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超巨大地震と城柵官衙の時代(下)

 入間郡正倉神火事件と出雲伊波比神社


【はじめに】「開発・発展史観」という現代病

 「鶴ヶ島町史」通史編第四節の「渡来人の安置と優遇」には、渡来人の移動・配置ついて、「遠く畿内から離れた東山道や東海道の未開・後進の閑地に移住させ、彼らを有力な労働源とすることによって、東国開拓に従事させることにしたのであった」としている。これが「開発・発展史脳」というべき視点である。この通史の編纂期間は1978年から1986年で、バブル崩壊前夜にあたる。敗戦後の日本国民は、欧米を手本に「輸出大国」を目標に熱心に働き「開発・発展史脳」の体現者となっていった。そして、振り返って郷土史の編纂に取り掛かった。当然のことながら、作品は「開発・発展史脳」という病理の副作用をまともに受けることになるというわけだ。もっと振り返ると、「開発・発展史脳」の病魔は、既に幕末の「日本人」をも襲っていた。中でも廃仏毀釈運動と太平洋用戦争末期の「国家神道」の破壊力は強力で、国家と国民に、大きな傷跡を残した。戦後の歴史学のある種の困難さはこの病魔にある。飯能市富元久美子氏の「武蔵国の空閑地開発のための移住」説も破綻が明かになっている。しかし、この病魔は、根強く憑りついている模様だ。日高市は「建郡祭」に巨費を投じたが、経済効果ははかばかしくない。祭りの後は虚しいもので、今では「高麗神社」と「建郡祭」は死語となっている。逆に、「侵略戦争の世界遺産」としての歴史的価値が確認できるので、負の遺産として「再評価」が高まってきている。ところが懲りもせず、二匹目のどじょうを狙うという「日高市観光協会」と「高麗神社」。しかし、「日高市観光協会」という組織がよく分からないのだ。ホームページに役員紹介がない。市担当者に問い合わせるのも面倒な話である。一方、「日高市建郡祭記念事業」で焼け太りした高麗神社ではあるが、政治団体「日本会議日高支部」副支部長として憲法改正運動にご執心でご活躍中の様子である。https://nkg-hidakasibu.localinfo.jp/
高麗神社の政治運動のルーツは、明治維新の廃仏毀釈運動の時代まで遡る。坂戸の石井の井上淑蔭をトップに、同じ坂戸の大徳寺周乗、毛呂の権田直助、高麗の大記(本名は大宮寺梅本坊・米具美)の国学急進派が薩摩藩邸を拠点に、江戸のかく乱に奔走した。明治維新でこの四人は成功者となった。要職に就き頗る羽振りがよく、将来を嘱望されていたが、明治四年の脱太政官制を目指した行政改革が断行されると暗転する。特にテロリストだった毛呂の権田直助は前田邸へ幽閉され、次で、毛呂の故郷で謹慎を命じられた。これらの職を失った郷土の破壊者たちは、生活の糧を求めて神職に就こうと躍起になって右往左往、結果、それぞれトラブルを抱えることになるわけである。①毛呂の権田直助の大山寺強収奪、②坂戸の大徳寺周乗の日高市高萩の高萩院所有の「棟札国渭地祇神社」詐取、③日高の高麗大記の「虚構の高麗神社」捏造の三大事件を引き起こしてしまった。高麗神社は、この延長上に、侵略戦争と日韓併合へのシンボルとして「県社」を目論み一瞬成功するが、敗戦によって霧散してしまう。戦後、七十年以上経ち油断したのか、後先考えないで、蔽っていた衣を脱ぎ捨ててしまったものだから、「侵略戦争の世界遺産」としての姿を晒している。

1 入間郡正倉神火事件とは

(一)    宝亀三年太政官符

 『今年九月のこと。入間郡で、国家の正倉四軒が火事になり、備蓄していた糒穀(米)が一万五百十参石斛(こく)焼けた。その上、百姓十人が重病に臥し、二人が頓死した。神の祟りだった 原因を占ってみると、それは神の祟りで、郡家西北角の出雲伊波比神が云うには、朝廷からいつも幣帛を受けているのに、このところ滞っている。そのため、郡家内外の雷神を引き連れて、火災を発生させた。ということである。そこで、祝(ほうり)の長谷部広麿を呼んで訊ねると、出雲伊波比神は常に朝廷が幣帛を奉る神であるが、最近は給わっていない。と云う。関係文書を調べると、武蔵国で、幣帛を受ける社は、多摩郡・小野社、加美郡・今城青八尺稲実社、横見郡・高負比古乃社、入間郡・出雲伊波比社である。それが最近、幣帛を奉ることが漏れ落ちている。よって、前例によってこれを実施せよ。(宝亀三年十二月十九日太政官符)』

宝亀三年太政官符(天理大学附属天理図書館蔵)

(二)  毛呂の権田直助による「出雲伊波比神社」捏造

・鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料の説明
『 出雲伊波比神社はどこか?神火事件はこの辺で打ち切って、私に必要なのは、出雲伊波比神社の方角のことである。郡家の西北にこの神社があるというが、現在の毛呂山町に鎮座する出雲伊波比神社は、若葉台遺跡から西北ではなく、真西である。この点からすれば郡家説は失格する。
 しかし、この出雲伊波比神社は、果たして奈良朝時代からこの地に鎮座していたのであろうか。『入間郡誌』に記するところによると、この神社はもとは飛来明神と称して、毛呂氏代々の守護神であったようであるとし、 然るに、延喜式神名帳によれば、入間郡五座の神の内、出雲伊波比神社の名ありて、その所在明らかならず、ここに於て維新の頃、勤王家権田直助等、熱心に主張する所あり、遂に飛来明神を改めて、出雲伊波比神社と称するに至れり。
 なお、古代史学者原島礼二氏の適切な記事を紹介すると、毛呂山町の出雲伊波比神社は、中世から近世にかけては「茂呂大明神」「毛呂明神」「飛来明神」「八幡社」などとよばれた。天正16年(1588)の小田原北条氏の文書には「茂呂大明神」となっており、伊藤勇人氏によれば、出雲伊波比神社と記される始まりは、文化8年(1800)刊の斎藤義彦著「臥龍山宮伝記」からだという。
また、『新編武蔵風土記稿』文政11年(1828記)。飛来明神社 八幡宮と並ぶ。あるいは毛呂明神ともいい、社領十石の朱印を賜わっている。天正年中、小田原北条氏より寄付の証文が伝えられており、それには「茂呂大明神」と書かれている。この点からみると、この神が元来、毛呂氏の氏神であることはいうまでもあるまい。また堂山村(越生町堂山)にある最勝寺所蔵の大般若経奥書に「延徳四年(1492)六月二十八日、於臥竜山蓬来神書継之」と書かれている。飛来はおそらく、この蓬来を誤り伝えたのではなかろうか。なお、入間市宮寺にも出雲祝神社がある。(中略)『入間郡誌』はこう伝えている。「(宮寺村)南中野にある。もとは寄木明神と称し、村人は今も〝ヨリ井様〟と呼んでいる。然るに、たとえ数回も焼失したとはいえ、社の体裁が古色深く、また祭神が素盞鳴尊(すさのおのみこと)であることなどから、延喜式神名帳に載せてある出雲伊波比神社であろうとの説が出て、近年に毛呂村の飛来明神と共に、出雲伊波比神社と称するに至った。」こうなると、出雲伊波比神社は古代にはいずれに鎮座したのか、郡衙の西北にあるというものの、方向測定の基準となる郡衙の所在が判明しないので、この両座の式内社論争も結着つかないままである。』(以上、引用)
権田直助が強引に決めた「出雲伊波比神社」ではあるが、本当に、1300年前からこの地に存在していたのか?という根本的な問題である。結論は否。全くの捏造である。
鶴ヶ島市デジタル郷土資料:「鶴ヶ島町史」通史編によると、主な否定材料は次の四点である。
1.「郡家の西北の隅」というが、権田が主張する「毛呂の出雲伊波比神社」は、どの郡家遺跡からも西北の位置ではない。これは、決定的な証拠。
2. 天正年中、小田原北条氏より寄付の証文には、飛来明神社 八幡宮と並ぶ。あるいは毛呂明神ともいい、社領十石の朱印を賜う。
3.『新編武蔵風土記稿』には、「茂呂大明神」と書かれている。
4.『入間郡誌』もとは飛来明神と称し、毛呂氏代々の守護神であったとしている。
以上のことから、この神は毛呂氏の氏神である。日高の高麗神社と同様に明治維新の「機会主義者」による遺跡破壊と捏造という犯罪行為ということが証明された。

【資料㈠】大永八年(1528)、毛呂顕繁によって再建された時の棟札長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった山内上杉顕定、同朝良両家、永正二年(1505)3月、顕定が朝良の武藏河越城を囲む。朝良、和議を請い、江戸に引退する。つかの間の平和である。しかし、この戦いによって上杉氏は衰退し、北条早雲を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。上杉氏衰退の象徴的棟札である。これを予見した太田道灌「当方滅亡!」は有名である。 
【資料㈡】「小田原北条氏の鐘證文」天正十六年(1588) 依天下之御弓箭、達当社之 鐘御借用ニ候 速可有進上候、 御 世上御静謐之上、被鋳立可有御 寄進間、為先此御証文、其時 節可被遂披露旨、被仰出者 也、仍如件 天正十六年    正月五日   茂呂    大明神

附録 権田直助行状記(埼玉史談より引用)

「埼玉史談」第三巻第三号(「権田直助傳」 渡邊刀水)

権田直助行状記(埼玉史談より引用) 「埼玉史談」第三巻第三号(「権田直助傳」 渡邊刀水)
権田直助行状記(埼玉史談より引用) 「埼玉史談」第三巻第三号(「権田直助傳」 渡邊刀水)

