょう。

行列は長泉禅寺から出発し、鎮神社まで練り歩きます。
午前と午後に一回ずつ。
お茶壷道中の皆さん、暑い中おつかれさま!

参考資料「茶壷道中誌(其の四)」内藤恭義・羽田富士夫


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