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『魏志』東夷伝ー高句麗伝ー




『魏志』東夷伝 高句麗伝

「高句麗はこの城を幘溝漊(さくこうろう)と呼ぶ。「溝漊」=「句麗」で、城を意味する」


【原文】『魏志』東夷伝高句麗伝

高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮・濊貊・東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下。方可二千里。戸三萬。多大山深谷、無原澤。随山谷以為居。食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹。其俗節食。好治宮室。於所居之左右立大屋、祭鬼神。又祠靈(れい)星(せい)・社稷(しゃしょく)、其人性凶急、喜寇鈔。其國有王。其官有相加・對盧・沛者・古雛(こちゅ)加(が)・主簿・優台・丞・使者・卑衣・先人、尊卑各有等級。東夷舊語以爲夫餘別種。言語諸事多與夫餘同、其性氣衣服有異。漢時賜鼓吹伎人。常從玄菟郡受朝服衣。高句麗令主其名籍。後稍驕恣、不復詣郡。於東界築小城、置朝服衣・其中、歳時來取之。今胡猶(なお)名此城爲幘溝漊(さくこうろう)、溝漊者(は)句麗名城也。
本有五族。有涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部。本涓奴部為王、稍微弱、今桂婁部代之。其置官、有對盧則不置沛者。有沛者不置對盧。王之宗族、其大加(てが)皆稱古雛(こちゅ)加(が)。
涓奴部本國主。今雖不為王、適統大人、得稱古雛(こちゅ)加(が)。亦得立宗(そう)廟(びょう)、祠靈(れい)星(せい)社稷。
絶奴部丗與王婚。加古雛之號。諸大加(てが)亦自置使者卑衣先人。名皆達於王。如卿大夫之家臣。會同坐起、不得與王家使者卑衣先人同列。 

【訳文】魏志高句麗伝

「高句麗は、遼東の東千里にあり、南は朝鮮・濊貊(わいばく)と、東は沃沮(よくそ)と、北は夫餘と接し、丸都山のふもとに都を置き、広さは二千里四方、戸数は三万。大山と深谷が多く、平原や湿地はない。山の谷に沿って住み、谷水を飲んでいる。良田はなく、耕作につとめてはいるが、口、腹を満たすには足りない。風俗は、食を節約し、屋敷を手入れするのを好む。住居の左右に大屋根を立てて鬼神を祭る。また、靈(れい)星(せい)、社稷(しゃしょく)を祭る( 社は土地の神、「稷」は穀物の神)。人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む。その国には王がいる。官には相加、対盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、卑衣、先人があり、尊卑のそれぞれに等級がある。東夷の昔話では夫餘の別種となし、言語や様々なことで多くが夫余と同じだが、気性や衣服に違いがある。
元は五族。涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部、大元は涓奴部が王であったが、衰退し、いまは桂婁部に代わっている。
漢の時代に、鼓や笛の伎芸人を賜った。常に玄菟(げんと)郡に従い、朝服や衣卑を受け、漢の高句麗令がその名簿をつかさどっていた。後に、次第に勝手気ままになり、二度と郡に来なくなった。玄菟郡の東の境界に小さな城を築き、朝服や衣幘をその中に置いて、四季毎に来たとき、これを取り出す。今も、高句麗はこの城を幘溝漊(さくこうろう)と呼ぶ。「溝漊」=「句麗」で、城を意味する。その置く官に對盧(たいろ)があれば沛者を置かないし、沛者があれば對盧を置かない。王の一族でその大加(てが)はみな古雛(こちゅ)加(が)と称する。(高句麗とは「高氏の城」からきている)
涓奴部は高句麗の大元であった。しかし、今は王を立てないが伝統的に古雛加の称号を得る。そして、再び宗廟を立て、霊星、社稷を社に祀っている。
絶奴部は、代々、王と婚姻するので、古雛加の号を加えられる。大加たちはまた自ら使者、卑衣、先人を置く。その名はみな王に届けられて、中国の卿、大夫の家臣のようなものである。集会の時の立ち居振る舞いは、王家の使者、卑衣、先人と同じ扱いにはされない。」

