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超巨大地震と城柵官衙の時代(中)古代仏教の「知識運動」と意匠デザイン 


はじめに 古代仏教の「知識運動」 

 群馬県高崎市山名町に上野三碑のひとつ金井沢碑がある。この石碑に神亀三年(726)銘とともに「知識結」・「知識所」と彫られている。天平勝宝元年の陸奥産金より二十三年前の元正天皇の御世で西暦716年頃になるわけだ。この「知識」は現代の「知識」とは意味合いが異なり、隋代の天台宗智顗の「智者大師」から生じた仏教運動を意味するものである。現代の「知識」という意味に解したら迷宮入りでしょう。要注意。
「聖徳太子」、「行基菩薩」、「空海」の不思議な逸話は、すべて「知識結」と考えられる。それ故に、超人的で不死鳥のごとく慈善事業を次々と成し遂げていったのである。ボランティア活動というよりも、今様の冨民によるクラウドファンディングによる起業活動に似ている。しかし、この運動は、「力」による支配を望む為政者にとっては地位を脅かす不安の種でしかなかった。仏教そのものが脅威ではなく、自主独立の運動体としての仏教が恐怖なのである。何でもかんでも権力への従順を求めないと安眠できない為政者たちが、歴史にときどき登場し法難を引き起こしている。韓国の李朝時代にも中国でも法難が起きている。中国では、「三武一宗の法難」という四大法難で廃仏毀釈の被害を受けている。北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗、この四人の悪名が刻まれている。偶然にも遣唐使の円仁が唐の武宗の法難の目撃者になっている。円仁の「入唐求法巡礼行記」に詳しい。日本最大の法難は、1868年の明治政府の太政官布告「神仏分離令」や詔書「大教宣布」などの国家神道への反動政治による仏教施設の破壊、「廃仏毀釈」であった。高麗郡を筆頭に、入間郡、比企郡が最大の被害地である。
最澄は中国語の言葉の壁が大きかった。通訳の義真が同行していたが滞在期間が限られたために、密教を完全にマスターすることはできなかったのである。これに助力したのが律宗の僧である道忠(735~800)。鑑真の「持戒第一」の弟子で中国語が堪能である。東大寺で受戒した後、最澄の要請に応え比叡山で修行していた。これが縁となって、東大寺研究所の道忠門下生が次々と最澄の弟子となっていった。第二代天台座主円澄、第三代天台座主円仁、第三代天台座主安慧と、続けて三代にわたって道忠系から天台座主を輩出。特に第三代天台座主円仁との子弟関係は濃い。円仁は入唐前に、道忠から中国語の特訓をうけている。このため、通訳を同行しなくても難解な密教の胎蔵経、金剛経、蘇悉地経の三部大法を完璧にマスターすることができた。大宰府に帰還後、師の道忠を待つ。道忠との再会で「円仁・入唐求法巡礼行記」は終わっている。よほど嬉しかったのだろう。帰国後は大活躍、多忙極めた。没後二年、清和天皇により慈覚大師という称号が贈られた。円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は立石寺、毛越寺、中尊寺、瑞巌寺、浅草寺、大慈寺、延暦寺など東北に三百三十一寺、関東に二百九寺余あるとされる。東北から北関東地方での活動が際立つ。ちなみに、瀬戸内寂聴が再興した岩手県二戸郡の天台寺も行基・慈覚大師の開山・再興の伝承がある。陸奥の立石寺は、貞観二年(860年)、円仁が砂金千両・麻布三千反をもって開山と云う。天台「知識」運動と陸奥産金事業を結びつけるシンボリックな出来事である。

1 隋・唐代の仏教―華厳経と法華経の隆盛―

【開祖関連年代表と開祖導師の義淵僧正・良弁僧正像

【第1表】 開祖関連年代表


義淵(ぎえん)僧正坐像[岡寺/奈良]
良弁僧正坐像[東大寺/奈良]

(1)     唐代「華厳経」前後の古代宗教の開祖たち

【義淵(ぎえん)僧正坐像[岡寺/奈良]木心乾漆 】
義淵はその門下から行基、道慈、良弁等の多く学匠を輩出した奈良時代前期の法相宗の学僧で、天智天皇から岡本宮を賜わり、これを改めて竜蓋寺(岡寺)を創建し、神亀5年(729)この地で入寂したと伝えられる。両部の深く刻まれたしわや、胸部の肋はいかにも年老いた姿を写しながらもがっしりとした躰躯や、しわ深いとはいえ、ひきしまった面部の造作は精悍な気迫をよくとらえている。衣は肉身部の表現とは対称的にゆったりとおおまかに表現され、それがかえって高僧義淵の肉身部特に面部に集約される強烈な意志を強調しているかの感がある。木心乾漆とはいえ桧材で彫成された木心部はかなり発達し、その上に厚手の乾漆をもり上げて細部の表現をしており、技法的に奈良時代後半から平安時代初期の特色を持っており、気分的に平安時代初期の一木彫像の造形を感じさせるものである。ともあれ、奈良時代後半から平安時代初期頃の造顕になる数少ない肖像彫刻の一遺品として注目すべき作例といえよう。
 