二 墨書土器「石井寺」

(一)寺内古代寺院跡出土墨書土器

 近年、荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域での発掘調査の結果、熊谷市内板井の寺内古代寺院跡から「花寺」と書かれた墨書土器が出土している。発掘調査の報告書では、「この寺院は、8世紀前半から10世紀後半にかけて存在した本格的な伽藍配置を持つ大規模な寺院であり、9世紀前半に伽藍の整備・拡張を行っていることが確認されている」としている。熊谷市では寺内古代寺院の創建は750年前後のころとしている。
・「冨民」壬生吉志福正(みぶのきしふくせい)の知識運動
官人。生没年不詳。男衾郡の郡領。この福正は「冨民」でる。「知識運動」の実践者として「続日本後紀」の承和二年(835)に登場している。武蔵国分寺七重塔が神火で焼失し再建できずに放置されていることに心をいため、再興を願い出て許されたと記録されている。
 承和8年(841)5月7日、太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子二人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。榎津郷が何処に比定されるか定まっていない。荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性がいわれている。
・熊谷市内板井の寺内古代寺院跡
福正の根拠地である榎津郷の可能性として第一候補、熊谷市内板井の寺内古代寺院跡から、「花寺」と数は少ないが「花厳」と書かれた墨書土器が出土している。これらの墨書土器群は古代寺院の解明に重要な鍵を握っている。熊谷市の調査結果によると、寺内古代寺院の創建は七五〇年前後のころとしている。まさに産金事業開始の時期、東大寺で盧舎那仏の開眼供養が行われた時期にピッタリ一致する。東大寺は華厳経の研究寺院としての役割も担って出発していて、地方への仏典の写本と広域流布のセンターでもあった。出土した墨書土器の中に「花寺」と書かれたがものが多いが、「花厳」も出土している。「花寺」は二通りの可能性、「法華寺」と「華厳寺」。
創建が750年前後とすると、東大寺と聖武天皇・光明皇后・孝謙天皇の推し進める華厳経により「知識」運動の時期と考えられる。福正のような冨民が住む地が知識運動の先進地となっていくのは自然なことであった。東国の「華厳経寺院」、東の「東大寺」であった可能性は否定できない。 
・寺院跡出土墨書土器「花寺」(熊谷市デジタルミュージアムを参照)

寺院跡出土墨書土器「花寺」(熊谷市デジタルミュージアムから転用)

寺内古代寺院跡航空写真

寺内古代寺院跡航空写真
(熊谷市デジタルミュージアムから転用)
寺内古代寺院跡イラスト
(熊谷市デジタルミュージアムから転用)

・寺院跡出土墨書土器「花寺」・「華厳」
 ここで、もっとも注目されるのが「華厳」の文字。日本列島での華厳経の登場年代は、明白である。天平十二年(740)に、良弁が金鍾山寺で審祥を講師に招き研究会を始めてからで、大仏開眼供養会以後である。8世紀中葉以降となる。

「花寺」・「華厳」銘墨書土器
(熊谷市デジタルミュージアムを引用)

寺内古代寺院跡出土墨書土器の「石井寺」

 寺内古代寺院跡出土墨書土器の「石井寺」という文字には、特に注目しなければならない。「イシイ」ではなく「イワイ」とする説が熊谷市から指摘されている。  

「石井寺」銘墨書土器
(熊谷市デジタルミュージアムを引用)

【コーヒーブレイク】

 【男衾郡ってどこにあったの?】
 
以下は、熊谷市デジタルミュージアムの解説を引用
 郡域は、現在の寄居町から大里町に至る、荒川南岸で、比企郡小川町から和田川流域にかけての一帯と考えられています。郡域の西限は、秩父郡と接する山地に、南限は、滑川町伊古に鎮座する式内社が延喜神名帳により比企郡に所属していたとされることから、そこより北の和田川流域が東部の南限と考えられています。したがって、旧江南町は大里郡に属していました、古代の段階では男衾郡に所属していました。『和名抄』国郡部によると、男衾郡の郷数は8であり、近隣の比企郡4、横見郡3、大里郡4に比べ2倍以上となっています。男衾郡には、榎津(えなつ)・カリ倉・郡家・留多・川面・幡多・大山・中村の8つの郷があり、8世紀平城宮出土木簡より余戸里の存在が知られています。
【榎津郷】ってどこにあったの?
 鹿島古墳群 男衾郡の大領壬生吉志福正が居住したのが榎津郷とされています。では、榎津郷は現在のどのあたりにあたるのでしょうか。残念ながら、その遺称地が現在まで伝えられておらず、不明といわざるを得ません。郷名に「津」とあるので、大きな川に臨む渡し場が置かれていたと考えられます。男衾地方で大きな川となると荒川ということになります。また、旧江南町と川本町の境に近い荒川右岸、川本町本田に所在する多数の終末期古墳群(7世紀)によって構成される鹿島古墳群があり、壬生吉志一族の墓域ではないかとの説もあります。近年、寺内古代寺院跡に隣接する川本町の百済木遺跡では、8世紀初頭の柵列に囲まれた豪族居宅跡が確認されており、七世紀の初頭に男衾郡に入部したと考えられる壬生吉志氏が居住した地域として、この荒川に面した、旧江南町から川本町にかけての地域を比定して違和感はないものと考えられます。
 

(二)   上総国分尼寺跡

 (市原歴史博物館 Museumサイトより引用)
 国分寺は奈良時代の国家政策として、天平13年(741)年に聖武天皇によって造営が命じられた国分二寺(国分僧寺と国分尼寺)、各国の中心地に建てられました。
 上総国分尼寺跡もそのうちの一つです。国分寺の役割は、国家の安寧を保持することでした。そのためには疫病や戦乱など邪心なものから国を護りつつ、同時にそれらの原因となった為政者の罪業を消すことが重要とされました。よって護国経典のなかでも強い効力が期待された「金光明最勝王経」を国分僧寺、滅罪の経典である「妙法蓮華経」(法華経)を国分尼寺の主要経典とし、双方が一体となって護国法要を行っていました。国分僧寺の正式名称が「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺の正式名称が「法華滅罪之寺」とされたのはそのためです。
 大和法華寺、甲斐国分尼寺跡、上総国分尼寺跡から「法花寺」と墨で書かれた土器が出土していることから、尼寺についてはそのように略して呼ばれていたことがわかります。
 写真の土器はロクロを用いて9世紀前葉に作られたもので、器の内外両面に「法花寺」と達者な筆づかいで書かれています。


(三)  上総国分僧寺墨書土器・「金寺」銘

(史跡上総国分尼寺跡展示館展示)
『国分僧寺は、奈良時代に聖武天皇が当時の日本の各国ごとに建立させた、国家のための仏教寺院です。ここ上総では、養老川の下流右岸にある見晴らしのよい台地上に建てられました。北東700メートルには国分尼寺跡もあり、一帯は古代上総の政治的中心でした。古代の役所である国府の位置は確定できていませんが、付近には、菊間廃寺・光善寺廃寺・千草山廃寺・武士廃寺・今富廃寺が集まっているので、国府も近辺にあった可能性が高いと考えられます。
国分僧寺の発掘調査は1923年から行われており、1960年代以降の調査を経て全貌が明らかになりました。
僧寺は「金光明四天王護国之寺」と名付けられ、「金光明寺」と略称されました。墨書銘の「金寺」は、それをさらに省略したものです。文字は須恵器杯の底部に、墨と筆で書かれています。文字の周囲に見えるスジ状の黒いシミは墨書ではなく、窯で杯を焼いたときに挟み込んだ藁の跡が残ったものです。』(史跡上総国分尼寺跡展示館展示)

(四)   甲斐国分尼寺跡の墨書土器 

(国分寺跡の北方、笛吹市一宮町東原に所在)
憎寺跡の北約500メートルのところに尼寺があり、南北に並ぶ金堂跡と講堂跡の軌跡と基壇が残っている。甲斐国分寺跡の北側では多数の竪穴住居跡群が見つかり、国分尼寺を示す「法寺」と書かれた土器が多く出土している。この寺域では、10世紀末から11世紀頃の住居跡が確認され、寺同様にこの頃から次第に荒廃したものと考えられる。

 『甲斐国分尼寺跡は、甲斐国分寺跡の北側にあります。発掘調査の結果築地塀と溝に囲まれた約180メートル四方の範囲であったことがわかりました。寺跡の中には南門・中門・回廊・金堂・講堂・尼房などの建物があったと推定されていますが、金堂と講堂以外はまだ確認されていないため詳細は不明です。塔は建てられませんでした。
 講堂は基壇という土をつき固めた壇の上に建てられていますが、南側の金堂跡よりは一段低くなっています。基壇の上には建物の柱を支えていた礎石が12個残されています。礎石は西側の一列が道路によって削られていますが、東西六列(五間)、南北五列(四間)に並び、東西20.19メートル、南北13.8メートルの建物であることが推定されています。国分寺跡の講堂は東西26.4メートル、南北13.7メートルあるので一回り小さい規模であったことがわかります。』

(五)  国分松本遺跡跡(太宰府市)

 (国分尼寺(花寺)墨書土器の現地説明会資料より引用)
太宰府市文化財課により第十四次発掘調査の現地説明会。
【出土遺物】 奈良平安時代の土器内墨書土器10点(土師器8点、須恵器2点)    
この内、土師器皿の外側に「花寺」の墨書あり 
【出土場所】
丁度、国分寺と国分尼寺跡の中間地点。
解説員中村氏談「一帯には国分尼寺の運営に関わる施設が あったのでは」と。
「古代では国分尼寺を略称として「法花寺」「花寺」「法寺」の字を使用していたらしい。このことから筑前国分尼寺を示している」としているが果たしてそうだろうか?異説アリ。
 今まで土師器皿に「法花寺」「花寺」「法寺」の墨書ありの廃寺は、次の通りである。 
・埼玉県熊谷市寺内廃寺跡、
・奈良市法華寺(総国分尼寺)、
・上総国分尼寺跡(法花寺の墨書)、

数珠玉状木製品、金が貼られている


数珠玉状木製品、金が貼られている    

(六)  豊後国分寺跡の「尼寺 天長九」銘墨書土器

 (大分市歴史資料館)
 寺の寺域外、北西部地域の調査で出土した。この地域では4棟の掘立柱建物と塀一条、土こう四か所がみつかっている(国指定史跡豊後国分寺跡に追加指定)。本資料は土師器の杯の底裏に「尼□ 尼寺 天長九」と書かれている。天長九年(832)と使用年代がはっきりし、かつ豊後国分尼寺の存在を証明する重要な資料である。平安の九世紀になると、法華経の流布から尼寺自体が目的になっていることを示す事例か。

三 万葉集東歌の「伊波為都良」

(一)  万葉集巻十四 東歌 三三七八

 『伊利麻治能(いるまじの) 於保屋我波良能(おおやがはらの) 伊波為都良(いはいずら) 比可婆奴流々々(ひかばぬるぬる) 和尓奈多要曽祢(わになたえそね)』
入間路の於保屋が原に自生する「いはゐつら」のように、
引っ張っても(皮が剝けヌルヌルして)切れないように私との間も永遠にね
①    「いはゐつら」という植物の特定は、従来から論議の的であり様々な解釈がある。この詩リースも終点に近づいてきたら、ふと別の感慨が浮んできた。「いはゐつら」の「いはゐ」の部分である。「いはゐつら」=「いはゐ」+「つら」と分解してみる。数学的解釈である。「つら」の方の範疇は、「づら」は、蔓(つる)のことでしょう。サネカズラは、蔓の先が分かれ絡み合うことから、「後に会う」ことを、恋がいつまでも続くことを願う内容で詠われました。引っ張っても永久に切れないようにと、「再会」を強く願う能動的な歌ではないか?と夢想する、この時代の女性たちがナヨナヨとはしていないのではないか?

