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人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか(Futurist note第4回)


イントロダクション

こんにちは、VARIETASのFuturistのRentaです! VARIETASは、構造的な問題によって発生するひとりひとりを取り巻く摩擦(=フリクション)がゼロな社会(=Friction0)を実現することを目指すスタートアップ企業です。Futuristとは、目指すべき未来像を示す未来学者です。

初回のnoteで告知した通り、Futuristは「実現したい未来像」として「自由」を掲げています。そして、自由が実現される社会制度として「平等フィット」がどんなものなのか、このnoteで考察していきます。
ちなみに、平等フィットとは個性学の権威であるトッド・ローズ教授が提唱したものです。具体的には、

“「平等なフィット」のもとでは、誰もがその個性に応じた最高の機会を受け取ることができる。(太字は原文ママ)1)”

とされています。しかし、平等フィットは現代社会では実装されていません。そのためにFutrist noteで考察していきます。
具体的には以下のスケジュールで進めています。

  • 2023年10月 人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される

  • 11月 自由な人間はどのように社会を構成するか

  • 12月人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか

  • 2024年1月 人間の本質は自由であるのに、社会的抑圧が起きてしまうのはなぜか

  • 2月 「何の平等」が平等フィットに大事なのか

  • 3月 就活への提言1(就活共通テストについて)

  • 4月 就活への提言2

  • 5月 Futuristの視点でダークホースを読み直す

Futuristとは何者なのか、どうしてこのようなスケジュールで連載するのかは、初回のnoteで詳しく書いておりますので、こちらもぜひお読みください!

上記のスケジュールにある通り、今回は「人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか」という問いを以下のアメリカの政治学者であるアイリス・ヤングのjustice and politics of difference (正義と差異の政治)を参考に考えていきます。

アイリス・ヤングのバックグラウンド

政治学者としてのアイリス・ヤングの専門分野は正義論であり、彼女の正義論に基づいて現代社会を見ることで問題点が明らかになっていきます。
アイリス・ヤングは自らの正義論を分配主義パラダイムへの批判を通して位置づけました。

分配主義パラダイムとは、アメリカの政治学者であるジョン・ロールズの『正義論』に影響を受けて、財産だけではない様々なもの(機会や自己肯定感、権力など)を財産と同じく政府が再分配しようという潮流のことを指します。

アイリス・ヤングが指摘した分配主義パラダイムの問題点は2つあります。
1つ目は分配だけを正義の争点とすると、何をどれだけ分配すべきかということに議論が終始してしまって、分配などの決定を行うプロセスに不正義がないか見る視点が失われてしまう、ということを批判しています。
2つ目は、非物質的なものは分配できないので別の方法が必要だというです。財産であれば数値化して課税や補助金などを通して再分配を行うことが可能です。しかし、機会や権利、社会的地位などは分割できるものではないので、分配することは困難です。

さらに言えば、この分配主義の正義論に対しての2つの批判に共通していることは、「人間は何かを享受する存在である」という捉え方しか出来ていないということです。
言い換えれば、権利や機会、財産を政府から平等に配分されれば人間は満足するだろうという前提が隠れているということです。
確かに人間は物質的に豊かになったら何もしなくなるかというと、他人との繋がりや承認を求めたり、自己実現に向かって努力したりと、様々なことを行います。アイリス・ヤングはこの人間の多様な側面を捉えて、人間が作る社会においては財産の分配の公平さだけではなく、様々な価値が実現されるべきだとして複数の具体例を挙げています。以下にその例を示します。2)