消奈部考

一 宗廟を持つ消奈部

 消奈(しょうな)部、 涓奴(その)部または沸流(ふつる)部ともいう。西部、右部または白部とも呼ばれていた。高句麗では最も古い部である。消奈(しょうな)部は祖先を祀る宗廟を設ける。東明聖王(朱蒙)の配下になり、以降、高句麗の王権は桂婁(ける)部が担うことになる。しかし、消奈部のアイデンティティは際立つ。桂婁(ける)部とは比べるまでもなく己は格別だとの思いがあったのだろう。『亦得立宗(そう)廟(びょう)、祠靈(れい)星(せい)・社稷(しゃしょく)』と記述されているように、消奈(しょうな)部は王権を手放した後も、宗廟を再建、霊星(れいせい)、社稷(しゃしょく)の祭を復活させ、権力中枢から遠くのポジションで後宮などの文官として高句麗滅亡まで続いている。(若干、漢、魏、唐との関係が歴史に刻まれている。消奈部は反乱を起こし敗走して3万の民が漢の公孫氏に投降、沸流(ふつりゅう)川(*)に亡命した。)
(*)179年、内乱で消奈部も乱に加わり惨敗、このとき消奈部民3万が高句麗を逃れ漢の公孫氏に投降、沸流川〈渾江(こんこう)〉流域に移住した。高句麗王家消奈部と因縁のある地域である。238年、魏と孫権氏とで「遼隧の戦い」勃発、魏は4万余の兵で公孫淵を征伐。このとき、沸流川に定住していた消奈部民たちが魏に助勢したのではないだろうか。高句麗滅亡後の消奈部王族と部民の日本への移動が結果としてスムーズであったことの要因とも考えられる。

二 消奈(しょうな)部亡命の成功

 五部の中でも際立つ消奈部のアイデンティティは、部族全体の亡命の成功に結び付いている。
高句麗滅亡とともに王を輩出していた桂婁部王族は、順奴部王族と共に滅亡。他方、消奈部と絶奴部と灌奴部が日本への亡命を果たしている。特に消奈部は、桂婁部王権と距離を置きつつ、沸流川(渾江)流域との交流も絶やさず、情報収集に努めていたことも幸いしたであろう。地政学的には、消奈部と絶奴部は北と南からの挟み撃ち状態を回避、灌奴部は高句麗南部、いずれも退避可能である。そしてこの部王族と民は、亡命後、日本列島の大改革に貢献することになる。『続日本記』にその足跡をみることができる。文字検索結果は左記。高句麗王族の桂婁部王族と順奴部が記述無しで、王族滅亡を暗示している。
   表1 「高句麗五部王族の活躍」(『続日本紀』上での登場頻度 )

表1 「高句麗五部王族の活躍」(『続日本紀』上での登場頻度 )

『続日本紀』巻廿三天平宝字五年(七六一)三月庚子十五庚子。
百済人余民善女等四人賜姓百済公。韓遠智等四人中山連。王国嶋等五人楊津連。甘良(から)東人等三人清篠連。刀利甲斐麻呂(とりりかいまろ)等七人丘上連。戸浄道等四人松井連。憶頼子老等■一人石野連。竹志麻呂等四人坂原連。生河内等二人清湍連。面得敬等四人春野連。高牛養等八人浄野造。卓杲智等二人御池造。延尓豊成等四人長沼造。伊志麻呂福地造。陽麻呂高代造。烏那龍神水雄造。科野(しなの)友麻呂等二人清田造。斯(し)■国足二人清海造。佐魯牛養等三人小川造。王宝受等四人楊津造。荅他伊奈麻呂等五人中野造。調阿気麻呂等廿人豊田造。

高麗人達沙仁徳等二人朝日連。上部王虫麻呂豊原連。前部高文信福当連。前部白公等六人御坂連。後部王安成等二人高里連。後部高呉野大井連。上部王弥夜大理等十人豊原造。前部選理等三人柿井造。上部君足等二人雄坂造。前部安人御坂造。

