正直な気持ち

私は幼少期より、音に敏感で車の音にいちいち怯えている。

親からは「え、どうって事ないのに。そんなにうるさいと感じるの?」と不思議がられてきた。

車のエンジン音だけではない、ちょっとした何気ないドアを閉める音、人の咳払い、ほんの一瞬なのに永遠に感じるその苦痛は自分にとっての永遠の課題。

ノイズキャンセラーのイヤホンを買ってきても、外せばまた嫌な音を聞くハメになる。

こんな状態が続いて気が狂いそうになった(実際なりました)

学校の先生からも、「尾崎君はなぜ授業中ビクビクしているのですか?」とあるとき聞かれた時がある。

その答えはこうだ。

「チョークの音です。黒板とチョークが接触する際のキュッキュッという独特な音が耳で感じられて気持ちが悪くなります。それと、隣の席の子の鼻息が気になって…」

そう答えたら、先生は「君も人の事は言えないんじゃないか」と。

確かに何気ない「生活音」。それは私のように音に敏感な人にとってみれば一刻も早く遮断したい、自室のベッドの布団の中に潜り込んでその音の世界から離れないとさえ強く思っているかもしれません。

でも、それがあまりにも違う世界に生きていると、「考えすぎる人、自分は人のこと言えない」と相手から顰蹙を買われてしまいます。

これは私自身も気にかけています。

それは私が「聞きたくない音」も、周りの人からして見れば自分と同じで「聞きたくない音」として存在しているかもしれないのだから。

だから正直なところ、私は生まれてくる世界を間違えてしまったと思っている。

かと言って精子に戻れる能力も、子宮も無し。

病であって、それが「自分自身」だと言う事に気が付いても街に出るのが怖い。

だって家の外の世界には車のエンジンがブーンブーンと鳴りまくっているのだから。

家の中にいる時もたまに聞こえると立ちすくんでしまう。

こんな自分が何回嫌いになった事だろうか。

いや、嫌いになるんじゃない。私の感性を疑ってしまうのだ。

この世界には私がうるさいと思う音を「自分はこの音が好きだ」と言う存在もまた居る事を忘れてはいけないとハートが私に警告する。

この世界は音に溢れている。

正しく言えば、この世界は「好きなもので溢れている」のだろう。

だから、自分が好きな音を聞くためにそういった音を奏でるのだ。だからそれはそれでいいんだ。ただ、その音を遮断してしまおうとする弱い自分の心がいけないんだと反省してしまう。