(二)    つぎは、「伊波為」。「伊波為」は「伊波」+「為」に分解する。

 「伊波」の一文字候補は「石」と「磐」と「岩」がある。
続日本紀では、「石」と「磐」は両方使われている。石背と石城は七一八年(養老二年五月)。その後役割を終えて統合・再編され、七六六年と七六九年の記述では磐瀬と磐城の字に代わる。いずれにしても、八世紀初頭までは「石」は「イワ=伊波」の例が一般的である。坂戸の石井は「いわゐ」が濃厚となる。歌の「伊波為都良」とは、石井(イワイ)の地に自生する「ずら」という植物ということになる。
③     この「ずら」はジュンサイという説が有力だったが、よくよく観察すると、ジュンサイを引っ張るという「習慣」は一般的ではない。「比可婆奴流々々」の「づら」は、蔓(つる)のことでしょう。サネカズラは、蔓の先が分かれ絡み合うことから、「後に会う」ことを、恋がいつまでも続くことを願う内容で詠われていました。引っ張っても永久に切れないようにと、「再会」を強く願う能動的な歌とすると熱愛。ジュンサイの方は引っ張っても直ぐ切れそうである。女帝の時代の女性像が見えてくる。似たような歌はいくつかあり、よく歌われていた模様だ。実は真っ赤だし。

(三)   真葛(さなかづら)を詠んだ歌が万葉集には十首以上に載っている。

0094: 玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ
0101: 玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
0102: 玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我れ恋ひ思ふを
0207: 天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあれば.......(長歌)
2296: あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ
3070: 木綿畳田上山のさな葛ありさりてしも今ならずとも
3071: 丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに
3073: 木綿包み白月山のさな葛後もかならず逢はむとぞ思ふ
3280: 我が背子は待てど来まさず(長歌) .......君来まさめや さな葛
3281: 我が背子は待てど来まさず(長歌) ....... 君来まさめや さな葛
3288: 大船の思ひ頼みてさな葛いや遠長く.......(長歌)
導く枕詞。「木綿包み白月山のさな葛」は序詞)

(四)   植物図鑑から『サネカズラ』の解説を引用

サネカズラ

『 真葛は、「万葉集」に「核葛さねかづら」「真玉葛さなかづら 」「 玉葛たまかづら」と称されており、この「さなかずら」とは「 核(実)・真玉」即ち「 真・実まこと」に美しい実の葛であることと、蔓の皮の内側に滑るが如くの粘液があり、その粘液を鬢びんなどにつけると、とても艶やかになることから、美人を増幅させるために大切なものであることの意を含めての名であります。そしてその後、男性も使用したことから「美男(びなん)葛(かずら)」とも呼称され、美しさを生み出す蔓木として愛されるのです。そして、その真葛の蔓は、長く延い伸びては元に戻ってくる「環かん・還かん」の習性が古くから珍重されてきた。「万葉集」柿本人麿の歌集に、・核葛後も逢はむと夢のみにうけひ渡りて年は経につつ(真葛の蔓のように後にも逢おうと、夢の中で祈りつづけて、年は経ってしまう)「核葛」は「後にも逢う」の枕詞であり、真葛の環・還の理美を歌い挙げて逢瀬を叶えたいと願って詠いあげられているのです。真葛の花は、夏に淡黄色の小花が葉下陰に可愛い花を咲かせ、雄花は雄蕊しべが球状で赤く、雌花も雌蕊は緑の球状に白の花柱をつけ、秋に赤い実を熟すのがこの雌花なのです。』           

(五)   武蔵国・入間郡の地形と地質

 実際の関東の奧武蔵の山々と中山間地帯は、「空閑地開発のための移住」の対象ではなく、古代の人々の山岳修験場を開くものだった。役小角(えんのおづぬ)また行基や円仁などの「知識」運動の格好の対象であった。その後、空海と最澄の教えによって多くの密教の寺院が開かれ、霊場として幕末まで続く。女影廃寺や姥田窯跡は、奧武蔵の山々から下りた中山間部の丘陵地帯に位置し、側には河川が流れ、古代の万葉の入間路が走っている。在家の僧・尼たちの修行の場として、理想的な自然環境であったことだろう。林の樹々を開いて通した入間路、道端には様々な植物が自生している。奧武蔵のこの地は、温暖な地方での植物も寒冷地での植物も自生できる恵まれた自然環境である。生物多様性は世界一ではないかと言っても過言ではないのだ。つまり、氷河期のカタクリも高温化の時代のタブノキも共存しているから驚きである。
では、何故修行するか?それは恐れである。疫病や自然災害、大洪水、旱魃、火山噴火また、武蔵国の渡来人にとって七一五年の超巨大地震の膨大な犠牲者を偲ぶ思いも強かったであろう。このためにも、法華経信仰と寺院建立に強い願を込めたのだと考えられる。この思いは、七四九年の産金産業の開始からすべてが好転して世の中が大きく変わることになることを誰が予想できたであろうか?

四 古代北武蔵国の窯跡群

 古代武蔵國には、左図に示すように四大窯跡群があった。
1「末野窯跡群」(埼玉県大里郡)
2「南比企窯跡群」(埼玉県比企郡)
3「東金子窯跡群」(埼玉県入間)以下、「入間窯跡群」と記す。
4「南多摩窯跡群」(東京都八王子)
それぞれの地質が窯業に適し、渡来系の工人がその腕を発揮した。特に比企地方は海成粘土層であり量も質も豊富で、早くから陶業が発達したものと考えられる。このうち、「南多摩窯跡群」を除き三つが北武蔵・埼玉県にある。「入間窯跡群」は埼玉県入間市の窯跡である。しかし、「東金子窯跡群」と表記されてしまったので、入間郡の窯跡として、また、重要な位置関係と存在感が認識されないまま今日に至っている。真に残念なことである。特に、入間郡と高麗郡の古代史研究では、真っ先に真正面から重要視して扱わなければならない古代窯跡である。そこで今後、「東金子窯跡群」を「入間窯跡」と再定義し直すことが急務でしょう。

埼玉県の三大大窯跡群
・「入間窯跡群」(埼玉県入間)
  新久窯跡
・「南比企窯跡群」(埼玉県比企郡)
  赤沼古代瓦窯跡
亀の原窯跡群
・「末野窯跡群」(埼玉県大里郡)

(一)   「入間窯跡群」

(埼玉県入間市新久866―21入間台遺跡公園)
(『「立正大学博物館 第一回特別展」報告書』 平成15年10月16日~11月15日を参照)
下図は「入間窯跡群」の新久窯跡の写真と産総研シームレス地質図である。

 
  の地層が原料となる地層で堆積岩である。形成時代は新生代第四紀更新世/ジュラシアン期~前期チバニアン期。

 肝心の岩相は汽水成層ないし海成・非海成混合層であり、高温焼成に耐えられる粘土である。この台地は北入間川、南に霞川に挟まれている。入間川の河原や崖には日本列島の歴史が記録されていて、地学の格好の場所となっている。恐竜の足跡やメタセコイヤの亜炭層、そして、奇妙な「蛇糞石(じゃくそいし)」、これは、浅瀬の海岸で見られる貝の巣穴化石である。蛇糞石はブルーの海成粘土層に突き刺さっている。




入間市新久窯跡出土古瓦(上)八坂前窯跡出土古瓦(下)


八坂前窯跡出土古瓦(下)

(二)  「南比企窯跡群」

 左図は鳩山町の「南比企窯跡群」の産総研シームレス地質図である。
最大の将軍沢地区は都幾川に面する支流であり、入間川水運の利便性は高い



鳩山市発行の「鳩山窯跡群の成立と展開」に詳しい。
https://www.town.hatoyama.saitama.jp/section/yousekigun/iseki/tenkai.html
 
『「南比企窯跡群」は6世紀初頭から10世紀前半にかけて須恵器や瓦を生産し、その製品は南関東に広く流通しました。 六世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、七世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40キロメートル離れた国分寺へ運ばれました。(中略) その後、9世紀には鳩山町での生産は衰退し、かわって嵐山町の将軍沢・ときがわ町の亀ノ原に生産の拠点を移し、武蔵国分寺再建期の瓦や須恵器が生産されるようになります。』
 この説明によると、「南比企窯跡群」の操業時期は、7世紀後半までの時期、8世紀以降と、大きくふたつに分けられる。窯も異るなど大きな違いがある上に、前期の石田1号窯は、勝呂廃寺へ瓦を供給していた窯である点で注目される。さらに、前期と後期を分ける8世紀初頭には、時代を画期する出来事が多発した。超巨大地震や陸奥への大移動など、自然災害や政治・経済システムの大転換時期でもあった。この前後でふたつに区分することは大きな意味を持ってくる。大まかな操業編年を下表に示す。この表から8世紀の初頭、そして8世紀の中葉に政治・経済システムの大きな転換点が存在したことが予想される。この表は、古瓦学の成果である。

