高麗神社
虚構と負の遺産「朝鮮侵略の歴史遺産」としての歩み
はじめに
昨年の八月十五日に公開した游古疑考倶楽部「偽書高麗氏系図」に続き、今回は本丸の「高麗神社」に焦点を当てた。一次資料を中心に調べを進めていくと、この問題は、古代史でも、中世史でもなく、極めて近現代史であると気づかされる。意外にも身近で今日的な問題であった。
鶏が先か、卵が先か、偽書「高麗氏系図」が先か、高麗神社が先か、はたまた両者は?という発想ができるか否かで一連の迷路から抜け出せるのだが、大掛かりな国家的なフェイク(嘘)はなかなか暴かれることなく人々を洗脳し続ける病魔で、厄介なものなのだ。
しかし、手掛かりとなるのは一次資料、その発掘と収集と保存は辛うじて間に合った。幸か不幸か、先の太平洋戦争の大敗で、民族滅亡の淵に立たされた日本国民は、己の記憶装置からメモリを消去することで戦後を生きてきた。コロナ禍のように真空禍の頭脳が日本中に蔓延した。国民は戦争を語らず沈黙し、身の回りの「戦争現場」と記録を頭脳の中だけで消去し続けてきた。その結果、意味を失った謎の「戦争遺跡」がそのまま残った。その語り部の年齢も九〇歳を超えようとしている。「負の戦争遺産」は注目されることなく手付かずのまま草生す野辺にひっそりとそこに在る。これが、「高麗神社」のカラクリを解き明かす一次資料の宝庫となった。
集まったデータは、「高麗神社」が、明治以来、国策神社として新たに作られたことを余すことなく示している。
昭和十四年発行の『埼玉史談』では、高麗神社が朝鮮併合のシンボルとして装いを一変する様子が生々しく記されている。民族滅亡の断末摩に突き進むこの時期に、神社の社殿を再建し、「社殿の方向を東向から南向きに更へて、社殿の位置も高く盛土して、全く奮観を一變した。去る十九日に全朝鮮内の思想転向者約四十人が、思想聯盟を作って内地視察旁々來たので一日高麗神社へ参拝し」とある。この記事が国策神社としての「高麗神社」のカラクリを解き明かすきっかけとなった。
資料の中で特筆すべきは、天明七年(1787)の資料(一)「高麗大明神由緒書上」である。武州高麗郡高麗郷高麗山大宮寺住職清乗院( 良純)の上申書は、「高麗神社」関連の古文書の中で、わたくしたちが、今日、手にして読むことが出来る最も古いものであろう。次に注目すべきものとして棟札類である。従来からも板碑類と同様に位置づけられて調査・研究されてきたが、今回は、小田原(後)北条氏の関東支配の盛衰の一端を示す資料として重視し再考した。また、後北条氏の行政文書類も豊富で宝の山、大いに助かった。
更に、この調査にあたり、終戦直後の荒廃した郷土に立ち、皇国史観から科学的歴史学への郷土史転換を目指し活動された方々に思いを致すとともに、感慨深いものがあり深かく感謝する次第である。また、調査に当たり微妙で複雑な問題にもかかわらず、多くの方々からお力添えと助言をいただきました。併せ篤く御礼申し上げる次第である。(令和二年九月十九日)
資料 一 高麗大明神由緒書奉上書
『武蔵国高麗郡高麗郷古傳』高麗大記の下書き(明治11年)
《續日本紀巻之七元正天皇霊亀二年 以駿河甲斐相模上総下総常陸下野七國高麗人千七百九十九人)テ武蔵国置高麗郡》この記述を悪用し捏造する高麗大記の下書き。『高麗郷古傳』・『高麗王系譜』
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