新羅人新良木舍姓県麻呂等七人清住造。須布呂比満麻呂等十三人狩高造。

漢人伯徳広足等六人雲梯連。伯徳諸足等二人雲梯造。
 
従五位下大学助消奈王行文。二首

三 中国文化圏と消奈部の活躍

 消奈部は、「霊星、社稷」を祀ると記述。祭殿に祀られる神々として、農耕神の霊星、穀物神の社稷。これらの神々の祭礼の様子は、どう見ても古代中国式である。高句麗は既に古代中国の文化圏に入っていたものと考えられる。高句麗の五部の中でも取分け消奈部は後漢、魏、唐の礼制に精通していたものと考えていいだろう。消奈部の中でも明経博士消奈行文は、教育者及び外交官僚として目覚ましい活躍をする。亡命第三世代の消奈福信の東宮及び春宮武官としての活躍も消奈部の得意分野。消奈部は代々、中国の文化圏に属し、祭典・式典、後宮・東宮をサポートする為の必要なものは全て揃っていた。当然のように福信は東宮武官を中心に太子と女帝に何代も仕え天寿を全うしている。特筆すべし。消奈部は、古代の女帝と東宮( 春宮)経営と対唐外交に長期にわたり官僚として重責を果たし続けた。

・従五位下大学助消奈王行文。二首。年六十二
この二首は漢詩集『懐風藻』に収録されたもので、六朝後期の斉・梁・陳の詩の文化を完全に体現し大陸の流儀を身に付けた消奈部王族、その中でも消奈王行文公は格別で外交上の貢献は大きいものがあった。

五言。秋日於長王宅宴新羅客。一首(長屋王宅、新羅客饗応)
嘉賓韻小雅、設席嘉大同。 
大切な客人を敬い歌を詠む 席を設けて大同を嘉す
鑑流開筆海、桂登談叢。
流れを鑑て筆海を開き 桂を攀ぢて談叢に登る 話は尽きない
盃酒皆有月、歌声共逐風。
皆の酒杯に月が浮び、 皆の歌声も ともに風にながれゆく
何事専対士、幸用李陵弓。
何事ぞ 専対の士 幸しく李陵が弓を用ゐるは

五言。上巳禊飲。應詔。一首(三月三日の曲水宴。勅命に応じて)
皇慈被万国、 帝道沾群生。
帝の慈愛 世界にあふれ 仁徳の政は民をうるおす。
竹葉禊庭満、 桃花曲浦軽。
竹葉 禊庭に満ち 桃花の曲がりくねった海岸の足取り軽い
雲浮天裏麗、 樹茂苑中栄。
雲 浮かんで天裏麗しく 樹 茂つて苑中栄ゆ
自顧試庸短、 何能継叡情。
   自ら顧みて庸短を試む 何んぞ能く叡情を継がん

・ 消奈福信 宝亀4年( 773)「楊梅宮」造営
平城宮の東部一帯で、光仁天皇の宮と言われる楊梅宮の柱跡の発見があり、その南に楊梅宮南池( 東院庭園)も確定している。現在東院庭園は、左の写真のように復元されている。2017年での発掘調査では楊梅園台所跡も見つかった。一連の調査で、苑池からなる園林の全体像が明らかになっている。この施設の造営卿は消奈福信である。施設は唐の長安城風であり、また、それ以前の南北朝期からの中国園林の伝統が反映されている( 奈良文化財研究所)。唐の長安城以前の様式をも熟知し東風様式に明るいテクノクラートは消奈部王族以外には考えられない。
造宮卿として消奈福信が息子の石麻呂とともに工事を専任。東院の「楊梅宮」への改造は宝亀年間(770~780)におこなわれ、773年(宝亀4年2月27日)に完成。

復元された楊梅宮南池( 東院庭園)

四 福信の改名嘆願の件

 王族の部名については、「絶奴・灌奴部」はどのようなものか?「表1」に示すように、この二部は部名ではなく俗名を採用している。「絶奴・灌奴部」と「消奈部」の異なる対応は、独自の宗廟の有無に起因していると考えられる。また 消奈・絶奴・灌奴部の「高麗」姓名からの相次ぐ改名の件は、三部ともに、「高麗」姓には違和感しか無く、自身のルーツとアイデンティティーを取り戻す作業であったといえる。さらに消奈部王族は、宝亀10年(779年)高倉への改名を願い出て許される。魏志東夷伝に「今胡猶名此城爲幘溝、溝者、句麗名城也」とあり、「句麗」は城を意味する言葉であるから、福信は、「高麗福信」ではなく、「城」の意味を込めて発音が近い「倉」を当てることを考え改名を願い出た。結果、「高倉福信」となる。これも独自の宗廟の有無に起因している。 