  • 社会的に承認される環境において、充足的で拡張的なスキルを身に付けて使用すること

  • 社会制度や団体の設立や運営に関わること、またそれが社会的な承認を得ること

  • 他者とコミュニケーションを取ること、特に社会的生活における自身の経験や考え、視点を共有できること

このような多様な価値を実現するために、下記の2点においてgood lifeを送るための制度が整っていることを正義だとアイリス・ヤングは考えました。

  • 個々人の能力を発揮したり養成することと、自らの経験を表現すること

  • 個々人の活動や物事を行う際の条件の決定に参加できること

抑圧と支配-個人を縛るもの-

さて、このnoteのテーマは「本来自由であるはずの人間を縛っているものは何か?」ということでした。
これに応えるために、アイリス・ヤングは抑圧と支配という概念を提示します。

抑圧と支配は前節で紹介したアイリス・ヤングにとっての正義を妨げるものです。すなわち、

  • 個々人の能力を発揮したり養成することと、自らの経験を表現すること

  • 個々人の活動や物事を行う際の条件の決定に参加できること

の実現を妨げるものが、人間を縛る不正義だとアイリス・ヤングは論じます。

つまり、「抑圧」は、個々人が自分自身を表現し、自己実現する機会を制限する社会的なプロセスを指します。これは法的な制限だけでなく、文化的な制限も含みます。例えば、特定の性別や人種、階級のステレオタイプが、人々が自分自身をどのように見るか、何を学び、どのように行動するかを制限することがあります。また、社会的な期待や規範が、人々が自分の感情や経験をどのように表現するかを制限することもあります。

一方、「支配」は、人々が自分の行動やその条件を自分で決定する機会を奪う社会的な条件を指します。これは、政策決定のプロセスにおいて一部の人々が他の人々の選択を制限することを含みます。例えば、企業の経営陣が労働者の労働条件を決定する場合、労働者は自分の労働環境を自分で決定する機会を奪われることがあります。3)
ここからは抑圧と支配それぞれの細かい内容を見ていきます。

抑圧について

アイリス・ヤングは抑圧には5つの側面があると主張します。

  • 搾取

  • 周辺化

  • 無力化

  • 文化的帝国主義

  • 暴力

搾取
アイリス・ヤングは搾取を一部の人々が他人のために自分の能力を使わざるを得ない状況にあることだとしています。そしてその原因を生産手段の私有化と市場経済により、一部の人々の権力が他の人々に移転し、その結果、一部の人々の権力が増大することに見出しています。

搾取のプロセスを具体的に見ると、まず資本家は労働者を雇用して商品を売ることで利益を得ます。これは労働者の持っている力が資本家に移転するだけでなく、労働者自身の力そのものが減少することを意味します。
つまり、搾取という概念は、一部の社会集団が他の集団の利益のために労働の結果を移転する過程を通じて抑圧が発生するという事実を表しているとアイリス・ヤングは主張しました。4)

ここで注意したいのは、アイリス・ヤングが資本主義の廃止を望んでいるかというと、必ずしもそうではないということです。アイリス・ヤングの主眼はあくまでも、

  • 個々人の能力を発揮したり養成することと、自らの経験を表現すること

  • 個々人の活動や物事を行う際の条件の決定に参加できること

の2つであり、その実現に繋がるならばどの経済体制でも構わないと考えています。

周辺化
周辺化された人々とは、労働市場に参加できない人々のことを指します。アイリス・ヤングが挙げる例はアメリカにおける黒人やインディアンなどです。しかし、周辺化された人々には人種的なグループだけではなく高齢者や失業者や精神的・身体的に障害のある人々などが含まれています。5)
周辺化された人々に起こる問題として、まずは物質的な貧困が挙げられます。というのも、周辺化された人々は労働市場への参入が困難なので、収入が少ないことが考えられるからです。

しかし、給付金や生活保護などによって周辺化に対応できるかというとそうではないようです。

というのも周辺化には物質的窮乏だけではなく、「労働市場に参加できている他の人達と比べて、周辺化された人間だ」という他者からの印象を伴うからです。これによって、労働市場に参加するためのスキル開発を行う機会が提供されなかったり、そのための教育機関へのアクセスが制限されたりすることで、自尊心の喪失に繋がります。6)