・【前期操業(7世紀中葉)】
   石田1号窯跡、7世紀中葉前後に操業、勝呂廃寺に供給
   赤沼古代窯跡、7世紀後葉に操業

陶製仏殿(石田1号窯)         この二点は勝呂廃寺所用の古代瓦窯跡から出土
勝呂廃寺出土の文字瓦と古瓦二点


 【後期操業】(8世紀初頭以降)
・    鳩山町窯跡

鳩山町 新沼窯跡出土瓦 8世紀中頃から後半、武藏国分寺に供給
鳩山町 広町窯跡出土瓦    8世紀中頃から後半、武藏国分寺に供給

・ときがわ町 亀ノ原窯跡群、8世紀中葉以降
亀ノ原窯跡群は、「南比企窯跡群」でも最大規模であり、9基の窯跡が発見されている。この窯跡からは、武蔵国分寺と熊谷市寺内廃寺と同じ模様の瓦が出土している。この瓦は、勝呂廃寺とは異なるものであり、勝呂廃寺の創建は7世紀であり、8世紀前半には荒廃していたもの推察できる。坂戸市では9世紀末ないし10世紀まで存続と考えているようですが、創建当時を維持していなかった可能性は高い。
華厳経と法華経の優勢の時代となり、100年も前の7世紀創建の旧寺院は幣束が途切れるなど、管理維持が困難になっていったであろう。そのひとつが勝呂廃寺だった。「郡家西北角の出雲伊波比神が云うには、朝廷からいつも幣帛を受けているのに、このところ滞っている。そのため、郡家内外の雷神を引き連れて、火災を発生させた。」という祟る出雲伊波比神が居たのが、この石井の地に在った「石井寺院」なのだ。

亀ノ原窯跡群出土軒丸瓦

 参考までに、「南多摩窯跡群」の地質図も紹介。「入間窯跡群」と同じ形成年代層を含むが、こちらの地区が、上質で規模も大きく他を圧倒し、武蔵国の陶業の中核地となっていく。操業は九世紀中葉から10世紀中葉にかけて行われたものと考えられる。

【南多摩窯跡群】堆積岩 Q1-21_so 形成時代新生代 第四紀 更新世 ジェラシアン期~前期チバニアン期 岩石 海成層

五 祟る「伊波比神」と祀る「伊波比神」

(『古事記』・『日本書紀』より引用)

(一)  古事記の「紫君石井」

【原文】「此御世竺紫君石井不從天皇之命而 多无禮故遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺」
【訳文】この治世、筑紫の君石井は天皇の命令に従わず、 数々の礼を失しました。そこで、物部荒甲の大連、大伴金村の連の二人を遣わして、 石井を殺させました。
 
(二)  日本書紀の「筑紫國造磐井」
記述は、 雄略天皇紀で三輪の磐井という地名。 継体天皇紀中八件。崇峻天皇紀中 一件。

【原文】 日本書紀 巻第十七 継体天皇紀(磐井王の乱の記述)
廿一年(五二七)夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。
於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、内遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。
秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再拜言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」
詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」
廿二年(五二八)冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井、果定疆場。十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。

【訳文】
継体天皇廿一年(五二七)
磐井は火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)の二つの国に勢力を張り、職務を行わず、朝廷に仕えませんでした。外へは海路を遮断して高麗・百済・新羅・任那などの国の年の貢物の船を誘導し欺き、内では任那に派遣した毛野臣の軍を遮って、乱語を揚言して言いました。
「今でこそ、毛野臣は使者になっているが、昔は我が伴として肩をすり合わせ、肘をすり合わせ、同じ器で同じものを食べていた。どうして、にわかに使者になったからといって、余がお前に従うというのか!!(俾余自伏儞前)」ついに戦って命令を受けませんでした。おごり、たかぶっていました。毛野臣は妨害されてしまい、立ち往生。天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人たちに命じた。「筑紫の磐井が抵抗して、襲って来て、西の戎(異民族)の地を有している。今、誰が将軍となるべきだろうか?」
大伴大連らは皆、言いました。「正に直しく、仁愛があり、勇敢で、兵事に通じているのは、今は麁鹿火の右に出る人はいません」。天皇は「許す」と言った。
秋八月一日。継体天皇は命じた。「あぁ!大連よ。この磐井は従わない。お前が言って、征伐しろ」
物部麁鹿火大連は再拝して言いました。「あぁ!その磐井は西の蛮国のひねくれ者。川が邪魔しているとして朝廷に仕えません。山が高いからと乱を起こすのです。徳を破って、道に反くのです。人を侮辱し高慢で、自分を賢いと思っているのです。昔、道臣から室屋に至るまで帝を助け守って罰を与えてきました。民が塗炭を救ってきました。今も昔も同じです。ただ、天が助ける所はわたしめが常に重要だと思っていることです。恭順させられなければ、征伐いたしましょう」
継体天皇は命じた。「優れた良い将軍は恩を施して、恵を大事にして、己を律して、人を治めるものだ。攻めるときは河が割けるよう。戦えば、風が吹くように」
重ねて命じた。「大将は民の命を握っている。社稷の存亡はここにある。努めよ。つつしみ、天罰を行え」天皇は自ら斧鉞を取って、大連を授けて言いました。
「長門から東を朕は治めよう。筑紫から西はお前が治めろ。賞罰を任せよう。いちいち、報告する必要はない」
継体天皇廿二年(五二八)
冬十一月十一日。大将軍の物部大連麁鹿火は賊の師の磐井と筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で交戦しました。旗鼓は互いに臨み見あい、兵士たちが舞い上がらせた埃塵が乱れ合い、勝負を決する機をふたつの陣の間に定めて、死んでも土地を去らない。ついに磐井を斬り、結果、疆場を定めました。
十二月に筑紫君葛子は父の罪によって誅殺されるのを恐れて、獻糟屋屯倉(福岡県糟屋郡)を献上して死罪を許して欲しいと求めました。

①    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇紀】
天皇の暗殺と東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の抹殺
崇峻天皇五年(五九二)十一月、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害する。しかしその月に、馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって処刑された。父は東漢直磐井とされる。前代未聞の事件発生。臣下である蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺してしまいます。しかし、どうして殺されたのか? 理由は不明。崇峻天皇の段はほとんどが蘇我馬子の記録ばかりであるが、唯一大事件の記述はこの個所だけである。内容は対外戦争におけるトラブルである。崇峻天皇という人物が、奈良時代に政権奪取した藤原仲麻呂(恵美押勝)の新羅征討の暴挙(七五九年)に酷似している。
崇峻天皇の対外侵攻計画は天皇暗殺で挫折。しかし、ここで終わりではない。東漢直磐井子の東漢直駒が抹殺されるのだから、真っ暗闇の地獄絵である。伊波比の血統は、二度も断たれることになる。出来過ぎた話。


日本書紀【崇峻天皇(十七)崇峻天皇五年】東国の調・東漢直駒の天皇暗殺
十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東国之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。
(或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。)
是日、葬天皇于倉梯岡陵。
(或本云、大伴嬪小手子、恨寵之衰、使人於蘇我馬子宿禰曰「頃者有獻山猪、天皇指猪而詔曰、如斷猪頸何時斷朕思人。且於?裏大作兵仗。」於是、馬子宿禰聽而驚之。)
五年冬十月癸酉朔丙子、有獻山猪、天皇指猪詔曰「何時、如斷此猪之頸斷朕所嫌之人。」多設兵仗、有異於常。壬午、蘇我馬子宿禰、聞天皇所詔、恐嫌於己。招聚儻者、謀弑天皇。是月、起大法興寺佛堂與歩廊。


【訳文】崇峻天皇五年(五九二)十月三日。
馬子宿禰は群臣を騙して言いました。「今日、東国の調を献上する」すぐに東漢直駒に天皇を殺させました。 
(ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井の子だと言います。
この日に天皇を倉梯岡陵に葬りました。
(ある本によると、大伴嬪の小手子が寵愛が衰えたことを恨んで、人を蘇我馬子宿禰の元へと使者として送って言いました。「この頃、山猪を献上したことがありました。天皇はその猪を指差して詔して言ったのです。『猪の頸を斬るように、いつか朕が思う人を斬ろう』と。また内裏で、たくさんの兵仗を作っています」それで馬子宿禰は聞いて驚いたといいます)


(三)  「石井・伊波比」と物部氏

 『書・紀』によると、五二七年、朝鮮半島南部における権益拡大のために、六万の毛野臣軍が出陣した。ところが、新羅と交易関係にあった九州・筑紫の君磐井が妨害し毛野臣軍が海を渡れない。天皇は鎮圧軍を派遣して磐井を破ったが、乱は一年半に及んだ。『書・紀』の記述は若干異なるが、北部九州の筑紫で実際に戦が起こったことは確かである。毛野臣が義盟を破り侵略戦争を開始、抵抗する筑紫君磐井を「物部大連」将軍が殺害したことに異論をはさむ余地は無い。しかし、古事記での事件の記述は、全体の文脈からしてバランスを欠く。無味乾燥な「武人・武士の家系図」の列挙が続くが、最後に登場する唯一の「事件モノ」である。『書・紀』の既述は、事件の衝撃と影響力の大きさを物語っている。当時の精神的思想的状況を科学的に分析し、「中華の人間関係」の謎を解き明かさなければならない。

①    中華の義盟と欧米の資本主義的契約の違い
 日本書紀の作者は、筑紫の君磐井の言葉を残している。「肩を擦り・肘が触れる」くらいに親密で、「同じ器で同じ飯を食し」など、「史記」や「三国志」の中で度々描かれている重要なシーンに似る。三国志の桃園の義盟、孔明と劉備の結合の硬さ、「管鮑の交わり」である。親子関係よりも互いに「知る」ことが如何に重要かであり、「士は己を知る者のために死す」を理想とする人間関係が規範である。交友関係において親密度の濃淡、信頼度の高低がある。深度によって、『「幇」↔「情誼(じょうぎ)(チンイー)↔関係↔知り合い」と別れる。実際はもっと複雑であるが、最高位の「幇」が、中華の理想とする人間関係であることは、今日でも変わらない。下図に、中華の規範(左図)と資本主義的規範(右図)の違いを示す。雲泥の差がある。資本主義的契約は何人にも絶対であるが、中華の規範では相対的であり、契約は無視(破棄)される場合もある。