【良弁僧正坐像[東大寺/奈良]】
良弁は、草創期の東大寺の寺家を代表する僧であり、奈良時代を代表する僧の一人であった。
『続日本紀』には次に挙げる四筒所。
《天平勝宝三年(七五一)四月甲戌【廿二】》詔、以菩提法師為僧正。良弁法師為少僧都。道瑠法師・隆尊法師為律師。
《天平勝宝八歳(七五六)五月丁丑【廿四】》勅。奉為先帝陛下、屈請看病禅師一百廿六人者。宜免当戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母両戸。然其限者、終僧身。又和上鑑真。小僧都良弁。華厳講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎮慶俊。或学業優富。或戒律清浄。堪聖代之鎮護。為玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。当于先帝不予之日。自尽心力。労勤昼夜。欲報之徳。朕懐罔極。宜和上・小僧都拝大僧都。華厳講師拝小僧都。法進。慶俊並任律師。
《天平宝字四年(七六〇)七月庚戌【廿三】》大僧都良弁。少僧都慈訓。律師法進等奏曰。良弁等聞。法界混一。凡聖之差未著。断証以降。行住之科始異。三賢十地。所以開化衆生。前仏後仏。由之勧勉三乗。良知。非酬勲庸。無用證真之識。不差行住。詎勧流浪之徒。今者。像教将季。緇侶稍怠。若無褒貶。何顕善悪。望請。制四位十三階。以抜三学六宗。就其十三階中。三色師位并大法師位。准勅授位記式。自外之階。准奏授位記式。然則、戒定恵行、非独昔時。経・論・律旨、方盛当今。庶亦永息濫位之譏。以興敦善之隆。良弁等。学非渉猟。業惟浅近。輙以管見。略事採択。叙位節目。具列別紙。」勅報曰。省来表知具示。勧誡緇徒。実応利益。分置四級。恐致労煩。故其修行位。誦持位。唯用一色。不為数名。若有誦経忘却。戒行過失者。待衆人知。然後改正。但師位等級。宜如奏状。」又勅曰。東大寺封五千戸者。平城宮御宇後太上天皇・皇帝・皇太后。以去天平勝宝二年二月廿三日。専自参向於東大寺。永用件封入寺家訖。而造寺了後。種種用事、未宣分明。因茲。今追議定営造修理塔寺精舍分一千戸。供養三宝并常住僧分二千戸。官家修行諸仏事分二千戸。
《宝亀四年(七七三)閏十一月甲子【廿四】》僧正良弁卒。遣使弔之。

(2)    華厳経の「頓経」とは?

 『入法界品』とは、大乗仏教経典『華厳経』の末尾に収録されている大部の経典。サンスクリット語『ガンダヴィユーハ・スートラ』。成立は、西暦200年から300年頃。
「華厳経入法界品、華厳五十五所絵巻」は、スダナ少年(善財童子)が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、五十三人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様子が描かれている。江戸時代にブームになった東海道五十三次の旅の宿場は、この絵巻を参考にしているという。(諸説あるが)左記の『華厳経入法界品』巻末の「祇園精舎の集い」(簡略版)が、釈迦の悟りの瞬間を表現している。瞑想に入った釈尊の周りに集まった沢山の弟子の誰一人として釈尊の悟りの瞬間を感知できない、頭で知ることと異なり、突然、一瞬で「悟ること」を「頓経」という。
・隋の智顗(ちぎ)は、釈迦が悟り直後の内容を分かり易くせず粗削りの経典であるとした。
・唐の法蔵は、厳密な判定で華厳の教えを最高とした。

【祇園精舎の集い】(要約)