無力化
無力化とは、職業や政策の専門化が進んだ結果、そのような知識や地位を持たない人々が組織内の指令や命令を行う権利を持つことが出来ない状況を指します。知識や地位を持っていない人々は命令や指令に関われるようになるためにスキル開発や学習の機会が必要です。しかし知の専門化が既に進んでいるので、専門化には簡単には追いつけません。また、既に専門的なポジションにいる人達はスキル開発や知識の発展を行い続けます。その結果、無力化された人々は、ほとんど仕事の自律性を持たず、仕事でほとんど創造性や判断力を発揮せず、技術的な専門知識が必要とされる領域において意思決定権を持つことが難しくなります。7)

無力化の例は以下のようなものが考えられます。
労働者:労働者は、自分の労働条件や労働時間を決定する権力が制限されています。これは、労働者が自分の労働条件を決定する権利を奪われ、結果として無力化される状況を指します。
マイノリティグループ:特定のマイノリティグループは、自分たちの文化やアイデンティティを保護し、発展させる機会が制限されることがあります。これは、彼らが自分の文化やアイデンティティを自由に表現し、発展させる権利が制限される状況を指します。
前出の周辺化と似ていますが、周辺化はそもそも労働市場や組織に参入できていないことに付随する問題であるのに対して、無力化は労働市場や組織に入ってからの問題を指摘しています。

ここまではどちらかというと、経済に関わる問題を見てきました。次に、文化的なものも見ていきましょう。

文化的帝国主義
アイリス・ヤングによれば、文化帝国主義とは以下のようなことを指します。

文化帝国主義は、支配的なグループの経験と文化の普遍化、そしてその規範としての確立を含んでいます。8)
この説明の前提に、社会には様々なグループもしくは集団が存在していることがあります。アイリス・ヤングにとっては、グループとはその人のアイデンティティに基づいて形成されるものです。例として、人種・職業・性別が挙げられます。

そして、どんな社会にもその社会をイメージ付ける支配的なグループや集団が存在するものです。例えば、アイリス・ヤングがいたアメリカは多様な人種の人々が住んでいる国ですが、アメリカ社会で中心的なのは白人(の特に男性)だと考えることが出来ます。文化帝国主義とはアメリカ人=白人とみなし、社会の規範や常識がそれによって規定されることを指します。これが、白人男性という特定のグループの視点や文化が、社会全体に普遍化されているという意味です。

これによって何が起こるかというと、支配的なグループ以外の視点や文化がないがしろにされてしまいます。というのも、特定のグループの文化や視点(例えば白人男性のそれ)が社会の普遍的な規範だとされているために、論争や対立どころか他のグループからの意見が存在しないものと想定されてしまうからです。よしんば意見として認知されたとしても、普遍から外れた”逸脱”として見られてしまう可能性すらあります。9)

暴力
ここで言われている暴力は身体的な暴力に留まらず、ハラスメントなどの非暴力的なものも含まれます。

注目すべきは、暴力は単に相手が特定のグループのメンバーであるという理由だけで、行われることがあり得るということです。10)
この暴力の性質は文化帝国主義との関連を示唆されています。非支配的なグループは自身が受けている文化帝国主義に抵抗するために、何らかの暴力を行使する可能性があります。逆に、中心的なグループのメンバーが非中心的なグループのメンバーが劣っていると見なして、身体的・精神的な暴力を行使することもあり得ます。11)

支配について

次に支配について取り上げます。支配とは何だったかというと、人々が自分の行動やその行動の条件を決定を阻害する制度的条件のことを指します。他の人々やグループが、自分の行動の条件を相互作用なしに決定できる場合、人々は支配の構造の中で生活している、と言うことが出来ます。

アイリス・ヤングは抑圧のように支配に様々な側面があると述べてはいませんが、福祉資本主義社会の例を挙げて、支配がどのように働くか紹介しています。
福祉資本主義社会とは何かというと、資本主義社会ではあるのですが弱肉強食というわけではなく、政府による福祉が充実している社会のことです。北欧国家などがイメージに近いと思います。