五 五部王族の運命と子供だましの「若光伝説」

 消奈・絶奴・灌奴部の王族の日本への避難成功とは対照的に、順奴部と桂婁部の王族は亡んだものと考えていいだろう。特に王権筆頭の桂婁部のダメージはあまりにも大きい。高句麗滅亡後に句麗を再興したのは大氏であり、大句麗とするところを渤海となったことでも、桂婁部は亡んだと断定していい。それが高句麗滅亡を意味する。出生没年不詳の若光渡来問題であるが、魏志東夷書高句麗伝は、消奈部の生命力を暗示している一方、桂婁部若光の命脈の細さを暗示している。桂婁部若光が日本に居たら、渤海は若光と何らかの直接的な外交関係を持つはずだが、大きな役割を果たし続けたのは消奈部王族である。さらに、八色の官位の姓(かばね)に関しても「高麗王若光」に都合が悪い。「王(コニキシ)」の王姓は渡来人に特別に用意されたもので八色の官位外にあり納税の義務がない客人である。また、『続日本紀』にある「二位玄武若光」の「玄武」は後方(北)の神で五部の中の絶奴部を指す。「二位玄武若光」は「後部王若光」ということになり、渡来人のシンボルとしては寂しい限りである。いずれにしても出生没年不詳では作為的と見られる。「桂婁部若光」は無視していいだろう。「若光伝説」は子供だましの絵空事、全くの作り話である。

六 消奈部王族の宗廟はいずこ?

 桂婁部若光が消滅したことで最後に残された問題は、亡命した消奈部王族の宗廟問題である。
消奈部王族として、宗廟再興はその自負故に確実に行われたはずである。高句麗滅亡によって、その始祖である消奈部宗廟と祭祀は一層重要性を増したものと思われる。消奈行文、福信の略歴には「武蔵国」出身、福信は行文の甥。消奈部民の定住先は武蔵国と見て間違いない。宗廟も武蔵国、宗廟施設の名称は、高麗や高句麗ではなくて、ルーツに直結する「倉」の文字は欠かせないので「高倉」名となるはず。「高倉」名は京都をはじめ日本列島に広く見られる。武蔵国には国分寺市をはじめ高倉の地名や社殿名は多い。平城京もまた彼らには宗廟幻想だったかもしれない。
さらに、東国(中部・関東)で起きた霊亀元年(715)の超巨大地震によって、政治経済システムは大変革を余儀なくされた。震災の翌年には、武蔵国に「高麗郡」を設置し難民を移送すると同時に、東国の冨民を陸奥へ移住させた。時代の画期となすもので、消奈部王族の宗廟の問題に深く関連する自然と政治経済システムの基礎的要因となった。
いずれにしても、若光と高麗神社が消滅した現在、消奈部王族の「高倉」宗廟の解明と顕彰は容易になっている。
(2022年2月30日 遊古疑考倶楽部調査委員会)

あ と が き 

 従来、全く無視されていた『続日本紀』西暦714年~715年の中部・東海巨大地震の記述と『魏志東夷伝高句麗伝』を取り上げたことで、古代の「列島大改造」と消奈部王族の不可分の関係があきらかになった。この視点と発見は、従来歴史学で未解明の謎を解く鍵となっている。次にその例をいくつか徒然なるままに取り上げてみる。とりとめもない話。

