【ショートショート】素晴らしい時計
「素晴らしい時計ですね」
思わず口に出してしまった。目の前の男が身に着けている時計に目を奪われてしまったからだ。豪華な装飾があるわけではないが、どことなく気品を感じるデザインでなんとも言えない魅力を放っていた。
ここは経営者があつまるパーティ会場だ。人脈を広げるべく各業界から多くの人が集まっている。目の前の男も何かしらの経営者なのだろう。一流ブランドの靴やスーツを身に着けており、時計にはひときわ目を引く素晴らさがあった。
「ありがとうございます。私もこれに一目ぼれした口なのですよ。もとは友人のものだったのですが、何とか口説き落としましてね。ようやく手に入れた品、というわけです」
男は時計が見えやすいように少し腕を掲げた。正面から見た時計はさらに輝きをまして、呼吸を忘れてしまうほどに美しかった。一度手に取り、もっと近くで眺めたい。
「もっとよく見せていただけませんか。できれば触ってみたいのですが。」
「申し訳ありませんがそれはできません。とても大切なものなのです。」
無理もない。あれだけ素晴らしい時計だ。私も彼の立場なら絶対に他人に触らせたりはしないだろう。どうにかして手に入らないだろうか。
「ではどちらで購入できるか教えていただけないでしょうか。」
私は会社をいくつか経営している。身に着けるものには金を惜しまない主義だ。今私が身に着けている時計も普通の会社員なら3年は働かないと買えないような品だ。しかし、男の時計に比べるとひどく安っぽく見えてしまう。
「残念ですがこれは完全にオーダーメイドでしてね。作った職人もすでに亡くなっているそうです。同じものは二つとありませんよ。」
男はうっとりとした表情で時計を見つめながら言った。大きく失望したのと同時に納得した。あれだけの時計がいくつもあるわけはないのだ。だとすればこの男から譲ってもらうほかない。
「いくらならその時計を私に譲ってくれますか。」
この時計を手に入れるためなら、いくら積んでもかまわない。それほどまでに私は時計に夢中になっていた。
「申し訳ないがこれを売るつもりはありません。金額ではないのです。これを手に入れるために私はあらゆる犠牲を払ったのですから。」
男はきっぱりと言った。もちろん簡単に譲ってくれるとは思っていなかったが、男の目には強い意志を感じることができた。
「分かりました。ではたまに見せてくれるだけで構いません。これからいろいろとお付き合いさせてください」
諦めた訳ではない。ここで粘っては逆効果だ。こういった相手には時間をかけて交渉していくのが効果的だと判断したのだ。
こうして私とこの男との関係がはじまった。男は最近よくコマーシャルで見かける情報通信の会社を経営していた。勢いのある会社ではあるが、この業界は先に進出している会社が有利なものである。私はコネを最大限に活用して男の会社を手助けした。特許申請がスムーズに進むように手を回し、資金繰りが厳しい時には援助し、時には競合相手の妨害までした。
数年後、男の会社は数倍の規模に成長していた。男もすっかり私のことを信頼している。そこで私はあの提案を再度試みることにした。私の時計への思いはすでに執念のようなものに変わっている。
「君の会社もずいぶん大きくなって軌道に乗ってきたじゃないか。何年か前のパーティを覚えているかい。私はあのころから、君が今もしているその時計に心を奪われたままだ。君が命の次にその時計を大切にしているのは知っているが、どうにか譲ってくれないだろうか」
一瞬の沈黙の後、男が答えた。
「あなたには本当にお世話になっています。けれど、この時計だけは譲れないのです。申し訳ありません。」
男の声が少し震えていた。会社がここまで大きくなり、これからも成長していくためには私の助けが不可欠であることを男は理解しているようだ。
「そうか、残念だが仕方ない。もう諦めることにするよ。」
男は安堵の表情を浮かべた。だが、私の心は言葉とは正反対だった。諦めるどころか、時計への思いはさらに強固なものとなっていた。
私は男の会社への援助を断ち切らなかった。経営にも深く関わり、いくつかの不正を把握することにした。頃合いをみて、私はこれをマスコミにリークした。世論というのは恐ろしい。会社はイメージを著しく低下させ、男の経営者としての評判は落ちていった。しばらくして男の解任の話が持ち上がった。
予想していた通り、男は私に助けを求めてきた。このままでは男はすべてを失うだろう。この状況を救えるのは私しかいないのだ。もちろん、そうなるように仕組んできたのだが。
「安心してもいい。私は君を見捨てたりはしない。これまで同様、ともに頑張っていこうじゃないか。」
男は涙した。当然だ。まさしく私は命の恩人なのだから。
「しかし、それには条件がある。その時計を私に譲るんだ。相当の金額を準備した。会社もまた立て直せるだろう。」
私は一生遊んで暮らせるくらいの金額が記入された小切手を男に差し出した。
「あなたがこの時計に熱心なのは知っていましたが、ここまでとは思いませんでした。しかし、私はこの時計を手放す訳にはいか…」
言い終わる前に、私は男を撃ち殺していた。男が命の次ではなく命よりも時計を大切にしていたのは誤算だった。こうするしかなかったのだと自分に言い聞かせる。そして男の腕から時計を外し、眺めた。初めて見たあのころから全く魅力は衰えていない。むしろその素晴らしさは増しているように思える。
手が震えた。人を殺したからではない。時計を手にした喜びからだ。これからずっと一緒に居られる幸福を思うと目の前の死体など気にもならない。部屋に男たちが入ってきた。手際よく死体を片付けていく。私は部屋を出て、スーツ姿の男に先ほど渡すはずだった小切手を差し出した。いくらか金を積めば人を消すことなど簡単なのだ。今となっては男が失踪したからといって誰も不思議には思わないだろう。
それから私は男の会社を継いで経営を持ち直した。誠実な対応を続けることでイメージを改善することができたのだ。失踪した無責任な経営者の後継として世間の同情をかったのも功を奏したのだろう。
こうして数十年が経った。私の人生は順調そのものだ。経営している会社も拡大していき、すでに後任に譲ってしまった。山奥に家を建て、悠々自適に暮らしている。そしてなにより最高の時計がそばにある。
小さな会社を経営している若者が訪ねてきた。引退してもなお、多くの人からアドバイスを求められる。まだ規模は小さいが高い技術を持った会社だ。少し改善点はあるがこれからどんどん業績を伸ばすことができるだろう。
一通り話を終え、ちょっとした雑談をしていたころだった。彼の視線が私の手に注がれているのに気がついた。
「素晴らしい時計ですね。」
熱っぽい視線を時計から離さず彼が言った。私は机に隠されたボタンを押した。床が開き、一瞬で若者を飲み込んだ。すぐに床は元通りになった。
「私もこれに一目ぼれした口でね。」
私は誰に言うでもなく呟いた。この時計に心を奪われたのは彼で何人目だろうか。そのたびに私はあらゆる方法で時計を守ってきた。おそらくこの時計は呪われているのだろう。
しかし、だから何だというのだ。何度見ても飽きることがない。あの頃のままの魅力を保ち続けている。本当に素晴らしい時計だ。
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