 『釈尊は拘薩羅国の首都、舎衛城の祇園精舎の重閣講堂にあって、夜光幢、須彌山幢、寶幢など、五百の大聖者と共に居られた。普賢と文殊が一會の長者であった。これ等五百の聖者は皆普賢の願行の体現者であった。また五百の大聲聞(しょうもん)と共に居たが、これらの聲聞(しょうもん)もまた真理を体得して一切の繋縛(けいばく)を離れ、深く諸仏の真證の大海を信ずるものであった。(聲聞とは弟子)時に、諸の聖者、聲聞、天人及び其の眷属(けんぞく)は佛の境界を念じ、釈尊のこれを掲示せられんことを念願した。その時、釈尊は大衆の心を知しめし、大悲をもって獅子奮迅(ししふんじん)三昧に入られた。釈尊が奮迅三昧に入るや、重閣講堂は惣(こつ)然(ぜん)と、 廣博厳浄、壮麗云わん方なき微妙な浄土と化した。更に十方より普賢の行願を成就した微塵数に等しい無数の聖者が来集して祇園の森に充満した。この時、大聲聞である舎利弗、目犍連、摩訶迦葉、離婆多、須菩提、阿尼盧豆難陀、訶迦旃延、金毘羅、迦旃延、富楼那弥多羅尼子の十大弟子は祇園林にあって、しかも、仏の自在な霊能を見ることが出来なかった。そのわけは、彼らが聲聞の教えに頼って迷いから抜け出そうとするからである。また聲聞の教えに満足し、聲聞の成果に止まってしまい、自由で偏見のない智慧によって真理を得ようとせず、常に自己の安静を願って利他大悲の実践を捨てるからである。これ故に仏の間近に坐しながら、此の稀有なる瑞相を覚知することが出来ないのである。』 

2  古代仏教の意匠デザイン

敦煌莫高窟の石窟は日本の平城京時代の仏教の様相をリアルに伝えている。700石窟があるが、実に500余りの石窟に荘厳な仏教寺院なのだ。敦煌莫高窟の寺院に散りばめられた無数の唐代の宝相華文様に圧倒されるものがある。この時代に連動している日本は、元明・元正・聖武・光明子の御世である。
歴史学研究の第一級の資料である。人はこの唐華文を退化というかもしれないが、それは思い違いでしかないでしかない。余りにも感傷的で、単なるロマンチシズムである。むしろ、唐代の明確な仏教的世界観を写したシンボルであり、敦煌石窟寺院の作品群が時代の画期を期すものとして歴史の物指しになりうることを余すことなく示している。

(1)    敦煌莫高窟

・阿修羅・雷神・風神図

敦煌第二四九窟 

・ 降魔図敦煌

敦煌莫高窟 第二五四窟


・千仏の世界

莫高窟第四二七窟









・莫高窟第九十六窟 北大仏盧舎那仏

盧舎那仏頭部 
  則天武后の指導により建立、東大寺の二倍の高さ


(2)    東大寺・正倉院・唐招提寺の【毘盧遮那仏】





(3)   東大寺・正倉院・法隆寺の宝物

 東大寺とその正倉院と法隆寺には第一級の物証が現存する。 幸運にも、千三百前のタイムカプセルが無傷で鑑賞できるわけである。これらの物証を疎かに扱ったら罰が当たるというものだ。
聖武天皇の愛用品の多くの宝物は、天平勝宝八年(七五六)六月二十一日、聖武天皇崩御の七七忌に孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏に献じ、同年建立の正倉院に保管された。入東大寺願文が存在する。唐からの招来品若しくは唐風を伝える名品が多数現存する。さらに、法隆寺にも献納している。法隆寺願文が現存する。これらの品々は今回の調査では、歴史の物指し、中には確かな目印となった。
今回、東大寺と正倉院宝物の中で、意匠デザインの観点から再評価または再発見したものは、①紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)、②玉帯螺鈿箱、③東大寺敷瓦の三点である。この宝物は、古代史の調査の強力な武器となりその威力を存分に発揮した。
また、陸奥国分寺の創建時の軒丸瓦類も、時代の画期を記すものとして歴史の物指しになりうることを本シリーズの(上)で余すことなく示した。人はこの紋様を退化というが、それは「古代」という闇の世界に対する勝手な幻想で余りにも感傷的である。むしろ、産金事業開始で沸き立つ時代、唐風文化の明確な世界観を写した先進的な意匠デザインシンボルと見なければならない。

 ・ 入東大寺願文の冒頭部

・入東大寺願文の冒頭部拡大図
 
『妾聞く、悠々たる三界は、猛火が常に流れ、杳々たる五道には、毒網これさかんなり。故に、自在の大雄、天人の師仏は、法鈎を垂れて物に利し、智鏡を開いて世をすくい、ついに擾々たる群生をして寂滅の域に入らしめ、蠢々たる品類をして、常楽の庭に趣かしむ。ゆえに帰依あれば則ち罪を滅することを無量、供養すれば則ち福をうること無上なり』