“福祉資本主義社会は、政策討議を分配問題に制限することで、市民を主に(政治的主体ではなく)クライアントや消費者として定義します。労働階級に対する低賃金と緊縮を基盤として機能した早期の資本主義とは異なり、福祉国家資本主義は経済を成長させるために高い消費水準を必要とします。企業の広告、大衆文化、メディア、政府の政策は協力して、人々に自分自身を主に消費者として考えるように促し、彼らを欲しい商品に集中させ、政府のパフォーマンスを商品やサービスの提供の良さによって評価するようにします。このようなクライアント消費者志向の市民権は、市民を私有化し、大衆のコントロールや参加の目標を困難にしたり、意味のないものにしたりします。12)”

まずアイリス・ヤングは、福祉資本主義社会においては政策のイシューが財産の分配に制限されると述べます。この時点で、アイリス・ヤングの考える正義と福祉資本主義社会には相いれない側面があると分かります。
というのも上述したように、アイリス・ヤングは社会で実現されるべき価値は財産の公平な分配以外にもたくさんあり、そのために制度を作っていくべきだと述べていたからです。

もちろん物質的窮乏から逃れられることは良いことではあるのですが、問題は市民が政府のこのような方針に物申すことが難しい、ということです。というのも、ここでは政府-市民の関係が生産者-消費者の関係のアナロジーで語られているからです。

消費者は生産者の商品やサービスを買うことが出来ますし、その売り物を評価することもできます。その反面、生産者が何を出品するかを消費者が口出しすることは出来ません。 市民が税金を払い政府が行政サービスを提供しているので、政府-市民の関係も同じように考えられそうですが、市民が行政サービスの内容に口出し出来る点に大きな違いがあります。
というのも個人(生産者や消費者)の行動は本人が決めることですが、11月のnoteで見たように社会を作っているのは個人の集合だからです。11月のnoteでは政府だけではなく共同体などより広い意味での社会の構成を論じていますが、対象が政府でも同じことが言えます。

ここからアイリス・ヤングの視点に戻ると、元々市民が自ら関わっていくべき政府が財産の分配問題のみに政策のイシューが偏っているのはおかしい、ということです。
アイリス・ヤングは福祉資本主義社会のこのようなプロセスを非政治化と呼んでいます。そもそも政治とは市民が関わるものだからです。アイリス・ヤングは支配の例として福祉資本主義社会を取り上げていますが、これは社会のあらゆるところで起こっていることだと考えることが出来ます。
というのも、人間が社会を構成している時点で社会のあらゆる物事は潜在的に政治的なものである、と考えることが出来るからです。
それが官僚制や共同体の掟などによって、前提が問われなくなった時その問題は非政治的なものになったと考えることが出来ます。

抑圧と支配の平等フィットとの関係

ここまで抑圧と支配について、アイリス・ヤングのjustice and politics of differenceの内容に沿って紹介してきました。ここからはjustice and politics of differenceで述べられた抑圧と支配がFuturist noteの目的である平等フィットとどのような関係があるのか探っていきます。

平等フィットとは機会均等に代わる新しい社会制度です。そして、justice and politics of differenceが現状の社会を批判したものなので、justice and politics of differenceで議論されている内容は機会均等の批判に使うことで平等フィットに繋げることが出来ます。

とはいえ、justice and politics of differenceの内容は経済格差や差別などの社会問題に寄っています。そこで、そのエッセンスを保ちつつ平等フィットのポイントである「万人の個性に応じた最高の機会の提供」に沿うように言い換えて、機会均等の問題点の指摘を行います。