(1)平城京設計図のなぞ

 金子裕之氏の論文『平城京における長安城の影響』(2004年、奈良文化財研究所)に対する木原克司氏のコメントが左記。国交断絶の中、ドタバタの末、8世紀初期に突如として現れた平城京の精神的・物質的条件についての大きな謎を提起している。現在でも歴史学上、諸説あるが、みな決め手を欠く状態である。金子裕之氏の論文では、702年渡唐した粟田真人が704年に帰還し情報をもたらした、としている。設計図と技術習得を完了するには2年間では大いに疑問、肝心なことは、渡唐の目的が別なのだから、そんな暇はない。
「金子氏が北闕形と指摘される長安城は、当時の天文思想にのっ とり都城の中央寄りに宮城を配置するものであり、 日本の平城京もまさにこの形態を採用している。中国でも北闕形は唐代以降の都城の基本形態として踏襲されるが、日本も同様であり以後の難波・長岡・平安京へと継承される(中略)。天智朝から天武朝にかけての7世紀後半から末の時代は、朝鮮半島における百済・高句麗の滅亡などを契機として東アジア世界の国際関係が緊迫した時期である。遣唐使も天智8年(669)の 河内鯨以降大宝元年(701)の粟田真人まで中断され、唐からの情報は入手不可能であった。」
 668年に高句麗は滅亡。高句麗五部のひとつ消奈部王族集団もわが国に亡命した。この渡来は、国内外に問題山積のヤマト政権にとってタイムリーであった。消奈部王族は高句麗の元祖で代々宗廟を設け靈星、社稷を祀ってきた。唐風の『礼制』と『周礼』に習熟したエクスパート集団だった。藤原不比等がこのチャンスを見逃すはずがない。701年に大宝律令、これに続く長安城を模した平城京遷都(710年)という国家大事業の準備期間としては、十分過ぎるほど充分であった。今回はじめて、古代王朝における中国方式への「改新」での消奈部王族の重要な役割を取り上げた。今後の展開を期待したい。

(2)漢字ルーツ「城(き)」、「柵(き)」、「椋(くら)」、「倉(くら)」

 高句麗からの移民の影響は、日本列島全体に及ぶ。小学館発行の「日本の歴史三」(2008年発行)『律令国家と万葉びと』に詳しい。高句麗との関連では、東北地方で見つかる「城」、「柵」と呼ばれる施設である。「城柵官衙(じょうさくかんが)」という施設が注目される。創られたのは「西暦700年±50年」で、高句麗滅亡と消奈部王族の亡命時期に重なる。 
魏志東夷伝高句麗伝では、「今胡猶名此城爲幘溝漊(さくこうろう)、溝者、句麗名城也」(今なお、高句麗は、この城を幘溝漊と呼ぶ。句麗は城を意味する言葉)。「幘溝漊」は「柵で囲まれた城」の意味か。別に「椋」の字であるが、こちらは漢字の本国中国に無い。最近の調査研究で、高句麗で創られたものとわかってきた。高句麗由来の「椋」もまた、「倉」と同義語として用いられ、高句麗の「幘溝漊」が元になっている。

・秩父牧と「椋宮(くらのみや)」
 承平3年(933)の勅旨牧に、秩父郡石田牧と児玉郡阿久原牧の記録がある。阿久原牧(現神川町)には顕彰碑が立てられているが、秩父郡石田牧の方には碑は無い。次頁の写真に示すように、秩父に「椋神社」が5社、皆野・吉田・上蒔田・中蒔田・野巻にある。これらの椋神社に囲まれている場所は、尾田蒔丘陵地帯である。ここは約50万年前の荒川が形成した高位段丘地帯である。水も豊富で放牧には最適な土地である。
 明治維新以降、神仏が毀損し改変させられてしまったが、それ以前は「椋宮(くらのみや)」または「倉宮」で牧場の守護神であると説明されている。

 秩父市の椋神社分布図

ついでに「椋(くら)」関連で、不思議な符号が「小椋」(おぐら)である。滋賀県大津市の「小椋神社」は明治維新後の改ざんで対象外、こういうことが多過ぎで困る。
 「小椋」違いで、京都に「小倉大明神」が祀られている。場所は大山崎町の天王山の麓、小倉山山麓。歴史年表 創建、変遷の詳細は不明とある(社伝では創建は718年)。(社稷(しゃしょく)を祭る。社は土地の神、「稷」は穀物の神。平安京遷都に際し、御所の南西、坤の裏鬼門除けとして朝廷、皇族に崇敬された。850年以後は小倉大明神(神宮社)になる。)
 「小倉大明神」の祭礼は、唐風の礼制に沿った高句麗消奈部王族のやり方に似る。一方、高句麗消奈部王族出の消奈福信の足跡では、天平勝宝8年(776年)に山作司、山背守とある。唐の長安城様式の都の造営・遷都に目まぐるしい。消奈福信と消奈部出身者が、彼らの宗廟・社稷施設を建立しても不思議ではない。
 特殊な「椋」、「小椋」、「小倉」の名称の付く神社または神宮社は、極めて限られた場所に分布しているが、その創建時期は、高句麗人の亡命後の8世紀と重なる。
 意外な事に、関東で「小倉神社」が鎮座している。神奈川県の川崎市、相模原市の二ヶ所。これは、戦国末の小田原北条氏の治政と関連し、寄進し顕彰したために残ったとものと推定。戦国末には鉄砲が主力兵器になり、「狼煙」や火器・弾薬製造に注力した。小田原城落城後も、硝煙は秩父・奧武蔵・多摩地方で作られ続け、祭礼などの打ち上げ花火に使われてきた。特に秩父吉田町の龍勢祭りは有名で「椋神社」のロケット打ち上げに進化した。

