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読書#18-3 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」著:熊代亨

この記事の位置づけ

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の読書録。以下の続き。

気づき

ガキ大将は今の社会に許容されるか?

昭和以前よりも高水準の遵法精神と素行の程度が期待される、秩序正しさのアベレージが高まった社会では、子ども時代からより高い遵法精神と素行の程度が求められ、そこからはみ出した子供をも秩序へ導く援助が必要になる。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 子供の素行不良が問題になっていた時期もあった気がする。けれども、あれはごく一部の非行をマスメディアが全体であるかのように取り扱った結果だろう。

 実際に素行不良がまったくないわけではないと思うが、比較の問題で、昭和と比べれば子供の素行は格段に秩序正しくなっているに違いない。

 昭和の時代の乱暴なガキ大将。当時は社会が許容していただろうが、今は許容されない。堂々と活動していればしかるべき施設にいれられ、教育され、社会の中に再配置されるだろう。

 どこぞの”コメンテーター”が、戦争に関する議論の中で反論に窮した時、「どうせ殴り合いの喧嘩もしたことないくせに」というマウントをとろうとしていた。彼が昭和の時代のガキ大将だったかどうかはわからないが、類する何かだったのだろう。

 殴り合いの喧嘩をした経験を美化してマウントをとる行為に、そもそも品性を疑うけれども、その点はいいとして、やはり彼の生きた時代では、殴り合いの喧嘩を社会が許容していたのだ。

 今はどうだろう。殴り合いの喧嘩は社会に許容されているか? そんなことをしたら、異端者として社会から排除されて、どこぞの施設かカウンセラーの世話になるのではないだろうか。

 これからも自分の世代で許容されていたことが、次の世代で許容されなくなることがあるだろう。そのとき、私が子供の頃は大丈夫だったんだぞ、みたいなマウントをとったとしても、その時代の子供から見れば単なる異端者にしか見えないわけだから、やめた方がいい。

 どこぞの”コメンテーター”は身をもってそれを証明してくれた。反面教師としてはとてもいい働きをしたと思う。

暗黙のドレスコード

清潔に馴染めないマイノリティには清潔であるよう強制し、それができなければ羞恥心や罪悪感を、時には排除や疎外さえ与えかねない

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 東京もんはこぎれいだよね。

 と、東京もんでない、田舎もんの私が言うけれど、最近では、ファストファッションが全国に広がっているから、別に格好に差はない。髪型も化粧も、メディアを通して知ることができるので、場所による外見の差異はほとんどなくなったのではないだろうか。

 それは、東京だけでなく、いたる場所で清潔さが強制されてきたということでもある。

 服に関してはファストファッションがそれを容易にした。安く流行をとりえらた服が供給され、とりあえずそれさえ着て置けば、最低水準の清潔さが保たれる。

 服だけでなく、化粧や髪型も、ある程度の水準が求められる。いつの間にか、社会に溶け込むためのドレスコードが存在しているというのは、おもしろい話だ。

 清潔さは、やはりこの先さらに水準をあげるだろう。今はまだ不潔はある程度許容されている。問題は、社会が、不潔を許容しなくなったときだ。おそらく、不潔は病気とされる。

 社会は、自らの秩序に適合しない者をしばしば病気として判別する。今は許容されている不潔、さらには”かっこわるい”が、病気となる日が来るかもしれない。

東京の街は巨大な精神科病棟

東京の空間設計によって人々の行動が定められ、習慣や規律までもがインストールされていくとしたら、ある意味東京は、巨大な精神科病棟のように機能している

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 精神科医ならではの考え方、表現だなと思った。

 おそらく、社会が許容しなくなったものへの対抗策として、公共の設備が増築されていったのだろう。道路の横断を防ぐためにガードレールができて、禁煙のために公園から灰皿がなくなって、美化のために道路からゴミ箱がなくなって。

 おもしろいのは、その施策が、後にやってきた人々に同じような行動を強制することだ。社会が許容しない、ということを、町全体で人々に伝え、ちゃんと強制する。

 とても便利な街となったけれども、同時に不自由さな街にもなった。

 まさに、この本を体現するような話だ。

 

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