  • 抑圧:個人の個性を表現したり活かしたりする場が用意されていないこと

    • 搾取:個々人の個性や能力が、本人の意志や好みと異なる場にあてがわれていること

    • 周辺化:個性を生かして活躍する場へのアクセスが制限されていること

    • 無力化:活躍の場を手に入れても個性の活かし方が分からなかったり裁量の問題で活かしきれないこと

    • 文化帝国主義:一様の能力や個性のみが評価され、それ以外は評価されなかったり受け入れてもらえないこと

    • 暴力:上記を通じて、個々人が個性を活かす気持ちを失うこと

  • 支配:抑圧がなくなるような場を作るための意思決定権が個々人に与えられていないこと

語感と内容が第一印象ではかなり違っている言い換えもあると思うので、大学受験や就活の例を取ってそれぞれ説明します。大学受験や就活の例を取り上げる理由としては一般に何が起きているかイメージしやすく、広く機会が与えられているため機会均等の好例だからです。

まずは搾取です。ここでは、労働者が資本家に不当に働かされているという側面ではなく、個々人が持っている力が自分のために使えていない状態に注目しています。というのも、アイリス・ヤングが言っていた搾取は労働者の持っているエネルギーや力が労働過程を通して資本家側に移ってしまう面も強調しているからです。平等フィットの文脈で言えば、自分の個性を最大限活かせる環境に入れず、個々人が持っているエネルギーが無駄遣いされている状態を指しています。例えば、ある受験生が数学が得意であるにもかかわらず、親や教師からの期待により文系の大学に進学するよう強制される場合です。この受験生の個性や能力が、本人の意志や好みと異なる場にあてがわれています。

アイリス・ヤングの議論では周辺化は労働市場のアクセスにフォーカスが当てられていました。これを個性を活かす場へのアクセスへと拡張しています。これは必ずしも労働市場ではなくても良いものです。もし専業主ふがその人の個性に合っておりその人がそれを積極的に享受しているならば、その選択も認められるべきです。このようなことが出来ていない状態を周辺化と呼びたいと思います。

無力化においても、職や知識の専門化による上下関係が主眼に置かれていました。これは大きく見れば、自分の意志を通したり個性を活かしたりするために必要な土壌が欠けていることだと考えることが出来ます。就活生が自分の得意な分野で仕事を見つけたにもかかわらず、上司からの指示や組織形態により自分の能力を十分に発揮できない場合です。この就活生は活躍の場を手に入れても、個性の活かし方が分からなかったり、裁量の問題で活かしきれません。もちろん、仕事はある程度組織のやり方やルールを守らなければいけないのは確かですが、各々のやり方を研ぎ澄ました方が長い目で見て生産性が上がる可能性も考えられます。

文化帝国主義においては、人種を主な焦点にされていました。これ自体はアイリス・ヤングが認めていることなのですが、様々な社会問題に当てはめることが出来ます。例えば、近年公開されて話題になった実写版リトルマーメイドは、「白人=ディズニー映画の主役」というイメージを打ち崩したものだと考えることが出来ます。つまり、平等フィットの文脈で言えば「文系=コミュニケーション能力」、「理系=プログラミング」のような一様なイメージが持たれ、一部の企業が、特定の学歴やスキルセットを持つ人々だけを評価し、それ以外の人々は評価されなかったり、受け入れてもらえない場合が文化帝国主義となります。

※ただし実写版リトルマーメイドは、当然ですが主人公のアリエル役にただ黒人俳優を指名したという映画ではありません。細かな設定や俳優の演技、または吹き替え声優の演技などを楽しむことが出来るポイントがたくさんある映画です。また、「黒人俳優がディズニー映画主演に」という側面だけに注目するのも、その俳優個人を見ていなくてどうなのかなと思います。

アイリス・ヤングが身体的な暴力を念頭に置いていましたが、こちらの文脈では暴力は精神的なエネルギーが奪われることと捉えています。例えば、文化帝国主義によって特定の進路をめざしてしまうような状況が続くことで、個々の受験生や就活生が自分の個性を活かす気持ちを失う可能性があります。これは、自己否定や自己効力感の低下といった形で表れることがあります。