太上天皇の御為に、国家の珍宝を捨てて東大寺に入れ奉るの願文  皇太后 御製

・入東大寺願文の署名部拡大図

入東大寺願文の署名部拡大図 天平勝宝八年六月廿一日
福信は兼務で「山背守巨摩朝臣福信」と署名

・法隆寺願文

福信は兼務で「武蔵守巨摩朝臣福信」と署名。天平勝宝八年七月八日


上の拡大 各々の筆跡がわかる
仲麻呂の筆跡は木簡レベルでヘタクソ
福信の筆使いは毛筆上手

・紅牙撥鏤尺

紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)


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・玉帯の箱 螺鈿箱鈿

帯の箱 螺鈿箱鈿

・螺鈿紫檀の五弦琵琶

螺鈿紫檀の五弦琵琶

・唐招提寺の宝相文様

 唐招提寺金堂盧舎那仏坐像 像高304.5㎝ 『カラー版日本仏教史』。
奈良時代、天応元年(781)頃。鑑真よる唐代・天宝年間(742~755)の作風と華厳経の世界を感じられる盧舎那仏坐像。多数の「千仏光背」は、敦煌の莫高窟の第四二七窟の千仏世界を簡潔に表現していて説得力がある。光背縁円には無数の丸い粒が連なっている。これは女影廃寺の古瓦の縁円の文様に似る。


頭部 光背は「千仏光背」(一体が不明)

・「支輪子 小花文」白描図と彩色復元図
 下絵デザイナーのを示している。

・多摩美大のポスター
芸術家の卵もこの時代の意匠デザインに魅了されているわけ。

多摩美大のポスター

・亀甲文様 宇治平等院 薬師如来立像 

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・亀甲文様 現在も息づく工業デザインの例

デザイナー開田小絵氏による亀甲文意匠デザイン(ISFETpH計ケース)







3 「知識」運動

(1)    聖武天皇の盧舎那大仏造顕の詔と「知識」運動

 聖武天皇の造東大寺造仏の発願詔書は、それ以前の大仏建立とは異なる「知識」という仏教運動思想で進められていることがよく表現されている。
『続日本紀』天平十五年(743)聖武天皇聖武天皇の造東大寺造仏の発願詔書

【原文】

詔曰。冬十月辛巳
『朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之業、動植咸栄。
粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。
有天下之勢者朕也。此富勢造此尊像。事也易成、心也難至。但恐徒有労人、無能感聖。或生誹謗、反墮罪辜是故、
預知識者。懇発至誠。各招介福。宜毎日三拝盧舍那仏。自当存念各造盧舍那仏也。如更有人、情願持一枝草一把土助造像者。恣聴之。国郡等司、莫因此事、侵擾百姓強令収斂。布告遐邇、知朕意矣。』
 
【意訳】天平十五年 冬十月十五日
『朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎ、その志は広く人民を救うことにあると、努めて人々を慈しんできた。思いやりと情け深い恩恵は、朕が天皇として国土の果てまで受けるよう計れるが、いまこの国を見るに、み仏の法恩においては、天下のもの一切が浴しているとは思われない。朕は真実、仏法僧(三宝)の威光と霊力に頼って、天地ともに安泰となり、万代までの幸せを願う事業を行って、草、木、動物、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである。
そこで、この天平十五年癸未の十月十五日を以て、菩薩に大願して、盧舎那仏(華厳経)の金銅像一体をお造りしようと思い立った。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を建築し、仏法をあまねく宇宙にひろめる。この為に智識運動を起こすこととしたい。この事業が成就したならば、朕も衆生も、皆同じように仏の功徳を蒙り、ともに仏道の悟りの境地へと至ることができよう。
天下の富を有する者は朕なり。天下の権力者は朕なり。やることは容易だが、心がこもったことにはならない。また徒に民に労苦を強いてはこの事業の神聖な意義は失われよう。あるいはこの事業そのものが憎しみを産み罪を作り出すことがあってはならない。
「知識」運動が必要で、そこへ参加する者は熱心に誠心誠意、大きな幸いを招くよう廬舎那仏を敬い、自発的に参加し造立に従事するように。もし更に、一枝の草や一握りの土であっても捧げて、造立の助けたらんことを願う者があれば、その望み通りに受け入れよう。国司や郡司は造立の名の元に公民の暮らしに立ち入ったり、強いて物を供出させてはならない。遠近を問わず国中にこの詔を布告して、朕が意を知らしめよ。』

【第2表】東大寺・国分二寺建立関連年表

(2)   「造東大寺司沙金奉請文」(『正倉院御物』)

