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『優しくしないで』と彼は言った

何かから目を背けるように。言った。

その何かが何だったのかずっと考えている。

手順を追ってその何かについて思索する。

まず、『どうして優しさを拒むのだろう。』と不思議に思ったということが問題としてある。

実はその問いの前提を疑ってみれば、その不思議さは解消される。前提として『優しさは受け取るべきもので、またそうするのが自然で普通の事だ』と無意識のうちに認識している私の偏見があるのだ。

その私の偏見は、常識としても受け入れられていると思う。(私の偏見が常識と一致した瞬間、それは偏見で無くなるのも面白い。個々の偏りが共通していれば、それはもはや水平らしい。)

すなわち、いわゆる常識的な考えから逸脱した物の見方をしないと理解できずに不思議に思うのだ。

そして恐らく彼はその常識外の人間だった。だからこそ優しさを拒むか、拒まないかというか選択肢を持っていたのだろう。(今思えば、彼はそういう点で魅力的かも。当時はそう思う余裕は無かったけれど。)

そうして常識とは集団的偏見だということを理解すると、確かになぜ優しさを拒んではいけないのかと聞かれると言葉に詰まる。大抵、常識に根拠など無いのだ。

相手の思いやりなのだから、素直に受け取るべきだという考え方をその常識の根拠として挙げる人もいるかもしれない。(私も当時そう思って少し腹を立てた。)

だけれど、それは思いやりという言葉を盾に、相手の主張をことごとく跳ね除けることにつながる、危険な考え方だと思う。

ではなぜ危険なのか。
そんな盾ばかり構えていると、
困ることが二つ起きる。

(1)相手の意見、思いが全く通じないことで何でも話していいという信頼関係が失われる。

(2)相手がそれに対抗するため、最終兵器『自由意志という概念』を持ち出す。何をするのも自由で、その権利があると主張し、堅い盾の防御を突破しようとするのだ。結果、矛と盾の不毛な対決となる。

片方しか起きないか、両方起きるのかは人それぞれだと思うけれど、どちらにせよそのような状態になると関係の回復は難しい。それは対等で自立した理想的な関係性とはかけ離れた状態なのだ。

そして恐ろしいことに、私を含め多くの人は無意識下でその盾を保持している(それは常識という名をとって脳裏に染みついている)ため、気付かぬうちにそれを用いてしまうことが度々あるのだ。無意識下で出来ることは何度も自然に繰り返される。毎晩の歯磨きと同じ。

つまり、上で太字となっているように、気付かぬうちに『そんな盾ばかり構えてしまう』ことになるのだ。

そんな状態を引き起こす危険なものを、常識という名で無意識下で持っているのはひどく恐ろしいことだという事を意識的に認識し、警戒すべきなのだ。

そして結局この手の問題に対する最善策は一つで、相手との一対一の対話に真摯に向き合うことだけだ。それによって外の世界が見える。常識から逸脱できる。とまではいかなくとも、無意識のうちにその盾をふるう事は無くなるだろう。

つまらないほど単純で抽象的で面白くない解答。だからこそ真理なのかもしれない。


私はそれができなかった。

自分のテリトリーから外に出られなかった。

それでは外にいる人のことはわからないのも当然だと今なら思う。

彼が何から目を背けていたのか。その問いの答えは今なら妥当そうな推測くらいはできる。少し外出できた今の私なら。

多分、彼は他人の優しさを素直に受け入れることのできない、捻くれた自分から目を背けたかったのだろう。

恐らく彼は、常識と自意識の間で揺らいでいた。常識的には、こうすべきだけれど、そうできない、そうしたくない。常識に流される自分の姿に納得できない、けれどもそれによって誰かを悲しませるのも違う。そんな困難に面していたのだろうか。

彼の自己は世間一般の常識の外に位置していたと思うけれども、そんな彼でも常識の侵入によって心を侵され、混沌としていたのだろうか。

彼は自信を持って自意識という城を堅く守り抜くべきだったのかも知れない。そして私が世間一般の常識というテリトリーに位置する自意識から抜け出す(=外に出る)ことができれば彼を少しは理解し、彼がそうするのを手助けできただろう。

もしくは、もう一つの選択肢として、彼がその城を開け放ち常識を取り入れ、私と似た自意識を持つというのもあり得た。(この場合私は外に出る必要はなく、彼が常識を取り入れるのを手助けするだけでよかったのかも知れない。彼との関係にあたっては。)

どちらが正解だったのかは分からないけれど、私は彼に前者で、つまり、そのままでいて欲しかった。

そのために私は常識の外の世界に出て、彼の家をノックして、そこで一緒に暮らしを共有しながら彼を強く肯定してあげたかった。彼に自意識を保つ自信を少しでも与えてあげたかった。そうできたらよかった。

何にも捉われないが故に豊かな発想。ゼロベース思考。それを持つ彼は私にとって魅力的だったし、世間的にもそんな人はあまりいなかっただろうから。

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