生きる意味とは

備忘録です。
忘れたくないと思った感情があったので記録。


10代半ばで摂食障害になったとき、その原因は色々と思い当たった。
体型によるいじめのトラウマ、勉強や部活での挫折、それによる不登校、お決まりで言われる幼少期からの母親との関係。

でも摂食障害のまま歳を重ねるにつれ、健康な人たちとはどんどんと差が開いていくように思えて、それが自分に強烈な劣等感や嫌悪感を抱く理由になり、治らない理由になっていった。

みんなと同じように高校に通えなかったとか、卒業できなかったとか、大学に進学もできなかったとか。
みんなは学生生活を送っているのに自分は引きこもっているとか。
アルバイトをはじめてみても、今度は正社員で働いたことがないとか。
奇跡的に正社員で働きはじめることができても、今度はみんなみたいに自立できてないとか、コミュ力ないとか、友達や恋人がいないとか。

次から次へといろんな理由を持ち出しては自分を否定して、鬱々と過ごして、症状は形を変えどおさまらないまま10年以上生きてきた。

明確にこれが摂食障害の原因ですって言える人もいるのかもしれないけど、私の場合はそうじゃないので、「結局わたしの摂食障害の原因ってなんなの?」っていうのが、長年自分自身と、身近にいた人たちの疑問だった。

でも多分、「これから自分は何に向かってどう生きていけばいいのか、どうすれば生きていていいと思えるのかわからない」というのがすべての根源だったのだと思う。


子どものころは、「親が自慢できる子供になる」という目指すべきものが明確にあって、そこに当てはまるように勉強頑張って、いい高校行って、いい大学行って、いい会社就職して‥という理想を本気で追いかけていた。

中学まではそこそこいい線行ったものの挫折して、そこから病気になり「理想ルートから外れてしまった、もうだめだ、どう生きていったらいいか分からない」という気持ちが強烈にあって、生きる理由や目的を見失った。

そのうち認められたい対象が親から世間に広がって、人に認められるために容姿が良くないととか、仕事できる人にならないととか、友達多くないととか、恋人いないととか承認欲求の塊に苦しむ時期が来る。

それも全部、どうしたら自分が生きていていいと思えるか分からなくて、とりあえず「人に必要とされて、認められたら生きていていいと思えるかも」と思っていたから。

そこから紆余曲折を経て「人に認められないと」という気持ちはだいぶ消えた。
他人は自分のことを良くも悪くも全然見てないし、他人からくだされる評価なんて気まぐれなので、まともに受ける必要がないというのが世間の荒波に揉まれて理解できたから。

ただ「どう生きていけばいいのか、どうしたら生きていていいと自分自身が思えるのか」は相変わらず分からない。
そもそもなんでそこに固執するのかといえば、「人生で成し遂げたい大きな目標・生きる意味が明確にあって、それに向かって生きる」が正しいあり方だと思っていたから。

でも自分にそんな目標はない。
自分ってなんで生きてるんだろう、どこに向かって生きてるんだろうと考えてしまい、それが見つからなくて苦しい。自分は生きてる価値なし、無意味な人生だ‥と落ち込んでいく。
そしてそんな生きる意味がない自分は自分は食べる価値がない、という摂食障害的考えにも繋がってしまう(食べることに意味が必要=生きる意味が必要みたいな。)


そんな中、さっき深夜に外に出て、夏のよるの匂いと街頭に群がる虫をみて、ふと子どものころ夏休みに家族で行ったキャンプや旅行を思い出した。
車から見えるはじめての景色とか、行ったことのない土地とか、大自然とか、バーベキューとか、お土産選びとか、楽しかったなあって。

同時に連れて行ってくれたお父さん、お母さんが浮かんで。

2人の子どもを育てる立派な大人に見えていた両親も、別に明確な生きる意味や目標を掲げて生きているわけではなかったはず。
ただ、子どもに楽しい思い出を作ってあげたいとか、元気に育ってほしいとか、そういうことを考えながら一生懸命働いて、日々を過ごしていたんだと思う(※今も元気に生きてます)。

ていうか、大抵の人はそうだったりするんじゃないの??

そしたら、別に何に向かって生きる、みたいのはないけど、「日常にある楽しみとか幸せを味わうため」を理由に生きていてもいいんじゃないか、と、なんだか初めて感覚的に思えたのです‥。

今だって、旅行で知らない土地に行って自然や歴史を感じて、美味しいもの食べて、ホテルに泊まる非日常感はものすごいワクワクするし、好きなアーティストのライブ行ったり、舞台鑑賞とか生のエンタメ観る時はすごいテンション上がるし、そういうことを楽しみに日々働いて生きる..じゃだめなのかな?

イベントごとじゃなくても、天気良くて気持ちいいとか、飼い猫がかわいいとか、本屋さんの徘徊とか、新しいコスメゲットしたとか、可愛い服見つけたとか、美味しいごはん食べたとか、そういう小さな楽しみとか幸せを感じるために生きて、生きるために食べるじゃだめ?いや、それでもいいんじゃない?と.. 。

(↑ちなみにこれ全部、100%純粋に楽しめてるわけでも、幸せと感じられてるわけでもなくて「こんな時間過ごしてていいの?」とか「これで楽しいって感じてていいのかな」みたいな罪悪感は常にセット)

世間のみんながみんな、何かを成し遂げるために生きているわけじゃないよねきっと。なんで生まれてきたのかは分かんないしそこに意味なんかないかもしれないけど、いま生きているから、生きている間に感じられる幸せや楽しみが少しでも多ければいいなって思いながら、毎日生きて、そのために食べる。

とりあえず、それでもいいんじゃないかな。。

摂食障害真っ只中のときって、「痩せること、食べること、こんなクズな自分が生きてる意味」しか考えてないから小さな幸せとか娯楽とか全く目に入らなかったけど、そういうものが罪悪感を持ちながらも少しずつ感じられるようになった今だからこそ思えたことで、なんか、はじめての感覚だったので記録したくなりました。


本当に心からそう思えたら、きっと楽になるんだろうなあ。

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