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読書#18-1 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」著:熊代亨

どんな本

社会全体の変化と、新旧の生きづらさの全体像を物語ろうとする人が今の日本には乏しいから、これから私は、この社会について物語ってみる。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 あの頃はよかった。

 そんな呟きは、いつの世でもどこの町でも溢れている。社会は否応なしに変化していくというのに、私達は変わらないものだから、同じ速度で変われなければ、ただただ置いていかれる。そのギャップは不快だろう。

 本の中の言葉を借りれば、私達は新時代の社会構造の中で再配置された

 新時代の社会は、健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会だ。すばらしいと思えるだろう。けれども、そこにはどこか不自由さがある。なぜか。その答えが、この本の中にある。かもしれない。

 この本は、日本の社会の変化についてを、精神科医の視点から物語っている。飲み屋のおっさんが語る”昭和はよかった”という懐古的な説教ではない。いったい何がどのように変わったのかを俯瞰的に捉え解析したものだ。

 正直、めちゃくちゃおもしろかった

 タイトルを読んだ時点で想像に難くないと思うが、ものすごく皮肉的な書き方がなされている。さらに歯に衣着せぬものいいが多く、分析結果が痛烈だ。

 読んでいると、え? こんなこと書いていいの? いや、もう少しオブラートに包んだ方がよろしいのでは? と不安になる部分が多々ある。将来的にこの本が有害図書として発禁になっても驚かない。

 そういう意味では、今の内に読んでおくことをおすすめする。

気づき

多かったので3回に分ける。

超高難易度のムリゲーと化した子育て

二〇二〇年の親たちは、昭和時代の親よりも厳しい世間からの検閲を受け、と同時に、自分自身に内面化された両親や道徳心による検閲をも受けなければならない。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 親の責務が多くなった。これはそうなのではないかと思う。

 子供が正しく教育され、健康に育てられなければならず、その上で彼らの人権が守られなければならない。

 標語は立派であるが、その方法を私達は教わっていない。おそらく誰も知らないだろう。そもそも実現可能なのかどうかもわからない困難なタスクである。

 そんな困難なタスクであるというのに、経済的な援助は乏しい。ゆえに、働かなければならず、子育てに専念することもできない。さらにいえば、昨今の風潮だと、専業主婦として子育てに専念することも咎められる。親は、自分の時間を大切にしつつ、男女問わず経済的に自立していて、ハイクオリティな子育てをする、という超人染みたことを求められている。

 サーカスで火の輪くぐりをする方がまだ簡単なのではないだろうか。

 昭和という時代と比較してみると、かの時代には、これら三つの概念が希薄だった。自分の時間よりも家族の時間だったし、女性に経済的自立を求めていなかったし、子どもはかってに育つものだった。

 ハイクオリティというのは、この本の中で皮肉染みて使われる言葉であるが、現代のハイクオリティな社会を構築するために、こういったハイクオリティな子育てが求められるようになってしまった。

 最近の親は、子供に関心がないとか、育児放棄するとかいわれるけど、そもそも過去とは求められるタスクの量もクオリティも段違いなのだ。私達が体験した子育てをそのまま適用できないし、何が正解かも誰も教えてくれない。誰も褒めてくれないし、少しでも怠れば非難される。

 その中で、親は孤立無援でムリゲーと化した子育てに挑む。本当に、世のお父さんお母さんには尊敬の念を禁じ得ない。これは皮肉ぬきで。

経済的自立至上主義

医療や福祉の制度が被ー救済者に期待する方向性とは、経済的に自立した個人、それも現代の秩序に妥当するような個人なのであって、そうでない方向性ではない。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 現代社会での支援とは、自立できるようにすること。

 この考え方に改めて気づかされた。いわゆる社会的弱者であっても、社会の中で再配置して、助けるのではなく、自立できるように支援する。

 この考え方自体、そこまでおかしいとは思わない。ずっと支援するよりも、社会の枠組みの中で、自分なりに経済的自立ができた方がよいだろう。

 もはや、養う、という言葉は悪なのだ。

 顕著な例だと、過去の家族モデルだと、女性は家事と子育てに専念し、男性が金を稼ぐというものだった。この場合、女性は養われていた。

 しかし、今は、皆が皆、自立した社会。社会は、女性にも経済的に自立していることを求める。

 現代社会に染まった私は、この思想に違和感を覚えない。過去の視点から見れば、女性に働かせるなんて今の世の男はなんと甲斐性のないことかと憤るかもしれない。どちらの思想が優位かと聞かれてもわからないが、少なくとも現代で、マジョリティな考えは前者である。

不健康な人は悪人か?

私たちはかつてないほど健康で長寿になったと同時に、健康で長寿にならなければならなくなったのではないか。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 健康で長寿でありたい、とは思うけれど、健康で長寿でなければならないとは思わなんだけどな。

 と私などは思うけれど、それは健康にわるいからやめた方がいいよと、友達などから言われたことならある。おそらく、あれのことなのだろう。

 自らの身体くらい、自らの判断でテキトーに扱わせてくれ、という考えが許容されない社会になったのは、その通りだと思う。

 毎日ポテトチップスを食べて生きていきたい、と願う人に、医者はそれをやめなさいと言う。そりゃ医者は長生きさせることが目的なのだから、そう言うだろうけど。逆に、いいね、どんどん食べなよ、という医者は何を考えているのか。

 そんな時代は訪れないと思うけれど、医者には、ただ現状判断だけをしてほしいものである。つまり、ポテトチップスを食べ続けたら、こんな症状が出て、いついつまでに死にます、以上、といったかんじ。

 その後の選択は、患者がすればいい。

 ただ、この思考を突き進めると自傷をどこまで許すかという話になる。自分の体なのだから傷つけてもいいだろう。自分の命なのだから好きに失わせてもいいだろう。

 この考えに賛同すべきかどうか。少なくとも今の社会は許容しない。これからも許容されることはないだろう。

 

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