見出し画像

第271回、ウィッシュについてまだまだ語ります


気が付けば、映画「ウィッシュ」についての投稿も、今回で5回目になり、自分は一体何をしているのだろう? と自分で思っています。

この映画は、そんなに叩かれなければならないような作品だったのか?

自分のしている事はまるで、敵意のある自分の発言に正統性を信じて疑わず非のある相手を叩き続ける、ネットリンチ民と変わらないのではないか?
成程ネットで犯罪者を叩く人々の心理とは、こういう物なのかもしれないと今回身を持って感じています。

そうした事を自覚した上で、それでも自分はこの映画を叩かずにはいられないのです。いや語りたいのです。そうこの映画は、語らずにはいられない、そうするだけの価値がある作品なのです。


そもそもこの映画は、一見理想的な社会の裏に、とんでもない問題を抱えていたという、偽りのユートピアを描いた作品です。

SFでは昔から扱われているお馴染みのテーマですし、ディズニー作品でも、「ズートピア」や「トロン・レガシー」等がこれに該当するので、ある意味ディズニーの王道内容でもあり、自分の好きなジャンルでもあります。

本来ならウィッシュは、自分の大好きなテーマの作品であり、大絶賛をしていても、何らおかしくない作品なのです。

それがなぜ、自分を含めた多くの人達に批判をされる事になっているのか?
ネットの意見を見てみると、この作品の批判をする人達は、大きく二種類に分かれるようです。

一つは言っている事はわかるのだが、展開が稚拙で内容が薄いという、やや作品を肯定している人達の意見です。自分はこちらの意見よりになります。

そしてもう一つが、そもそも今回のヴィランのマグニフィコ王って間違っていたのか?むしろ正しくなかったか?と作品を根本的に否定する意見です。

今ネット民の間では、マグニフィコ王は国の統治者として間違っていたのか正しかったのかで、論争が巻き起こっています。

これはとても面白い現象だと思います。
なぜならこれまでディズニー作品のヴィランは、キャラクターに魅力を感じる事はあっても、行っている事自体は誰が見ても悪い事であり、行為自体が正しいか否かで意見が分かれる事はなかったからです。

マグニフィコ王は、一見理想的な社会が実は‥の理想的な部分があまりにも魅力的に見えた為、裏の部分が露呈しても、むしろ理想社会を築く為には、あの程度の事は必要ではないのか?と言った意見が続出しているのです。

もしディズニーが、こうした論争が起きる事を狙って作られたのだとしたらこれは、かなり秀逸な作品だと言えるかもしれません。

しかし恐らくは、そうではないのです。
ディズニーは、人々の夢を奪う(管理する)今回の敵役を、誰がみても疑いようのない、悪だと信じて作っているのです。
コテンパンに叩いてやっつけて何ら問題のない相手だと思っているのです。

それが公開をしてみたら、思いの外人々からそう思われなかった所に、今のディズニーの思想と、観客との意識のズレが現れているのだと思います。


前回自分が言っているように、マグニフィコ王が建国をしたロザス王国は、社会主義国よりの思想に基づいています。しかしこの国は、他国を侵略している訳ではなく、王が新天地に一から築いた国であり、国民は意図しない生活を強いられている訳でもなく、国の方針を受け入れた上で自発的に移住をしてきた人達ばかりです。

18歳になったら国に願いを預ける制度も、その中から月一つずつ年12個しか願いが叶えられない事も、つまりは殆どの人の願いは叶えられない事も全て承知をした上で、この国の人達は生活をしているのです。

ロザス王国は、自分達の価値基準からすれば、おかしな所のある国です。
主人公のアーシャがこの国の制度はおかしいと感じるのも決して間違えではありません。

しかし全ての人の願いを無造作に叶えれば、秩序が乱れて国が亡ぶ可能性があるので、願いを選別する必要があると考える王の思いも一理あるのです。

そこでネットでは、アーシャとマグニフィコ王のどちらの考えが正しいのかの二択で大論争になっているのですが、この論争はとても意義のある事だと思うのですが、自分からこの論争にさらにもう一言つけ加えさせて貰うならどちらが正しいかという事だけではなく、正しければ何をしてもいいのか?間違っていたら存在してはいけないのか?と言う事も考えて欲しいのです。

正しいから滅ぼされるべきではなかった。間違っているから滅ぼされて当然と言う事だけではなく、間違えていると思う部分があったとしても、それで滅ぼしてもいい理由になるのか?と考える事も、必要だと思うのです。

例えば社会主義の思想は、資本主義の人達からすれば、間違えた考え方だと言えますが、でもだから社会主義の国は存在してはいけないのだ。社会主義の国は全て滅びるべきだと考えるのは、とても危険な考え方だと言えます。


