創作相談『自分が苦手なタイプのキャラを魅力的に描くのが難しい』
マシュマロで創作についての質問を受けたので、エラソーな感じで語ってみるよ!
質問
回答
質問ありがとう!
……うん!
それは、無理なんじゃないかな!?
質問を、ハンターハンターの念能力に翻訳してみるとですね!
こんな感じのこと、言ってない!?
念能力を100%極められるのは、得意系統だけだから!
不得意系統は、40%までしか伸ばせないから!
だから質問者さんは、自分の得意な操作系をがんばって、ほかに考えるなら隣接してる放出系とかであって、苦手なタイプの変化系をがんばらなくてもよくない?
自分の特性を無視してやっても、ヒソカさんにはこう言われちゃうよ!
……はい。
ハンターハンターを知らない人には、まったくわけのわからんことを言ってすみませんでした。
なにが言いたいかというと!
自分が苦手なタイプのキャラについて、平均点くらいまで引き上げる方法は、あると思うんですよね。
魅力はありません。
あくまで「読んでいて、違和感がないレベル」です。50~60点くらい?
でも「魅力的なレベル」……80点以上くらい? までは、無理じゃないかなと。
自分が得意なタイプのキャラについてもむずかしいのに、苦手なタイプでそんなの書けない。
すくなくとも、僕レベルでは無理!
だから、もしも僕が書くキャラが、バラエティ豊かに見えるのであれば……それは「苦手なタイプ」ではなくて、「好きや得意なタイプ」についての、解像度のちがいじゃないでしょうか。
以下、質問者さんがどのくらいのレベルの壁にぶつかっているのかわからないので、わけわからん話するかもしれません。
的外れになってたらスマン。
話半分に聞いてください。
解像度の話
そもそも『キャラが魅力的』って、どういうことなんだろう? という話なんですが。
いろんな考え方があるのですが、小説に関しては、「キャラに関しての解像度が高い」というのが、大きなところかなと思ったりします。
たとえば、質問者さんでいうと、
↑ を読んだとき、僕は、たしかに魅力は出ないだろうなあ…と思いました。
というのは、「きゃぴきゃぴ系の女の子」っていう表現自体が、解像度の荒い捉え方だからです。(責めてるんじゃないので誤解しないでね!)
「きゃぴきゃぴ系の女の子」……イメージの方向性はわかるんですが、漠然としてるんですよね。
その中にはきっと、好きなもの、嫌いもの、家庭環境、夢、こだわり……ほんとは一人一人ぜんぜん違った、無数の人間が含まれている。それは質問者さんも、わかっていると思います。
でも質問者さんにはいま、その違いが見えてはいない。
見えていたら、こうしたフワッとしたワードって、たぶん出てこないと思うので。
苦手なタイプのキャラ/人物を見るときの、解像度が荒いんです。
それはたしかに、魅力は出ないだろう、と。
重ねて言うのは、それが悪いっていいたいんじゃなくてですね!