中華の規範(左図)と資本主義的規範(右図)の違いを示す

 磐井は「俾余自伏儞前!」と訴えて、「今でこそ、毛野臣は使者になっているが、昔は我が伴として肩をすり合わせ、肘をすり合わせ、同じ器で同じものを食べていた。どうして、にわかに使者になったからといって、余がお前に従うというのか!!」。「肩を擦り・肘が触れる」くらいに親密だったし、「同じ器で同じ飯を食った」のに‥‥‥‥。
これは東アジアの中華規範「管鮑の交わり」である。ところが、当時でも現在でも、日本人にはこの規範が理解できないのである。ここで初めて筑紫の君磐井の乱の思想的・物理的背景が明かになってくる。以上のような極東アジアの精神構造では、統一国家の形を成していないものと考えられる。ある意味で、戦国時代であろう。
 
【消奈行文】この「中華の義盟」問題では、消奈行文が格好の教材となる。
大陸の規範を身に付けた歴史上の人物として従五位下大学助消奈王行文が特筆される。長屋王宅での新羅客人の饗応で五言詩を詠む。中華規範の作法を発揮している。見事な外交手腕である。時に六十二歳。
・五言。秋日於長王宅宴新羅客。一首(長屋王宅新羅客饗応)
    嘉賓韻小雅    大切な客人を嘉して歌を詠む
    設席嘉大同    席を設けて大同を嘉す
    鑑流開筆海    流れを監て筆海を開き
    攀桂登談叢    桂を攀ぢて談叢に登る 話は尽きない
    盃酒皆有月    皆の盃酒に月が浮び 
    歌声共逐風    皆の歌声も 共に風にながれゆく
    何事専対士    何事ぞ 専対の士
    幸用李陵弓    幸しく李陵が弓を用ゐるは
・万葉集 巻十六―三八三六「佞人(ねいじん)を謗(そし)る歌」
奈良山の 児手柏の 両面(ふたおも)に かにもかくにも 佞人(こびひと)が伴(とも)
右の歌一首は、博士、消奈行文大夫作る
(まるで奈良山の児手柏のように、表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔して、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ
 
行文のこの二つの作品とも、唐風の中華規範「管鮑の交わり」を彷彿させるものである。この時代でも中華大陸との付き合い方が難しかった様で、行文は詩と歌で中華規範の外交スタイルの手本を示したかったのだろう。しかし、今日の東アジアの日本外交を前にすると、行文の教えは生きてはいない。行文の教えを体現した愛弟子が消奈福信であった。福信が東宮武官として内政・外交と活躍することになる理由は、こんなところにあったのだ。

 
②   「石井・伊波比」と物部氏
「幇」や「情誼」という輪の内と外では、規範と契約がまるで違ってくる。ダブルスタンダードとなる。外の規範は鴻毛よりも軽い。この関係を断ったらどうなるかは明らかである。毛野臣と物部大連が義盟を破棄し輪の外の化外の地に飛び出したわけだから、そんな人間が死のうが生きようが、わたくしには関係御座いませんとなる。磐井の君は、輪の中の義盟者と共に命を賭して徹底して戦うわけである。磐井(石井)の君の非業の死は、真に継体側に正義が有りや無しやということになり、心中穏やかではない。筑紫の君の霊は、平将門のように古代史最大の怨霊の出現となった。以後、ひとびとは事あるごとに、「伊波比神」の祟りを恐れ祀っていく。この怨霊は、血にまみれた者達には特別の意味を持ち続けることになった。物部氏と伊波比神の関係はこのようなものだったのだろう。
天皇の暗殺と東漢直駒の抹殺も磐井氏の更なる怨霊化に拍車をかけている。作り話にしては悪趣味と片づけてはいけない。蘇我氏による天皇暗殺問題も渡来系なので、大陸の中華規範の義盟を考慮しなければならないだろう

③  宗廟社稷の欠如
「続日本紀」では宗廟社稷も食国天下の文字はたびたび見かけるが、日本書紀の磐井乱の文面には、「社稷」とだけ記している。この点でも「社稷」のみでは、領土争いの戦国時代の様相である。この点からも、残念ながら、国家統一は成していないと考えられる。
 
 
④   次ページに「物部」と「岩井神社・石井神社」の分布図を示した。
一目瞭然に両者は重なる。余談だが、物部氏は大伴氏や宗像氏と同じように水軍か?また、天慶三年(940)、平将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍との戦いに敗れる。平将門が新皇を称して関東一円を制覇するときに拠点とした地が、「石井の営所」(岩井市中根)。イワイの地名とは奇遇である。「石井・伊波比」については、なぜか因縁を感じるのである。

【「物部」と「岩井神社・石井神社」の分布図】
両者は重なる。陸よりも海、水軍か?

六 祭祀の「伊波比神」

(一)  宗廟社稷・祭祀に関する記述

①  『続日本紀』天平7年(735)8月:「大宰府疫死者多」
・天平七年(七三五)八月乙酉甲申朔二
八月乙酉。太白(金星)与辰星相犯。 
・天平七年(七三五)八月辛卯八
辛卯。天皇御大極殿。大隅。薩麻二国隼人等奏方楽。
・天平七年(七三五)八月壬辰九
壬辰。賜二国隼人三百八十二人爵并禄。各有差。
・天平七年(七三五)八月乙未十二
乙未。勅曰。如聞。比日大宰府疫死者多。思欲救療疫気以済民命。是以。奉幣彼部神祇。為民祷祈焉。又府大寺及別国諸寺。読金剛般若経。仍遣使賑給疫民。并加湯薬。又其長門以還諸国守若介。專斎戒道饗祭祀。
・天平七年(七三五)八月丙午廿三
丙午。大宰府言。管内諸国疫瘡(天然痘)大発。百姓悉臥。今年之間欲停貢調。許之。
 
②    『続日本紀』「幣束」・「奉幣束」での検索結果:
  「幣束」63件、「奉幣束」46件

・天平九年(七三七)四月乙巳朔
夏四月乙已朔。遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣以告新羅無礼之状。
・宝亀三年(七七一)八月甲寅己酉朔六
八月甲寅。幸難波内親王第。是日異常風雨。抜樹発屋。卜之。伊勢月読神為祟。於是。毎年九月。准荒祭神奉馬。又荒御玉命。伊佐奈伎命。伊佐奈美命。入於官社。又徙度会郡神宮寺於飯高郡度瀬山房。
・宝亀三年(七七二)四月己卯廿九
己卯。震西大寺西塔。卜之。採近江国滋賀郡小野社木。搆塔為祟。充当郡戸二烟
・宝亀七年(七七六)四月己巳十二
己巳。勅。祭祀神祇。国之大典。若不誠敬。何以致福。如聞。諸社不修。人畜損穢。春秋之祀。亦多怠慢。因茲嘉祥弗降。災異荐臻。言念於斯。情深慙■。宜仰諸国。莫令更然。
・宝亀八年(七七七)二月戊子癸未朔六
二月戊子。遣唐使拝天神地祇於春日山下。去年風波不調。不得渡海。使人亦復頻以相替。至是副使小野朝臣石根重脩祭祀也
・宝亀十年(七七九)十一月乙未廿九
乙未。勅曰。出挙官稲。毎国有数。如致違犯。乃■刑憲。比年在外国司。尚乖朝委。苟規利潤。広挙隱截。無知百姓争咸貸食。属其徴收無物可償。遂乃売家売田。浮逃他卿。民之受弊無甚於此。自今以後。隱截官稲者。宜隨其多少科断。永帰里巷以懲贓汚。又調庸発期。具著令条。比来寛縦多不依限。苟事延引妄作逗留。遂使隔月移年交闕祭祀之供。自春亘夏既乏支度之用。自今以後。更有違犯者。主典已下所司科决。判官以上録名奏聞。不得曲為顏面容其怠慢。
・宝亀十一年(七八〇)二月丙申朔
二月丙申朔。以中納言従三位石上大朝臣宅嗣為大納言。参議従三位藤原朝臣田麻呂。参議兵部卿従三位兼左兵衛督藤原朝臣継縄。並為中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿祢家持。右大弁従四位下石川朝臣名足。陸奧按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純。並為参議。」
神祇官言。伊勢大神宮寺。先為有祟遷建他処。而今近神郡。其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之。」授正六位上藤原朝臣継彦従五位下。
・宝亀十一年(七八〇)十二月甲辰十四
甲辰。越前国丹生郡大虫神。越中国射水郡二上神。砺波郡高瀬神並叙従五位下。」勅左右京。如聞。比来無知百姓。搆合巫覡。妄崇淫祀。蒭狗之設。符書之類。百方作怪。填溢街路。託事求福。還渉厭魅。非唯不畏朝憲。誠亦長養妖妄。自今以後。宜厳禁断。如有違犯者。五位已上録名奏聞。六位已下所司科决。但有患祷祀者。非在京内者。許之。
・延暦元年(七八二)七月庚戌廿九
庚戌。右大臣已下。参議已上。共奏称。頃者災異荐臻。妖徴並見。仍命亀筮。占求其由。神祗官陰陽寮並言。雖国家恒祀依例奠幣。而天下縞素。吉凶混雑。因茲。伊勢大神。及諸神社。悉皆為崇。如不除凶就吉。恐致聖体不予歟。而陛下因心至性。尚終孝期。今乃医薬在御。延引旬日。神道難誣。抑有由焉。伏乞。忍曾閔之小孝。以社稷為重任。仍除凶服以充神祇。詔報曰。朕以。霜露未変。荼毒如昨。方遂諒闇。以申罔極。而羣卿再三執奏。以宗廟社稷為喩。事不獲已。一依来奏。其諸国釈服者。侍秡使到。秡潔国内。然後乃釈。不得飲酒作楽。并著雑彩。
・延暦四年(七八四)九月乙未癸巳朔三
九月乙未。地震。
・延暦四年(七八五)八月丙戌廿四
丙戌。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王斎居平城。至是斎期既竟。将向伊勢神宮。故車駕親臨発入。
延暦四年(七八五)八月庚寅廿八
庚寅。中納言従三位大伴宿祢家持死。祖父大納言贈従二位安麻呂。父大納言従二位旅人。家持天平十七年(七四五)授従五位下。補宮内少輔。歴任内外。宝亀初。至従四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年(七八〇)拝参議。歴左右大弁。尋授従三位。坐氷上川継反事。免移京外。有詔宥罪。復参議春宮大夫。以本官出為陸奥按察使。居無幾拝中納言。春宮大夫如故。死後廿余日。其屍未葬。大伴継人。竹良等殺種継。事発覚下獄。案験之。事連家持等。由是追除名。其息永主等並処流焉。

