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母のこと

以下は30歳当時の僕(健常者時代)が、2011年8月にブログで綴った記事になります。不勉強だった僕は、脊髄小脳変性症が遺伝性の病気であることを知ろうとしませんでした。どこか上の空でした。父の台詞「隔世遺伝だからお前らは心配するな」を信じて疑いませんでした。今なら分かるよ。超辛いよね。お母さん、ゴメンね。


幼少期、例えば授業参観なんかに母が来てくれるのを楽しみに思っていました。若くて美人の母親を、周囲に自慢したかったのでしょう。実際、羨ましがられたこともありました。それが子供心に、すごく誇らしかったのを今も覚えてます。当時、母は保険の外交員をしてました。学生時代は、剣道部の主将を務めたこともあったそうです。活発的でした。

僕が高校に進学した頃から、母は体調を崩すようになりました。病気でした。それも重度の。「脊髄小脳変性症 」。父親と、医師からその病状を聞いて、でも僕自身は事の重大さにまだ気付いていませんでした。家族でサポートしようと一致団結しました。母の姉にあたる伯母の存在も大きく、まだ学生だった僕には、大した負担ではありませんでした。

この病気の厄介な点は、回復の見込みが(現在も)なく、徐々に筋肉細胞を蝕んでいくことだと思います。大げさに言えば、昨日できたことが今日はできないかもしれないという恐怖。少しずつ、でも確実に運動能力が衰えていくのです。40代にして、母は一人で歩けなくなりました。自宅での移動手段は、杖から歩行器、車椅子に変わっていきます。

2010年4月。母と愛犬を連れて近所の公園でお花見

次第に塞ぎ込んでいく母の姿を見るのを嫌い、時に敬遠することもあります。白状すると毎晩飲み歩いているのは、精神面で足を引っ張られたくないからという理由もあります。一方で、なるべく接点を持ちたいとも考えてます。矛盾してます。日々のリハビリの一環に付き添うのは大事な日課です。料理は学生時代に一通り覚えたのでお手の物です。

昨晩未明、大量の睡眠剤を服用した母が意識を失い、朝から我が家は大変でした。日中の友人との約束も、夜の合コンもキャンセルし、父と伯母と共に、掛かりつけの総合病院まで搬送しました。言いたくはないけれど、自殺未遂です。過去にも同様のケースがありました。今回は、前回ほど精神的な動揺はありません。慣れてはいけないのですが。

いつからか、僕にとって母親は介護の対象となりました。無論、父や伯母の抱える負担を鑑みれば随分と甘いことを言っております。先ほど、昔の写真が収納されたアルバムを見返して、涙が出てきました。母にとっての幸せって、どんな形なのでしょうか。僕は、母にとって誇りに思える息子でしょうか。何をすれば、喜んでくれますか。ねぇ、お母さん。

大好きな母の膝の上でご満悦な幼少期の僕

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