それって、自然なことなんですよね。
自分と近しい人(物理的・心理的・立場的……いろんなものを含んだ上での「近しい」です)に対しては、解像度が高くなる。そうでない人に対しては、低くなる。
それがふつうです。
人間、すべての人に対して解像度高くみようとしてたら、脳がパンクしてしまいますから。
僕もおなじで、自分が苦手なタイプとか、ほとんど接点のない人に対する解像度なんてそんなもんです。
だから苦手なタイプのキャラを、魅力的に描くとかできません。
もちろん、必要があって作中に登場させる場合は、あまり違和感がないレベルまで解像度を上げる努力はします。(資料を読みこんで自分なりに想像することが多いかな)
でもそうやってがんばっても、平均点スレスレのキャラが1人出てくるくらいでしょう。
ただ、得意なタイプに対しては違います。
ほかの人が、「○○系の男の子/女の子」みたいな解像度の荒い捉え方をしている中に、一人一人ぜんぜん違った、たくさんのキャラが含まれてるのが見えるというか。
それを掘り下げて書いていくと、それらが1人1人違うように立ち上がって、バラエティ豊かに見える……ということなんじゃないかなあ。
だから、
ストーリー全体が味気ない原因が、ほんとうに、「自分が好きなタイプの子だけを書いているから」なのかな? というのは、ちょっと疑問です。
むしろ、「自分が好きなタイプの子を書くときの解像度が、足りてないから」だったりしない? とか思いました。
好きなタイプの「○○系の男の子/女の子」の中に、どれくらいの人物が見えているかなと。
特に、「なにをしたいのか?」とか「なにをいやだと思ってるのか?」とかに関する踏みこみが甘いと、「キャラは魅力的なんだけど、仲間内でだべっているだけ」みたいになりがちで、それを打開しようと、タイプのちがう苦手なキャラを出して事件を起こそうとして……みたいな方に行ってしまうのは、習作あるあるかなとも思ったりします(小説講座にいたときにちょろちょろ見た)。
もしも質問者さんがそうしたところで悩んでいるなら、打開方法は苦手なキャラを出すことではなくて、まずは「自分が好きなタイプのキャラを見るときに、キャラを構成する動機やモチベーションを中心に、もっと掘り下げてみてはどうだろう」と思ったりしました。
その上で、どうしても苦手なタイプのキャラが必要ならば、そのときはまたその方向に考えてみればいいんじゃないかな、とか。
劇団の話
話はちょっと変わるのだけど、質問者さんの相談を読んで、昔、こんな話を聞いたことがあるのを思いだしました。
『作家は自分の中に、何人か俳優を抱えているものだ。
いろんな作品を書いているように見えても、演じているのは、そのおなじ俳優たち。
おなじ俳優に、ちがう役柄を演じさせているだけなのである。』
……みたいな話。(どこで聞いたんだったかは忘れた)
自分の頭のなかで起こっていることを、1つの劇団として捉えるのは、僕はけっこう好きで。
この捉え方をしてみると、質問者さんの悩みはこうなのかなぁ。
みたいな。
でも、こういう考え方もあるでしょうか。
前者は、「脚本」が主で、「俳優」が従。
「脚本」のために「俳優」を修正しようとしている。
後者は、「俳優」が主で、「脚本」が従。
「俳優」のために「脚本」を修正しようとしている。
自分なら、どちらが正しいと思いますか?
(正解はないとわかった上で、どちらを選択しますか?)
頭の中だけで考えていると、この優先順位をつけられずに、どうしていいかわからなくなりがち。
無限の俳優と夢の脚本があるように思えちゃうんですよね。
人は目に見えていないものに対して、理想を追いかけすぎちゃうんですよ。(これは小説だけじゃなく、エンジニアとしての体感でもありますが…)
それで、高い理想に対してぜんぜんうまくできない……ってつらくなっちゃったりする。
でも仮に、いま目の前に、俳優が数人いたとして、脚本家もいたとして。
自分が監督だったときに、どういう指示を出しますか?
……みたいなことを、思考実験として考えてみるのも、おもしろいかもしれません。
僕はいちおうプロの立場上、そういうことを考えたりします。お客さんがお金を払ってまで来てくれるのは、何を見たくてなんだろう? という。
なので、もしも質問者さんが、自分のお抱えの俳優が、苦手なキャラの演技をどれだけ練習させても魅力的に演じられない……と悩んでいるようなら。
俳優の魅力を主で魅せたいなら、そんな役どころの出番はカット/変形してしまって、俳優の魅力を見せる方向に脚本を修正する。
脚本の魅力を主で魅せたいなら、俳優に「ヘタと思われないレベルの演技」まで頑張ってもらって、あくまでストーリー構成で魅せる。
そうした、割り切りをしてみるのもいいかも?
迷ったときは、「自分が一番やりたいこと」が一番映えるように考える。
そういう視点がちょっとあると、悩みの無限ループには陥りにくいかもしれん……などと思ったりしました。
なんかくどくど書きすぎた気がしますが、なにを一番言いたかったかというと、ハンターハンターは面白い、ということです。
質問ありがとうございました。