 寺司が東大寺に安置している沙金の下付を請はんとしてその勅許を仰いだもの。「宣」の字のみが御宸筆。孝謙天皇の御宸筆で唯一残っているもの。なお「異筆」のところはこの勅許を得て東大寺が沙金を下したことを示す。
なお天平勝宝四年(七五二)には、孝謙天皇は大仏開眼をおこなう。天平勝宝八年(七五六)五月二日に聖武天皇が崩御、その皇女の孝謙天皇は、同年七月八日に聖武天皇遺愛の宝物を東大寺以下18の寺に献納した。
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沙金貳仟壹拾陸兩[有東大寺]
   右造寺司所請如件
     天平勝寶九歳正月十八日
    巨萬朝臣「(自署)福信」
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天平勝寳九年正月十八日主典美努連
長官佐伯宿祢今毛人  判官紀朝臣池主  
竪子(じゅし)巨萬朝臣福信  葛木宿祢
沙金貮仟壹拾陸両
右依 御製奉塗大仏像料下充造寺司
天平勝寳九年正月廿一日主典美努連造
寺司長官佐伯宿祢   
判官紀朝臣    
竪子(じゅし)巨萬朝臣   
葛木宿祢戸主

 東大寺とその正倉院と法隆寺には第一級の物証が現存する。 幸運にも、千三百前のタイムカプセルが無傷で鑑賞できるわけである。これらの物証を疎かに扱ったら罰が当たるというものだ。
聖武天皇の愛用品の多くの宝物は、天平勝宝八年(七五六)六月二十一日、聖武天皇崩御の七七忌に孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏に献じ、同年建立の正倉院に保管された。入東大寺願文が存在する。唐からの招来品若しくは唐風を伝える名品が多数現存する。さらに、法隆寺にも献納している。法隆寺願文が現存する。これらの品々は今回の調査では、歴史の物指し、中には確かな目印となった。
今回、東大寺と正倉院宝物の中で、意匠デザインの観点から再評価または再発見したものは、①紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)、②玉帯螺鈿箱、③東大寺敷瓦の三点である。この宝物は、古代史の調査の強力な武器となりその威力を存分に発揮した。
また、陸奥国分寺の創建時の軒丸瓦類も、時代の画期を記すものとして歴史の物指しになりうることを本シリーズの(上)で余すことなく示した。人はこの紋様を退化というが、それは「古代」という闇の世界に対する勝手な幻想で余りにも感傷的である。むしろ、産金事業開始で沸き立つ時代、唐風文化の明確な世界観を写した先進的な意匠デザインシンボルと見なければならない。

(3)   天平勝宝元年(749)に集中する「知識」運動の記録

・【続日本紀】

砂金との関係では上野国の上毛野朝臣足人の記録が特に注目される。
《天平勝宝元年(七四九)》 五月「上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟・尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多・伊予国宇和郡人外大初位下凡直鎌足等、各献当国々分寺知識物、並授外従五位下」
《天平勝宝元年(七四九)》五月「飛騨国大野郡大領外正七位下飛騨国造高市麻呂・上野国勢多郡小領外従七位下上毛野朝臣足人、各献当国々分寺知識物、並授外従五位下」

・上野三碑の金井沢碑

神亀三年(726年)2月29日建碑(群馬県高崎市山名町)


上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
   神亀三年丙寅二月二九日
【第3表】上野三碑の金井沢碑

上野国群馬郡下賛(しもさぬ)郷高田里に住む三家子■が、父母の為に、ただいま家(いえ)刀(と)自(じ)、の立場にある他(おさ)田(だ)君目(きみめ)頬(ら)刀自、その子の加那(かな)刀自、孫の物部君午(うま)足(たり)、次の蹄(ひづめ)刀自、次の若(わか)蹄(ひづめ)刀自の合せて六人、また既に知識結(運動)により三家(みつやの)毛人(えみし)、次の知万呂、鍛師の礒部君(き)身(み)麻呂(まろ)の合計三人。
このように智識結にて天と地に請願いたします。
石文 神亀三年丙寅二月廾九日
神亀三年(七二六年)二月二九日建碑

この石碑は、陸奥産金の天平勝宝元年より23年以前の記録である。「知識結」・「知識所」の記録がある。この「知識」は現代の「知識」とは意味合いが異なり、華厳経以前の古代天台宗智顗の「智者大師」からの呼称なので要注意である。当時、このような石碑を建てたということは、先進地と進取の冨民の存在が想定でき。極めて限定的な「知識」運動に止まったのだろう。全国規模の大運動が起こるには、華厳経の隆盛とともに物質的経済的な条件が確立する陸奥の産金事業開始まで待たなければならなかったといえる。

