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第315回、完全人間を目指すのは、いけない事なのかを論じてみた


前回に続いて「映画ドラえもん のび太と空の理想郷」の感想になりますが、この映画は、どうやらディズニー映画の「ウィッシュ」同様に、自分の琴線に触れる作品の様でした。

「琴線に触れる」とは本来「良いもの素晴らしいものに触れて感動する」という意味らしいですが、他に言い表したい適切な言葉を自分が知らないので、意図的に誤用をしています。


まず前提として、今作品の敵が、全人類を洗脳して、強制的に完全人間化をしようとした事に対しては、まぎれもない悪行で、その事に対しての擁護をする意思はないのですが、その上で、では「人間が完全人間を目指すのは、いけない事なのか?」という事を論じたいのです。

現実世界でも、ジャンルは様々あれど、完璧な学力や完璧な身体、完璧な演奏力を目指している人達は、実際に大勢います。そういう人達は、それを目指していない人達から見ると、どこか異様な存在に見えるのだと思います。

自分もスポーツや学力等で一番を目指している人に、少し近寄りがたい物を感じています。しかしだからといってそういう人達に「あなたの生き方は、間違えている。完全なんて目指さずに、本来の自分を愛するべきだ」とは、言えないのです。

自分だって、自分の好きな事には、それなりに向上心があるつもりです。
そしてそれは他人から見たら、異様な事に見えるかもしれません。

完全を目指さない事、素の自分である事は、確かに素敵な事なのかもしれません。しかしある事において一番を目指している人を、それを目指していない人が、その生き方を否定する事に対しては、違和感があるのです。

「あなたは一番でなくても、完全でなくてもいいんだよ」という言葉かけはその人が心の底から挫折をして、今の自分を受け入れられなくなった時に、そっとかけてあげればいい物ではないでしょうか?

向上心を持って頑張っている時に、かける言葉ではないように思うのです。


「音楽が下手なしずかちゃんだって、いいじゃない」
これには同意はできます。しかし「音楽な上手なしずかちゃんなんて、しずかちゃんらしくない。
そんなの全然、しずかちゃんじゃない」
というのは、どうなのでしょう。
「乱暴でないジャイアンなんて、ジャイアンらしくない」のでしょうか?「いやみではないスネオは、スネオらしくない」のでしょうか?

そこにある〇〇らしさとは、一体、誰にとってのらしさなのでしょうか。
「その人らしさ」といいつつも、のび太が抱いている相手へのイメージを、勝手に相手に押しつけているだけとは、いえないでしょうか?

向上したら、改善をしたら、それはもう、その人らしくないのでしょうか?

その理屈だと、学問や教養を身につける事は、その人の人間性を奪う行為になってしまいます。


勉強の苦手なのび太は、いつも0点ばかりを取っています。
のび太が自分で「これが素の自分なんだからいいじゃないか」いう分には、別に構わないのだと思います。
それに対して他人が、向上心のない奴だと言う必要はないと思うのです。
のび太が100点を取れるようになる必要も、ないのではないかと思います。

しかし0点を取り続ける事が、果たして、のび太らしい事なのでしょうか?
のび太は、学力が向上したら、それはもうのび太らしくないのでしょうか?

のび太にも、誰にも負けない特技があります。
それは拳銃の腕前とあやとりですが、それを「何か得意な事があるなんて、のび太らしくない。のび太は何もできないのがのび太なんだ」等という人がいるでしょうか?

「苦手な事も得意な事もあるのが人間らしさ、自分らしさなのであり、映画の理想郷は、全ての物事において完全な人間を作ろうとしているのだから、そもそもの論点が間違えている」のは、わかっています。

わかった上で「人が理想を、完全な自分を目指すのはいけない事なのか?」という事を論じたいのです。

念の為にいっておくと、自分は親が子供に、優秀な人間にする為に、一番にさせる為に、何かを強要する事に対しては、否定的な立場をとっています。
しかし子供が自分の意思で、何かに対して一番になりたいと思って、努力をする事においては、それを否定する気になれないという事なのです。

全世界の人類に、洗脳によって、完全人間を目指したこの映画の理想郷は、間違えているのだとは思っています。しかしだからといって、完全な人間、完璧な社会を目指そうとする気持ちは、抱いてはならない事ではないように思い、一個人がそれを目指す分には、一社会が自分の所で行っている分にはそれは必ずしもあってはいけない事ではないように、自分は思うのです。


ウィッシュは、人々に成りたい自分を諦めさせる事で、理想社会を築こうとしていたのに対して、この映画では、人々に完全な人間を実現させる事で、理想社会を築こうとしており、両者は真逆な思想の上に成り立っています。

悪側のかたばかりをして、お前は一体、どちらの思想を支持しているのだ?と思われるかも知れませんが、自分は別にどちらの思想も支持していません
ただ「自分が支持をしない思想が、この世にあってはならない訳ではない」という事を主張したいだけなのです。

世の中には、様々な価値観、生き方があるべきだと思っているからであり、
それは映画のヴィラン側が思い抱く理想社会に対しても、同様なのです。

自分に関わりのない所で、他人がそれを目指している分には、別にどの様な思想の社会があっても構わないのではないかと、自分は考えているのです。
(もちろんそれを支持しない人が、反旗を翻す自由もあるべきなのですが)

仮に存在してはいけないのだとしても、滅びてしかるべきなのだとしても、思想が間違えているのだから、考慮をする余地がないというのではなくて、ヴィラン側の思想にも耳を傾けるべき要素が、考えるべき要素があるのではないかとは思っているのです。

こいつは面倒くさい奴だなと思った人、全く持ってその通りだと思います。

「完全でなくてもいい」という事は、別に「完全であってはいけない」という事ではありません。
完全ロボットのソーニャも、いてはいけない訳ではないのです。
そして映画でもっと、完全少年な出木杉君の出番を増やして欲しいと、自分は思っているのです。

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