・延暦四年(七八五)九月己亥七
己亥。斎内親王向伊勢太神宮。百官陪従。至大和国堺而還。 
・延暦四年(七八五)十一月壬寅十
壬寅。祀天神於交野柏原。賽宿祷也
・延暦六年(七八七)十一月甲寅庚戌朔五
十一月甲寅。祀天神於交野。其祭文曰。維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅。嗣天子臣謹遣従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄。敢昭告于昊天上帝。臣恭膺眷命。嗣守鴻基。幸頼穹蒼降祚覆■騰徴。四海晏然万姓康楽。方今大明南至。長■初昇。敬采燔祀之義。祇修報徳之典。謹以玉帛犧斉粢盛庶品。備茲■燎。祇薦潔誠。高紹天皇配神作主尚饗。又曰。維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅。孝子皇帝臣諱謹遣従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄。敢昭告于高紹天皇。臣以庸虚忝承天序。上玄錫祉率土宅心。方今履長伊始。肅事郊■。用致燔祀于昊天上帝。高紹天皇慶流長発。徳冠思文。対越昭升。永言配命。謹以制幣犧斉粢盛庶品。式陳明薦。侑神作主尚饗
・延暦七年(七八八)五月己酉戊申朔二
五月己酉。詔群臣曰。宜差使祈雨於伊勢神宮及七道名神。是夕大雨。其後雨多。遠近周匝。遂得耕殖矣。
・延暦八年(七八九)三月壬子十。
遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。

③   『続日本紀』:「交野(かたの)行幸」と藤原継縄(つぐただ)
 延暦4年(785)8月に逝去するこの時期、交野と云う地は桓武天皇にとっては特別な場所であった。百済系皇后誕生の理由が解かる場所である。産金産業を開拓した敬福は、孝謙朝の天平勝宝2年(750)、宮内卿となるが、この頃河内守をも兼任しているので、沙金王敬福の「知識」運動よって、同時期、この河内国交野に百済系渡来人の本拠地とし百済王一族の祀廟と百済寺も建立したものと考えられている。
『百済の武寧王の子孫である高野新笠を母とする桓武天皇は、敬福の孫娘・明信との関係で、この枚方の地を重視するようになった。(中略)彼女は桓武天皇の時代、後に右大臣まで昇進した藤原継縄の妻となっていたが、尚侍(ないしのかみ)として天皇の秘書役とも言うべき重要な役職をこなした。 桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられた。天皇の交野行幸は12回を数える』(枚方市教育委員会説明会資料から転載した)
 桓武天皇の交野行幸先にはお目当ての方が住み、藤原継縄の別荘がある。藤原継縄の正妻は敬福の孫の百済王明信であり、母は路真人虫麻呂の女で大伴家持の妹婿である。延暦5年(786)。兼造東大寺長官とくれば、交野の地から黄金の光が漏れてくる。
 
・藤原継縄神亀4年(727)~延暦15年(796)
【系譜】南家藤原豊成の次男。母は路真人虫麻呂の女。大伴家持の妹婿
正妻は百済王明信(敬福の孫)。同母兄に良因、同母弟に乙縄、異母弟に縄麻呂がいる。子としては乙叡(母は百済王明信)・真葛(母は大伴旅人の女)。桃園右大臣の称号がある。淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇の四代に仕え、右大臣に上りつめた偉大で凡人なる執事。
【年表1】は「行幸交野」「放鷹遊猟」関連記事。
【年表2】は「藤原綱縄の経歴」である。
 
・「万葉集」大伴家持の弔婿(藤原継縄)歌
天平勝宝二年夏頃、母を失う。越中でその報に接した家持から挽歌を贈られる。
挽歌一首「四二一四」
 (右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也 五月廿七日)
反歌二首
「四二一五」 遠音にも君が嘆くと聞きつれば音のみし泣かゆ相思ふ我は
(風の便りに嘆いていると聞きにつれ、泣いているばかりのあなたを思うわたくしです)
「四二一六」 世の中の常なきことは知るらむを心尽くすなますらをにして 
(この世の中の無常は分かっていても あれこれ思い煩わずに男らしく)

(二)  古代武蔵国の郡衙と寺院 伊波比神と勝呂廃寺


・北武藏国の伊波比神社

北武藏国の伊波比神社の虚実表


・関東の伊波比神・香取神・鹿嶋神
嘉祥二年(849)記載の関東の伊波比神社(「続日本後紀」)
○二月庚寅、奉授武藏國伊波比神從五位下、
○丁未、奉授下總國香取郡從三位伊波比主命正二位、
常陸國鹿嶋郡從二位勳一等
建御加都智命(たけみかつちのみこと)正二位、

【番外】注目記載、高(句)麗系の書記官
○遣唐録事高岑宿禰貞繼改宿禰賜朝臣、其先高麗人也、

p42


武蔵国官衙と国分寺の位置関係

・入間郡衙・高麗郡衙と寺院 p44


紹介  葵の御所【賀茂斎院とその歴史】

http://kamosaiin.net/aoi00.html  
 村上天皇と中宮藤原安子の第七子として生まれるが、母安子は選子誕生後5日で産褥死、次いで父村上天皇が5年後の967年に崩御。外祖父師輔も既に960年他界しており、両親の没後は伯父藤原兼通の室・昭子女王(有明親王女、醍醐皇孫で選子の従姉妹)に養育された。11歳で宮中・清涼殿にて初笄の際も、裳の腰結役は昭子女王が務めている(なおこれにより、昭子女王は正二位に叙爵された)。
 ⒓歳で卜定、歴代初のいわゆる后腹内親王の斎院となる(※この後19代?子内親王まで、4代連続で后腹内親王が斎院となり、歴代8人中の半数がこの時期に集中している)。以後68歳まで在任期間5代57年にわたり、歴代最長の斎院であることから「大斎院」と呼ばれ世間の尊崇を集めた。選子のサロンは当時文芸豊かな社交場としても知られ、村上天皇女御徽子女王(斎宮女御)、一条天皇皇后定子、同中宮彰子(上東門院)らと交流のあったことが『斎宮女御集』『枕草子』『紫式部日記』等の記録に残る。
 なお、選子サロンの活動を伝えるものとして歌集『大斎院前の御集』『大斎院御集』があり、また『発心和歌集』も選子によるとされる(近年異説あり)。その他、勅撰集に入集した選子関連の和歌には『前の御集』『御集』に含まれない作も多く、このことから他にも選子サロンの歌集が存在した可能性が高いとされる(安西奈保子「大斎院選子サロン考」「大斎院和歌考」、久保木秀夫「大斎院御集原態試論」、石井文夫・杉谷寿郎『大斎院御集全注釈』)。
 ところで選子の卜定には、天延3年(975)6月25日~初斎院入りの貞元元年(976)9月22日)まで、1年3カ月かかっており、これは初斎院入りの年月日が判明している歴代斎院の中で最も遅い異例の初斎院入りであるが、この2年間は事件と混乱の相次いだ時期であった。
 選子卜定からわずか5日後の7月1日、日本史上初と言われる皆既日食が起こり、大々的な恩赦が行われた。また翌天延4年(976)5月11日には内裏が焼亡、選子の兄円融天皇始め中宮、東宮も避難した。さらに追い討ちをかけるように、6月から7月にかけて大規模な地震が頻発して八省院・豊楽院等が倒壊、とうとう7月13日に改元が行われた。このような中で選子より一足先に卜定された斎宮規子は、天延4年(976)2月26日に侍従厨へ初斎院入りしており、内裏焼亡と大地震の後も9月の野宮入りまで引き続き留まっていたようだが、円融天皇は内裏造営にあたり7月26日に堀川第へ行幸している。こうした世相の混乱が、結果として選子の初斎院入りの遅れにも繋がったのであろう。
詠歌:
・光出づるあふひのかげを見てしかば年へにけるもうれしかりけり(後拾遺集)
・春知らでおぼつかなきにうぐひすの今日めづらしき声をきかばや(新後拾遺集/巻7雑春)
・ごふつくす御手洗川の亀なれば法の浮木にあはぬなりけり(拾遺集/巻20哀傷)
・思へども忌むとて言はぬことなればそなたに向きてねをのみぞ泣く(詞花集)


七 法華経と古典

(一)   伊勢物語「第六十九・七一段『つくも髪の女』

【原文】むかし、世心つける女①、いかで心なさけあらむ男にあひ得てしがなと思へど、いひいでむもたよりなさに、まことならぬ夢がたりをす。子三人を呼びて語りけり。ふたりの子は、なさけなくいらへてやみぬ。三郎なりける子なむ、よき御男ぞいで来むとあはするに、この女、けしきいとよし。こと人はいとなさけなし①。いかでこの在五中将にあはせてしがなと思ふ心あり。狩し歩きけるにいきあひて、道にて馬の口をとりて、かうかうなむ思ふといひければ、あはれがりて、来て寝にけり。さてのち、男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、
  百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆとて、いで立つけしきを見て、うばら、からたちにかかりて、家にきてうちふせり。男、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女嘆きて寝とて、さむしろに衣かたしき今宵もや恋しき人にあはでのみ寝むとよみけるを、男、あはれと思ひて、その夜は寝にけり、世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける③
①    世心つける女:人並みに持っている煩悩、淫欲
②    こと人はいとなさけなし:ほかの男はまったく情愛がない
③    けぢめ見せぬ心:区別しない平等心
 