【第4表】「知識」関連記載『続日本紀』年表



4 女影廃寺の古瓦と奧武蔵霊場

(1)     女影廃寺軒丸瓦 六弁唐花文軒丸瓦

  この軒丸瓦は水道工事で自宅の道路接続部を掘った際に、奇麗に並べられた状態で出土した模様だ。5枚とも原型を保っている。出土した瓦は、佐島氏が高萩公民館に寄贈し、長らく展示公開されてきたが、高萩公民館が手狭になってきたので日高市に預けた。しかし、その後、現在まで行方不明。

【日高市女影一五六番地 佐島助造氏宅出土】


昭和五十四年(1979)9月2日 佐島助造宅出土の女影廃寺軒丸瓦拓本


 この写真の瓦も、行方不明
日高市文化財関係者の責任は大きい

(2)    女影廃寺金泥古瓦


女影廃寺金泥古瓦
佐島助造宅出土の女影廃寺軒丸瓦と同范


側面写真:表面を金泥に塗らした時できた段浅跡が、鮮明に残っている


顕微鏡拡大写真
金箔が残っている

(3)武藏国分二寺(僧寺・尼寺)


 武藏国分寺の創建軒丸瓦は単弁八葉蓮華文軒丸瓦が主流である。唐招提寺と同系の軒平瓦が多く見られ中央との連携が顕著である。武藏国分二寺のついても同様で、単弁六葉を中心に東大寺・唐招提寺の意匠デザインを採用している。

尼寺
文字瓦
僧寺:高岡窯跡も出土

(4)陸奥黄金山涌谷六角堂古瓦

  女影廃寺金泥古瓦と同時代の古瓦
 

(5)    東大寺敷瓦

 【伝東大寺敷瓦】愛知県常滑市「土とやきもののミュージアム」所蔵
 東大寺建立(751年)の時代と推定。奈良三彩様式を備えた日本で最初の釉使用の敷瓦。

緑彩花文敷瓦 290×295×33(mm)
東大寺 奈良時代中期(8世紀)
愛知県常滑市「土とやきもののミュージアム」収蔵

(6) 高岡窯跡と高句麗系古瓦

・「高岡層」地質図(産総研地質図Navi編集)
関東山地には山中地溝帯の白亜系(以後,山中白亜系)関東山地には山中地溝帯の白亜系(以後,山中白亜系)を始めとし,下部白亜系の浅海成~汽水成堆積物が点在して分布する。高岡層は、海成層で高温の焼成に耐えられる粘土層である。露頭は二ヶ所あるが、川筋の方は砂利の堆積発見は無理であろう。


・高岡窯跡出土高句麗系瓦(日高市高岡、金井孝好氏所有)

高岡窯跡出土高句麗系瓦

・武藏国分寺跡出土高句麗系瓦
  大川清著書「古代のかわら」より転用

武藏国分寺跡出土高句麗系瓦「この寺の鐙・宇瓦は文様は多種多様で百余種に及ぶ。これは茎の付いた花弁の長短、大小を交互に配し、中房を四区分した高句麗系文様で、国内高句麗人のニューデザインである」(大川清著書「古代のかわら」より転用)

・高句麗系蓮華忍冬文瓦 名古屋市博物館所蔵 (以下引用)  高句麗後期 瓦面径14.2㎝ 顎厚2.1㎝ 現存長6.2㎝ 高句麗は427年に、大同江北岸の平壌城に遷都した。土城里土城(楽浪土城)は、この都の範囲から外れた大同江南岸に位置する。かつての楽浪郡の中心で、大同江を挟んで都城に隣接する城市で、高句麗政権において重要な城。 実際、土城里土城の東方に土城里廃寺の存在が報告され、同型式の瓦が周辺の寺でも使用されている。特徴としてはアーモンド状の中弁と忍冬文様である。

高句麗系蓮華忍冬文瓦 名古屋市博物館所蔵


(7) 姥田窯跡

・ 出土古瓦(日高市女影、長岡清氏所有)

姥田窯跡出土古瓦(日高市女影、長岡清氏所有)
姥田窯跡の地質図(海成粘土層は薄い)

5 行基伝承の坂東・奧武蔵の山岳修験寺院

(1)「神仏習合の五智如来と五大明王  

 密教の「五智如来」は、温和に正法を説くが、煩悩の虜になり救いがたい者は、「五大明王」がその如来の真意を奉持し、憤怒の相をもって霊的な力で悪を砕き正法に導く役目を持っている。不動明王を中心に東西南北に配置される。