(3)さらに「倉」、「椋」について

 「倉」をなぜ「くら」と呼ぶかは諸説あるが、字源では口を除いた部分は食の省略形、口は倉の象形だとし、倉は「食の略体+囲い」と暗示している。次に「椋」も「くら」と呼ぶ場合がある。最近の研究で、この字は漢字本国の中国には存在せず古代の高句麗国の発案であることが判明。結局、消奈部王族が「高麗」を俗名と嫌い、「高倉」への改名を申し出た理由は、「幘溝漊」(さくこうろう)という高句麗の国名の字源が関係していた。

「椋」の字の解体。「京」は象形文字で、上部は「高」の字の上部と同じで楼閣のような姿を指す、下部は小高い土台をあらわしたものと説明されている。口の象形もあるから、「京」は水害など起きない小高い土地の集落が囲まれている様を表していると説明できる。高句麗が、これに「木」を加えて「椋」を創った。木造で囲まれたカラッとした集落を「椋」と呼び、「椋」、「倉」は同義語となった。八世紀前後の陸奥の「城柵官衙」の施設につながる。

(4)木地師のルーツ

 『日本姓氏語源辞典』によれば、「小椋」の氏名の上位4県は、福島・岐阜・岡山・愛知の順になっている。中でも福島県会津地方が際立つ。福島県南会津郡下郷町の小椋家が注目される。小椋家は江戸中期から昭和初期まで木地職を営んでいた。住居は県の有形文化財に指定されている。維新前まで、天皇家と同じ菊の紋を使っていた。

「主屋は正面隅に馬屋を突出させたL字型平面の曲り屋で,大工は地元の渡部宇吉と伝える。 太い欅柱など良質の材料を用い,建物全体の立ちが高く,内部も天井を高くするなど,近代の民家の特性をみせる」。

現在、木地師文化発祥の地とされているのは滋賀県東近江市。近江国小椋庄(滋賀県愛知郡東小椋村)があった場所である。市の観光案内の説明は、

「文徳天皇の第一皇子惟喬親王が近江国小椋ノ庄に居をかまえていた元安3年(859年)頃、この轆轤による木地製作の技法を開発し、当時、家臣であった小椋大臣実秀と大蔵大臣惟仲にこの技法を伝授して轆轤製品の製作にあたらせたのが木地師・木地屋の始まりと言われています」

 しかし、これにはかなり無理がある。明治政府の全国的な歴史改竄のひとつと見なしていいだろう。実は、漆器は古代中国の漢代に既に見られ、唐代では彩色も始まっていた。当然、高句麗の消奈部に伝わり、漆器技術も木地師も大陸伝来であると考えるのが自然であろう。ということで、漆器および木地師の発祥時期は、惟高親王伝承の九世紀ではなく、福信の山城守と山作司の時期、8世紀と考えられる。藤原不比等にはじまり藤原氏が、渡来の高句麗消奈部王族とそのエクスパート集団を利用した時期と考えられる。惟高親王伝承には無理がある。、秦氏や新羅系氏族の関連でも説明ができない。

 京都大山崎町の「小倉大明神」は、高倉福信が関係し消奈部王族の宗廟・社稷施設と推定した。この時、高句麗からの渡来人たちはその先進的な技を発揮できる絶好の機会に巡り合った。唐に倣った国家改造、引き続く中部・東海巨大震災と復興事業に尽力し、全て成し遂げた。そして、激動の時代が過ぎ、林業、木工・建築、土木・造園、など、ニュービジネスに転進していったものと考えられる。木地師もそのひとつであった。

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