今まで述べたようなことが起こらないように制度を設計することが大事なのですが、そこに当事者である学生などが意思決定に関われない状態が支配だと言うことが出来ます。

ここまで見ると、平等フィットの視点から機会均等の本質的な問題が何なのか見えてきます。
それは、個々人が機会を作ることが出来るわけではない、ということです。確かに、就活や受験という場では、機会を提供するのは学校や企業です。学校や企業も組織なので独特のプロセスや考えがあります。だから、そこに挑戦する1人1人の個性や事情まで汲むのはまず難しいのです。

なお、便宜上受験生や就活生を例に出しましたがもっと若い人々や既に社会経験がある方にも今述べたことは当てはまるはずです。

ここで、機会を椅子だと捉えてみましょう。機会均等は椅子の数が限られており全員が座れるわけではない椅子取りゲームとなります。しかも、椅子を用意するのはプレーヤーではありません。
ここで椅子に座れない人が出てきますし(周辺化)、座った椅子と自分の体格が違いすぎてかえって疲れる人も出てきます(搾取)。体格が合っていたとしても、自分の癖が出てしまって椅子では落ち着いてられない人もいるかもしれません(無力化)。そして、椅子に座れなかった人を馬鹿にする人もいればうまく座れない人を評価しない人もいるでしょう(文化的帝国主義)。こんな雰囲気の悪い椅子取りゲームには参加したくなくなるかもしれません(暴力)。かといって、ゲームマスターにお願いしてルールや椅子のオーダーメイドをお願いすることもできません(支配)。
機会均等の問題点を劇画化するとこのようになると思います。

まとめ

アイリス・ヤングのjustice and politics of differenceの抑圧と支配という概念を紹介し、機会均等の問題点を指摘してきました。

  • 抑圧:個々人の能力を発揮したり養成することと、自らの経験を表現するが妨げられている

  • 支配:個々人の活動や物事を行う際の条件の決定に参加できないこと

をそれぞれ指しており、抑圧の5つの側面に沿って言えば、搾取が起きると個々人は自分の個性と相いれない環境に行くことになりエネルギーが奪われます。周辺化はそもそも個性を活かすことが出来る環境へのアクセスが制限されていることを指し、無力化はよしんばそのような環境に入れたとしても裁量や組織形態、本人の経験の問題で個性が活かしきれないことを指します。

ここまでは、個性に合った環境があるかどうか、入って活かせるかどうかということが主眼に置かれていると言えます。翻って文化的帝国主義では機会にありつけなかったり活かしきれなかったりした人はあまり評価されない、ということが起こります。そして個性を発揮する気力を失うことが暴力だ、見なすことが出来ます。

このような問題をなくすには制度の改変が必要なのですが、中々それが出来ないのが支配という状態です。これを劇画的にしたものが、椅子取りゲームの比喩です。

となると、平等フィットはそもそも自分で椅子を作れますよ!というところが出発点となります。justice and politics of differenceでは抑圧と支配がなくなった社会の状態について論じているパートもありますので、次月以降のnoteで平等フィット論でも再登場すると思います。

その前に、来月に解かなければならない問題があります。それは10月や11月のnoteで見たように、人間の本質は自由で社会を作ることが出来るのに、なぜ今回見たような抑圧や支配が生まれてしまうのか?ということです。
来月はこれまでのような社会レベルの視点から心理学などのミクロな視点も組み合わせてこの問題を考察します。
最後までお読みいただきありがとうございました!

出典
1)トッド・ローズ、オギー・オーガス. Dark Horse(ダークホース) 「好きなことだけで生きる人」が成功する時代. 三笠書房. 2021. p.284
2)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.37
3)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.40
4)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.49
5)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.53
6)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.54
7)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.57
8)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.59
9)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.60
10)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.61-62
11)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.65
12)Iris, Marion, Young, Justice and Politics of Difference, Prinston University Press, 2011. p.72


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