【第5表】 神仏習合の五智如来と五大明王



【第6表】行基伝説の坂東・奧武蔵寺院と略歴

【第6表】 行基伝説の坂東・奧武蔵寺院

759年(天平宝字3年)、鑑真が奈良に「唐招提寺」建立。
804年(延暦23年)、「延暦の遣唐使」「最澄」と「空海」、遣唐使として唐に渡った
806年(大同元年)10月、空海は無事、博多津に帰着
809年(大同4年)まで入京不許可で大宰府・観世音寺に止住。
809年日高市の真言宗聖天院創建、本尊は不動明王?👈でたらめです
810年(大同5年)空海が布教・伝道開始818年(弘仁9年)最澄が布教・伝道開始            

(2)    霊場への道標

・入間郡毛呂山町「宿谷の滝」入口分岐道標     ・「生越梅林」三又路の道標    

・「生越梅林」三又路の道標
都幾川・西平の慈光寺から飯能・吾野の子の権現に詣でる古道は、「子の権現道」、「あま寺道」と称されている。① 椚平、ブナ峠を越えて高麗川を渡り、小床沢沿いの参道を登って子の権現へと至る道、② 越生を通って子の権現へと至る二方面からのアプローチがある。②のコースは、越生宿の法恩寺から桂木寺を経て黒山から顔振峠に達し、長沢に下り芳延から子の山参道を登って子の権現へと辿り着く。梅林入口の三又路に道標があり、慈光院・子の権現・高山不動・黒山三滝への里程が刻まれている。

・入間郡毛呂山町「宿谷の滝」入口分岐道標
毛呂・生越を北に向かって、西の急坂の方向に吾野・子ノ権現へ、ここから川越・飯能へ東西の低地に下る。

(3)坂東・奧武蔵の山岳修験寺院

・大寺廃寺の軒丸瓦
 大寺廃寺の軒丸瓦の文様は特異的なデザインである。意匠デザインの視点からは、ふたつの可能性が考えられる。①「神仏習合」の意味が込められている可能性。②東大寺の敷瓦の意匠デザインに似る。この敷瓦には六弁と六つ撥鏤が配置され、四弁の文様が四隅にもある。①の「神仏習合」の場合は、空海が密教を日本で布教開始したのが大同五年(810)。最澄は弘仁九年(818)。創建は九世紀初めとなる。②の場合は、大仏開眼供養会が天平勝宝四年(752)だから、これより後の時期で八世紀の後半になる。



・大寺廃寺の鬼瓦



・   高岡廃寺

・毛呂の桂木山霊場・桂木観音堂
 
大和葛城山に似るところから名付けたとの行基伝承

毛呂の桂木観音堂絵図
毛呂の桂木山霊場(奈良の葛城山に似ると円仁)
奈良の葛城山=華厳経の金剛山

高山不動尊(高貴山常楽院)
 道標を横目に桂木山霊場から高山道の急坂をよじ登ると、高山不動尊に着く。行基伝承もあるが密教の五大明王は空海以降だから矛盾する話ではある。この像については、桂木寺の仏像との関係が指摘されている。

青梅の安楽寺
 高山不動尊の西南には子の権現を経て、そこから南下すると飯能市大河原に至る。ここは天正年間に「軍荼利村」だった。隣の青梅に安楽寺がある。ここにも行基伝承と軍荼利明王立像が鎮座する。

・吉見 岩殿山安楽寺 宗派真言宗智山派
本尊 聖観世音菩薩
開基 坂上田村麻呂
創立 大同元年(806)
岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となる。
 
・入比(にっぴ)坂東三十三所
入間郡と比企郡の二郡にまたがる三十三札所で、ときがわ町・鳩山町・嵐山町・越生町で構成されている。創設年代は享保年間とされている。
 
・比企西国三十三所
ときがわ町・鳩山町を除いた比企郡域にある三十三寺院を巡拝する観音霊場で、稔誉浄安が享保八年(1723)に開創したという。ときがわ町・鳩山町の寺院は入比板東三十三所観音霊場に組み込まれている。