これは何も社会主義の思想に限った事だけではありません。
世界には、自分達の価値観で考えると、おかしく感じるような風習や伝統、宗教を信仰している国が沢山あります。

もちろんそうした慣習に疑問を感じて異を唱えたり、改善をしていく事は、意義のある事ではあります。
でも一つの正しいと思う価値観、グローバルスタンダードな基準で世界中の全ての価値観や伝統を判別したり断罪するのは、危険な事でもあるのです。

例えば日本の文化にも、女性禁止の相撲や歌舞伎、男性禁止の宝塚等があります。これに性差別と異を唱えて男女の性差を取っ払う事だけが、絶対的に正しい事だと言えるでしょうか?

もちろんこうした伝統に、異を唱えてはいけない訳ではありません。
相撲や歌舞伎が心から好きな女性の主人公が、自分の夢を叶える為に伝統に抗い、古い慣習を変えて夢を叶える物語や、トランスジェンダーの青年が、憧れの宝塚に入団すると言った物語は、物議を起こす可能性がありますが、社会の慣習に抗って自分の夢を叶えるという点では、観客達に感動や勇気を与える事もあるかと思います。

もちろんこの場合でも、主人公は多くの観客に叩かれる事になるでしょう。

でも今回のディズニーがしている事は、主人公のアーシャが自分の夢や願いを叶える為に、社会の慣習や困難に立ち向かうのではなく、ただ思想としてそれはおかしいから、なくすべきだと言っているに過ぎないのです。

それはその伝統に何の思い入れも愛情もない人が、ただそれが性差別であるというグローバルスタンダードな思想の元に、相撲や歌舞伎、宝塚の伝統を破壊する行為のような物なのです。

これが自分が「正しければ何をしてもいいのか?」と思う疑問の根拠であり多くの映画評論家に「言っている事はわかるが、展開が稚拙で内容が薄い」と言われる所以になります。

この作品におけるアーシャは、ただグローバルスタンダードな思想に基づく思想革命家であり、物語の担い手としての魅力に欠けているのです。


この作品にもう一つだけ例をあげるならば、ある会社にアルバイトで入った若者が、入っていきなり「この会社はグローバル的におかしい」と社員達をたきつけて、社長を辞任させるような物であり、そんな話を見せられても、言ってる事がいくら正しくても「お前はどこの誰の何様なんだよ?」と言う気持ちが先行してしまい、到底主人公に共感ができないのです。

会社の習慣を変えて革命を起こすような話にするならば、主人公はやはり、次期社長の二代目候補にして、社員からは所詮自分達とは立場が違うのだと疎まれながらも、ぶつかり合いながら心を通わしていき、やがては共闘して現社長に立ち向かい、新しい会社にしていく話にする必要があるのです。

なぜならいくら慣習として古い考えだとしても、社長に対抗をできるのは、実際の所、入りたてのアルバイト員ではなく、次期社長候補だからです。

プリンセスにはプリンセスだけが持つ立場と役割がきちんとあり、自分が「誰もがプリンセス」と言う考えに、懸念を感じる理由がここにあります。

だって社員の自分達が社長に「誰もが社長、君達も社長なんだよ」と言われたらどう思いますか?「こいつ人をおちょくっているのか?だったらあんたと同じだけの給料を、自分らに払いやがれ」と思いますよね。

もちろん社員から社長になる人もいない訳ではないですが、そういう人達もやはり一部の人であり「誰でも」ではありません。

そしてその限られた社長の座を目指すのは、決して悪い事ではありませんがそういう人が他の社長を目指さない、社長になれない大多数の人達に最低限気を配って欲しい事があるとすれば、社長を目指さない普通の生き方をする人達の価値観、人生観を否定しない事です。

話がウィッシュから離れそうなので、ここらで終わりにしようと思いますが自分は基本的にアーシャと同じ気持ちであり、夢は大切だと思っています。しかしそれを観客が共感する物にできるか否かは、物語を描く作り手の手腕にかかっているのであり、本作を見る限り今日のディズニーは、はやりこの物語の描き方、創作能力が落ちている事を、感じざるを得ません。

しかしながらこの作品に、これだけ語りたくなる魅力があるのも事実でありウィッシュが決して、観るに値しない作品ではないのだとは思っています。

色々と語りすぎて、最近はむしろこの作品が、好きなのではないかとさえ思い始めています。
自分はこの作品は実質、マグニフィコ王が主役の、半沢直樹的な企業ドラマだと思っています。
お前如き小娘が主役の話ではないのです。
後「星のカービィ」モドキも、お呼びでありません。
こいつか一番いらない存在だったと思います。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?