【現代文】昔、色好みの女が、なんとかして情深い男と一緒になりたいものだと思っていたが、言いだすきっかけがないので、作り物の夢物語をした。子どもを三人呼んでその夢の中身を語ったのだった。(すると上の)二人の子は、そっけなく答えただけだったが、三人目の子は、きっとよい男の人が現れるでしょうと夢説きをしたので、女は機嫌がよくなった。(三郎には)ほかの男はまったく情愛がない、なんとかして在五中将と一緒にさせてあげたいものだと思う心があった。そこで、(男が)狩りをしているところに行き会ったとき、道にて馬の口を取って、(ある女が)こんなふうに(あなたを)お慕いしていますというと、(男は)女を哀れに思って、(女の家に)やってきて、一緒に寝たのであった。さてその後、男の姿が見えなくなったので、女は男の家に行って、その姿を垣間見たのであったが、それを男がほのかに見て、百年に一年たらぬつくも髪の老婆が、私のことを恋しているらしいのが面影に見える(だから、その女のところにいってやろうか)男がこういいながら出発する様子を見て、(女はうれしくなって)茨やカラタチのとげに刺されながら、家に戻って床に臥した。男の方では、女がしたように、忍び立ってかいま見ていると、女は嘆き寝をするとて、むしろに衣を敷きながら、今宵も恋しいひとと一緒になれないで、むなしく寝るのでしょうか。こう(女が)読むのを聞いて、男は哀れと思って、その夜も一緒に寝てやったのであった。世の中の例としては、自分でいとしく思う人を思い、そうでない人は思わないものだが、この人は、いとしい人もそうでない人も、区別しない(平等の)心を持っていたのである。

女が三人の子を集めて夢物語をしているところ、二人はばかばかしそうな顔つきで席をたつが、三人目は熱心に聞いてやっている
鷹狩をしている男の一行、男の跨った馬の口を捕えて、他の男が語りかけている
男が女の家に行って、共に寝ようとする場面、(女は、白髪頭の老女としている)

(二)   清少納言/紫式部・和泉式部の世代間ライバル関係

 三者を比較すると、清少納言は、他の二人より一世代前に中宮定子に仕え、他の二人は、ほぼ同じ時代に、共に中宮彰子に仕えたと推定される。込入ったライバル関係だが、従来は、この点に重きを置き過ぎて、女官達の共通する活躍のモチベーション、精神的・宗教的・心理的側面は軽視されてきた。

清少納言/紫式部・和泉式部の世代間関係表

 法華経の日々で、説教も慣れっ子になって眠くなる清少納言とお仲間たち。枕草子から仏事・神事の一部、法華八講のケース ①    『菩提といふ寺に、結縁の八講せしにまうでたるに、人のもとより「とく帰り給ひね。いとさうざうし」といひたれば、蓮の葉のうらに、もとめてもかかるはちすの露をおきてうき世にまたはかへるものかはと書きてやりつ。まことにいとたふとくあはれなれば、やがてとまりぬべくおぼゆるに、さうちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし』「菩提」という寺に、縁結びの法華八講をしに詣でた折に、愛人のもとから「早く帰りなさい。たいそう物足りない」と、言ったので、池の蓮の葉の裏に、わざわざ求めてでもぬれたいこういう蓮の露(法華八講)を中途にして、どうして憂き世に再び帰るものですか。と、書いて送った。まことに、たいそう尊く、しみじみとするので、そのまま寺に留ってしまいたい気がするうちに、常住の家の人のもどかしさも忘れてしまうことだ ②    『その事する聖とものがたりし、車たつることなどをさへぞ見入れ、ことについたるけしきなる。ひさしうあはざりつる人のまうであひたる、めづらしがりて、ちかうゐより、物いひうなづき、をかしきことなどかたり出でて、扇ひろうひろげて、口にあててわらひ、よくさうぞくしたる数珠かいまさぐり、手まさぐりにして、こなたかなたうち見やりなどして、車のあしよしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、経供養せしこと、とありし事かかりし事、いひくらべゐたる程に、この説経の事はききも入れず。なにかは、つねにきくことなれば、耳なれてめづらしうもあらぬにこそは』説経する当の僧侶と話し合い、聴聞の女房車の立て方にまで目をつけ、万事につけ一々気を配る様子である。長い間会わなかった人と、説経の場で会う、珍しがって、近くに歩み寄り、物を言いうなづき、面白いことなどが話題にのぼって、扇を広く広げて、口に当てて笑い、よく装飾した数珠を手でもてあそびもてあそびして、こちらあちらを見渡したりして、車が良いだの悪いなどをほめたり罵ったりして、どこそこでだれそれがした法華八講、何の経で心書写し、または書写させた功徳のために仏事を修すること、とある事とかくある事、言い比べ座っているだけで、この説経のことは、聞き入れもしない。何の事はない、いつも聴きなれている事だから、耳馴れて珍しくもないからだろう。

(三)   紫式部

『紫式部日記』
・先輩清少納言と同輩和泉式部に云いたい放題の紫式部

「あんなに軽薄に仕上がった清少納言の行く末なんか」
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち真字書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ。」

和泉式部は、こちらが恥をかくほど立派な歌人とは思われません」
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。それだに、人のよみたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでや、さまで心は得じ。口にいと歌のよまるるなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。はづかしげの歌よみとはおぼえ侍らず。」
 
『源氏物語』
源氏物語は、斎宮の伊勢下向と法華経がメインテーマである
「賢木の巻」第十帖 賢木(さかき)
賢木(さかき)のあらすじ(光源氏23歳秋9月から25歳夏の話。)
 源氏との結婚を諦めた六条御息所は、娘の斎宮と共に伊勢へ下ることを決意する。紫の上と結婚した源氏も、さすがに御息所を哀れに思って秋深まる野の宮を訪れ、別れを惜しむのだった。御息所母娘の伊勢下向からしばらくして、すでに15歳になっていた、紫の上の裳着を執り行い、紫の上は一人前の女人となった。斎宮下向から程なく、桐壺帝が重態に陥り崩御した。源氏は里下がりした藤壺への恋慕がますます止みがたく忍んでいくが、藤壺に強く拒絶される。事が露見し東宮の身に危機が及ぶことを恐れた藤壺は、源氏にも身内にも知らせず桐壺帝の一周忌の後突然出家した。悲嘆に暮れる源氏は、右大臣家の威勢に押されて鬱屈する日々の中、今は尚侍となった朧月夜と密かに逢瀬を重ねるが、ある晩右大臣に現場を押さえられてしまう。激怒した右大臣と弘徽殿大后は、これを期に源氏を政界から追放しようと画策するのだった。(Wikipedia賢木より。太字は本ページ)

源氏物語 目次 
 光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語
第一章 六条御息所の物語/秋の別れと伊勢下向の物語
 第一段 六条御息所、伊勢下向を決意
 第二段 野の宮訪問と暁の別れ
 第三段 伊勢下向の日決定
 第四段 斎宮、宮中へ向かう
 第五段 斎宮、伊勢へ向かう

第二章 光る源氏の物語/父桐壺帝の崩御
 第一段 10月、桐壺院、重体となる
 第二段 11月1日、桐壺院、崩御
 第三段 諒闇の新年となる
 第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる
第三章 藤壺の物語/塗籠事件
 第一段 源氏、再び藤壺に迫る
 第二段 藤壺、出家を決意
第四章 光る源氏の物語/雲林院参籠
 第一段 秋、雲林院に参籠

 第二段 朝顔斎院と和歌を贈答
 第三段 源氏、二条院に帰邸
 第四段 朱雀帝と対面
 第五段 藤壺に挨拶
 第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答
第五章 藤壺の物語/法華八講主催と出家
 第一段 11月1日、故桐壷院の御国忌
 第二段 12月10日過ぎ、藤壺、法華八講主催後、出家
 第三段 後に残された源氏
第六章 光る源氏の物語/寂寥の日々
 第一段 諒闇明けの新年を迎える
 第二段 源氏一派の人々の不遇
 第三段 韻塞ぎに無聊を送る
第七章 朧月夜の物語/村雨の紛れの密会露見
 第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される
 第二段 右大臣、源氏追放を画策す



    『四章 光る源氏の物語/雲林院参籠』を読む


【原文】第一段 秋、雲林院に参籠
 大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院(鎌倉時代までは天台宗の官寺)に詣でたまへり。「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて、法文など読み、行なひせむ」と思して、二、三日おはするに、あはれなること多かり。紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見たまひて、故里も忘れぬべく思さる。法師ばらの、才ある限り召し出でて、論議せさせて聞こしめさせたまふ。所からに、いとど世の中の常なさを思し明かしても、なほ、「憂き人しもぞ」と、思し出でらるるおし明け方の月影に、法師ばらの閼伽あかたてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊の花、濃き薄き紅葉など、折り散らしたるも、はかなげなれど、「このかたのいとなみは、この世もつれづれならず、後の世はた、頼もしげなり。さも、あぢきなき身をもて悩むかな」など、思し続けたまふ。律師の、いと尊き声にて、「念仏衆生摂取不捨」と、うちのべて行なひたまへるは、いとうらやましければ、「なぞや」と思しなるに、まづ、姫君の心にかかりて思ひ出でられたまふぞ、いと悪ろき心なるや。
【現代文】
源氏の君は、宮を恋しく思っていたが、「あまりにつれない御心を、時々は思い知らせて自覚してもらおう」と思っていて、体裁も悪く、何をするでもなく過ごしていたが、秋の野を見がてら、雲林院に行こうと思い立った。
「故母御息所の兄の律師が籠っている坊で、仏典を読んで、行をしよう」と思い、二、三日滞在したが、感ずるところ多かった。
紅葉がようやく色づいて、秋の野のしみじみした情景を見て、都のことも忘れそうになった。法師たちの、学のあるものを召し出して、議論をさせたりした。場所柄、世の無常を思って夜を明かしても、なお、「つれない人」を思いだされる明け方の月影に、法師たちが閼伽(あか)をお供えしようとして、からからと鳴らしながら、菊の花や濃い薄い紅葉などを折り散らしたりするのも、些細なこと、とは思うが、「このようなお勤めは、この世の無聊を慰め、後の世にも頼みになりそうだ。なんと、わが身は叶わぬ恋に身を焦がしていることか」など、思い続けている。律師の、とても尊い声で、「阿弥陀如来は、念仏する衆生を摂取して捨てない」と、読経するお勤めは、とてもうらやましいと思うが、「どうして世を捨てられないのか」と思うに、まず姫君のことが心にかかるのは、まったく俗な心であろう。