 ・福徳寺 阿弥陀堂と鉄造阿弥陀三尊立像
 臨済宗の仏教寺院 埼玉県飯能市大字虎秀
方三間、宝形造(ほうぎょうづくり)の阿弥陀堂形式のお堂。中尊寺金色堂や福島県いわき市の白水阿弥陀堂参考になる。建物全体で特に違和感のある個所は、阿弥陀堂の軒下の構造である。棟札などの記録は見つかっていないので特定できない。貫を支えているのは平安時代頃の組み物とされている舟(ふな)肘(ひじ)木(き)(禅宗様式以前)。平安時代までさかのぼるか?
【鉄造阿弥陀三尊立像】
「平安時代の建暦二年(一二一二年)宝山禅師の開山で建立。
鉄造阿弥陀三尊立像は、鎌倉時代中期の和様建築である福徳寺阿弥陀堂内の厨子に安置されています。  中尊の阿弥陀如来は像高47.6㎝、左右の脇侍観音菩薩、勢至菩薩とも像高は30㎝です。鎌倉時代の貴重な鉄仏で、三尊そろっているのは珍しいと言われています。形式は善光寺式三尊像で、一光三尊光背と呼ばれる大きな蓮弁形の光背を背に、如来と菩薩が併立する形をとり、両脇侍は大きな山形の宝冠をかぶり、両手を腕前に組んでいます。
この像は中尊、脇侍とも像身一鋳で、台座は蓮華と反花以下を別鋳とし、これを鋳かけています。鉄仏は、鎌倉、室町時代の作が多く、地域的には東日本に多く分布するなど、東国の人々、特に武士階級の志向に合致したものと推測されます」(飯能市の解説)

 御堂と共に注目されるのは光背のデザイン。八弁の唐花文様を配置している。このような光背は唯一だろう。釈迦の教えを忠実に再現している。いわゆる「千仏世界」をコンパクトに意匠デザイン化している。奈良仏教の影響を強く感じる。女影廃寺の六弁唐花文軒丸瓦と共通するものを感じる。

コラム 地獄の沙汰も沙金次第

 唐も末期の頃に慈覚大師円仁が入唐、この時四十五歳である。承和五年(837)入唐、承和十四年(847)に帰朝する。在留期間は実に9年6ヶ月に及び、既に五十四歳に達していた。この求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』である。全四巻からなつている。これを顕彰したのが米国人のライシャワー博士である。これによって日本でも、『入唐求法巡礼行記』が、玄奘の『大唐西域記』とマルコポーロの「東方見聞録」以上に歴史的価値があるものと広く再認識されてきた。マルコポーロと玄奘の記録は旅行記であって、最大の困難と障害は「自然的条件」であった。一方、円仁の場合はふたりのような「旅」ではなく、人間社会の生き地獄の扉を開けてしまったのである。三途の川を渡ったら閻魔大王が待ち構えていた。地獄の窯の蓋を開けてしまったというわけだ。いわゆる中国仏教史上有名な三武一宗の法難の中で最大の唐武宗の廃仏・弾圧事件に遭遇してしまったのである。 
事件に遭遇した円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば、弾圧は会昌五年以前から始まっていて、宮中では会昌二年(842)に宰相李徳裕が僧院の管理を提言、私度僧・年少僧の追放令が出される。会昌三年(843)の長安では寺院からの僧尼の外出禁止令、城内での還俗などが行なわれた。円仁ら外国僧も外出制限を受けている。弾圧は会昌五年(845)四月から八月まで行われ、七月には武宗によって「毀仏寺勒僧尼還俗制詔」が下され、寺院四千六百ヶ所余り、招提・蘭若四万ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は二十六万人余、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が十五万人という。円仁は最初からつまずく、留学僧(請益僧)として唐へ渡ったにもかかわらず、滞在許可されず国外退去を求められる。しかし、意志の固い円仁は、規則を無視し密入国することを決意する。円仁は、信用できるごく少数の人々を除き、自分の計画を極秘にし、表向きは遣唐使一行とともに帰国する風を装う。日記には、信用できる人物のひとりに楚州の新羅人通訳の劉慎言という人物登場する。円仁が不法滞在した長安での暮らしを支えたのは、在唐新羅人コミュニティーの人々であった。
 この成功の謎は、密入国と帰国の際の日記で解ける。楚州の新羅人通訳の劉慎言は(新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガル)、彼の仲間の新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国するのだが、円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を謝礼として贈っている。要するに行きも帰りも沙金なのだ。「地獄の沙汰も沙金次第」、「阿弥陀の光も沙金次第」と慈覚大師円仁が呟いたか?どうかはわからないが。

【第1図】奧武蔵修験霊場マップ寺院

奧武蔵霊場:根の権現・高山不動尊への道

【第2図】天正年間の古地図の軍荼利村

天正年間の古地図の軍荼利村

【第3図】「金剛寺」銘の寺院分布図(東海道・中山道エリア)

「金剛寺」銘の寺院分布図(東海道・中山道エリア)


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