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テツガクの小部屋3 ヘラクレイトス

ヘラクレイトスの思想は「万物は流れる」(パンタ・レイ)という言葉に集約される。(もっともこれは彼の言葉ではない。)彼は現象における生成の面に注目し、一切を生成流転の流れの中で捉えた。現象においてはすべてが生成消滅を繰り返し、同一的に存在するものは何もない。「同じ河に二度足を踏み入れることはできない」「我々は同じ河に入っていくのでもあれば、いかないのでもある。我々は存在するのでもあれば、存在しないのでもある」

何ものも「ある」とはいえない。それであると思った瞬間に、そのものは別のものになっているからである。したがって「あり、かつ、ない」といわねばならない。

彼は生成流転してやまないこの世界全体を火であるとした。世界は「神々にしろ人間にしろ、誰かが造ったというものではない。一定量だけ燃え、一定量だけ消えながら、永遠に生き続ける火として常にあったし、今もあり、将来もあるであろう」
「万物は火との交換物であり、火は万物との交換物である」
火が消えることによって空気が生まれ、空気が消滅することによって水が生まれ、水が消えることによって土が生まれる。換言すれば、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。そして火は土を滅ぼすことによって自らを回復する。このように万物は対立するものの死を生き、自己の死によって対立するものは生きる。それゆえ万物の生成存在を貫く原理は闘争であると彼は考えた。「戦いこそ万物の父であり、万物の王である」

しかし対立するものの闘争に、もし何等の一致も調和もなかったら、世界は破滅してしまう。対立しているものもより全体的な観点からみれば、同一性によって結ばれているのであって「上り坂と下り坂は同一」なのである。それゆえ対立と闘争の修羅場が世界の実相であるにもかかわらず、世界が全体として滅却されないのは、そこに一定のロゴス(理、法則)があるからであるとヘラクレイトスは考えた。

このロゴスは表面には現れない。「自然は隠れることを好むからである」彼によれば、現象の喧騒と雑多の背後にこのようなロゴスの支配と美しい調和を見る者が哲学者である。

なお、ヘラクレイトスの倫理思想は誇り高き禁欲主義とでもいうべきであって、ニーチェのそれに似ている。彼はニーチェ同様、克己によって得られる力を高く評価するのであって、軍人賛美的な面を有している。すべての思想家を罵倒したニーチェが彼だけは肯定し、賛美したゆえんである。

参考文献『西洋哲学史ー理性の運命と可能性ー』岡崎文明ほか 昭和堂
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棒線より下は私の気まぐれなコメントや、用語解説などです↓(不定期)。

ヘラクレイトスの文献は比較的少ないので、全て原典で読んだ。確かにパンタ・レイという言葉はなかった。
一つ大きな問題がある。「火はどこからいつ、生まれるのか」ということだ。この問を踏まえて、もう一度上記の彼の世界観を読んでみてはどうか。

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