【原文】十月十三日 朝顔斎宮と和歌を贈答
 六十巻といふ書、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解かせなどしておはしますを、「山寺には、いみじき光行なひ出だしたてまつれり」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。しめやかにて、世の中を思ほしつづくるに、帰らむことももの憂かりぬべけれど、人一人の御こと思しやるがほだしなれば、久しうもえおはしまさで、寺にも御誦経いかめしうせさせたまふ。あるべき限り、上下の僧ども、そのわたりの山賤まで物賜び、尊きことの限りを尽くして出でたまふ。見たてまつり送るとて、このもかのもに、あやしきしはふるひどもも集りてゐて、涙を落としつつ見たてまつる。黒き御車のうちにて、藤の御袂にやつれたまへれば、ことに見えたまはねど、ほのかなる御ありさまを、世になく思ひきこゆべかめり。
【現代文】六十巻という仏典を読み、不審なところを解説させるなどしているのを、「山寺にとって、勤行の功徳ですばらしい光明を迎えたのだ」と、「仏にとっても名誉なこと」など、いやしい法師たちも喜びあった。世の中を静かに思い続けていると、都に帰るのもおっくうになり、人一人の御事を思いやるのが障りとなって、久しく滞在もできず、寺にも誦経のお布施を盛大にふるまった。いるかぎりの上下の僧たちや、その周辺の山賎まで物を賜い、功徳の限りを尽くしてからお帰りになった。お見送りには、あちこちから卑賤な老人たちも集まって、涙をながしている。黒い車の中にいて、喪服の藤衣に身をやつしているので、ことさらに素晴しくは見えないが、ほのかにただよう気配が、世に比べるものがないように思えた。


【原文】十月十八日 桐壷院の御国忌
中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。霜月の朔日ごろ、御国忌みこきなるに、雪いたう降りたり。
【現代文】中宮は、院の一周忌に続いて、法華八講の準備に色々と忙しくしていた。
十一月のはじめごろの御国忌の日、雪がたいそう降った。




(四)和泉式部

和泉式部と法華経

連作歌、十二首(一三九一~一四0二)
【詞書】「我不愛身命と云ふ心を上にすゑて」
(「われ身いのちをば愛しまず」という法華経の偈を最初に据えて詠んだ)
【一三九三】みる夢もかかりどころはある物をいふかひなしやはかもなき身は
(夢にも劣る、こんな頼みにもならないわが身を捨て、永遠の無上道と取り換えよう)
【一四OO】しばしふる世だにかばかりすみうきに哀れいかでかあらんとすらむ
(この世だってこの通りだ、死んだあの世の辛さはどんなだろう)
「長い地獄の苦しみにどうしてたへられよう」と注
【一三九四】いかばかりふかきうみとかなりぬらんちりのつみだに山と積れば
(無始以来の罪業は自には見えないが、どんなにか深いことだろう)
「我不愛身命」は法華経の第十三番目の勧持品(かんじほん)の偈で、下の句は「但惜無上道」。それを実践し、弘めていくためであるならば、自分の身命も惜しまないということである。たったひとつしか無い命であるから何が何でも命懸け、ということではなしに、無上道を惜しむが故に身命を惜しまないということが大切。
 法華経勧持品の偈【但惜無上道(たんしゃくむじょうどう)】は、法華経の中でも出家者の覚悟を問う経文として有名です。法華経中「勧持品」はサンスクリット語で「果敢なる努力の章」という名前の第十二章。『世尊の滅後の弘通(ぐずう)について心配することはないのですよ、眉をひそめられたり、集会においてしばしば座席の割り当てがなかったり、精舎から追放されたり、何度も種々に捕縛されたり、悪口されたりすることがある、私たちはすべて耐え忍ぶべきですよ』。そんな主旨の理解者である和泉、法華経の実践者としての決意と覚悟が際立つ。
そのような和泉は、「伊勢物語」にも相当精通していたことが知られている。伊勢物語は、「一ニハ斎宮事ヲ為詮。故号伊勢物語」ということで、源氏物語も伊勢物語も、伊勢斎宮と法華経がバックグラウンドにあり、和泉の人間としての心の暗闇という共通テーマとしては、格好の対象であったのだろう。表現スタイルは三者三様で、和泉は私小説的に表現し、他はノンフィクション的な作品になっている。どれも、法華経の経典の世界を余すところなく表現している。こんなところが、千年以上経っても色褪せない所以だろう。そんな女流作家たちの中で、恋愛の表現で一押しは、やはり和泉でしょう。普遍性がある。和泉の求めていた道と、同じ道を求めていたのが紫式部であった。ただ、二人の作家の異なる点は、和泉の方は求め方がリアリズム故に強烈であるのに対して、紫の方は非リアリズムで当たり障りが無く広いファンを対象にしている。

(五)和泉式部と赤染衛門

 赤染衛門は、法華経二十八品歌の諸品を採って和歌の題とし、釈教歌を残した最初の人物の一人といわれている。以下に釈教歌を紹介する。
【四三九】身にかへて法をおしまんためにこそしのびがたきをしのびてもへめ
〈法華経二十八品のうちの第十四品〉
「忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道」(漢文から)

和泉式部の連作歌、十二首(一三九一~一四O二)で紹介した「我不愛身命」「但惜無上道」と同じである。
【四三一】法の雨は 草木も向(む)けで そそげども おのがじゝこそ うけまさりけれ
〈法華経二十八品のうちの第六品〉
「法の雨は 雨が草木にもれなく降り注ぐように 衆生にもれなく降り注ぐのだが 衆生それぞれの能力に応じて熟考するのだ」(サンスクリット語訳から)
いわゆる法華経の説く「平等思想」を詩的に表現しているのがこの章である。。
和泉も赤染衛門も、『法華経』の諸品に対応する和歌の題を選び、経典に忠実に分り易い和歌の形で『法華経』の弘布を願ったのだろう。「本歌取り」という和歌の形式のルーツは、この釈教歌にあるのでしょう。「本歌取り」によれば、法華経解釈で大きなミスは避けられるだろうから。
・和泉式部と赤染衛門の関係
大江氏と菅原氏のルーツは土師氏と言われている。両者とも同業者で文章道の家柄。中でも菅原道真が勇躍し有名だったが失脚により、大江家の大江匡衡(まさひら)が飛躍することになる。大江匡衡の父は大江重光、母は藤原時用娘。兄に大江雅致と云われている。この雅致が和泉の父で、母は平保衡の娘。父方の大江氏は菅原氏と並ぶ学問の家柄であり、幼少期から、古今の文章に慣れ親しむ環境にあったと考えられる。「式部」は、父の雅致が式部丞だったからとも云われている。
一方、赤染衛門は、赤染時用の娘とされる。貞元年中(976~978)に、文章博士・大江匡衡と結婚する。大江匡衡との間に大江挙周・江侍従などを設けた。源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕え、同時代に、紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔がいる。赤染衛門と和泉式部は大江家系の女官のホープということになる。
赤染衛門は生年月日:西暦960年頃、死亡日:1040年頃。
和泉式部は生年月日:西暦976年頃、死亡日: 1030年頃。
赤染は和泉よりも一世代半早く生まれ、和泉の死の十年後に亡くなっている。推定80歳の長寿であった。大江家のホープで才女和泉を終生支えたのが、赤染衛門だった。

【おわりに】

ロマンスも派手にやると大怪我する
 埼玉県の日高市はお隣の飯能市と同様に行政が歴史学への干渉が甚だしい。何を血迷ったかこだい妄想「建郡千三百年祭」を実行し市の財政を浪費した。肥え太ったのは虚構の高麗神社と一部のマニア。祭りのバカ騒ぎの後は虚脱感が日高市全体を被っている。その成果は皆無で、「歴史浪漫学会」という名称の負のレガシーが残された。これは、狂信的マニアが心の傷を舐め合うプロジェクトに過ぎない。
「歴史浪漫学会」に関しては、デカルトが「方法序説」で上手いことを言っている。この短文に尽きるだろう。(「方法序説」第一章)
『創作著述は、不可能なことを可能だと思わせてしまう。そして、どんなに忠実な歴史でも、できごとを完全にねじまげたり、読ませようと品位を高めるためにその重要性を誇張してみたりすることだってあるし、そうでなくてもその場の状況でいちばん都合が悪かったり、あまり印象の強くなかったりするものはほとんどいつも省いてしまう。そのために残りの部分は闇に葬られ、削ぎ落されて恣意的な範例だけが残る。我々の風習や行動を律しようとする人たちというのは、都合の好い範例で着飾り立派に見せようと躍起になり、騎士道物語のロマンスの派手派手しさに陥って、自分の力にあまるプロジェクトに手をだしたりするようになる。』
狂信的マニアは自由に気ままに、世の中と関係なく勝手に浪漫を追い求めていただきたいものである。とは言っても、日高市の力にあまるプロジェクトが残した公害は、周辺の市町村は言うに及ばず日本列島の広範囲に広がっている。更に時空を超えて古代史ばかりでなく中・近・現代史まで歪め続けている。地方自治体として一刻も早くこの悪弊を断つことが責務であろう。
さらに、深刻なことは、遺跡発掘調査における恣意的活動が上げられる。一番問題となる点は、「建郡史観」への固執。戦前の「埼玉史談」会員故清水嘉作氏のデータねつ造問題と正面から向き合わないことが発端となった。皇国史観に毒されていた清水氏が考古学上の遺物を偽造しても何ら不思議ではないが、戦後の社会で故清水嘉作氏の恣意的報告を検討もせずに己の論稿に採用するのはあってはならないことだった。日高市の遺跡発掘調査としてはこの一点で失格であるし、戦後の日高市遺跡調査の全作業の信頼性は損なわれることは確実でしょう。それもこれも、原因を作ったのは「建郡千三百年祭」記念行事であることは明らかである。市長の責任は大きい。

附録

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