それは失恋に似て

 昨夜、といっても今日の未明だ。眠たくて目がかすむ中、滞っていた記事の執筆が一段落したところでタイムラインを眺めると、私の大好きなクリエイターの意味深なタイトルの記事が目に入った。
 来たか。と、思った。

 noteをやめる。この内容は想定内だった。むしろ、私がのぞんでいたことでもあった。
 おかしな話だが、私は彼女の文章を読むのが大好きだったにも関わらず、彼女にnoteをやめてほしいと思っていたのだ。

 この気持ちをうまく表現することはできない。道に咲いた花に自然に笑みが溢れるように、赤ん坊を抱いた母がそっと子の頭を撫でる仕草のように、そこに詰められた感情を表現する術を私は持たない。いや、誰も持ち得てはならない。それは語られるためのうつくしさではないのだ。表現され得るうつくしさではないのだ。
 そういう気持ちを内に秘めて、私はただ彼女の文章を読んでいた。読み続けていた。


 記事を読み終えると、自然と涙が頬を伝っていた。
 私はその涙の理由が分からなかった。寂しさを感じたのは事実だ。でも悲しくはない。喜びを感じたのは事実だ。でも嬉しくはない。胸が締め付けられ、呼吸は浅くなり、暴れたくなる衝動を抑えると、そこに残ったのは――いや、何も残らなかったのだ。心が空っぽになったのだ。

 すっかり眠気は覚め、今度は涙でかすむ目で文章を書いた。読まれることのないかもしれない、いや読まれない方が良いかもしれないメッセージを書いた。心の穴は空いたままで。
 書き終える頃には朝日がさしていた。


 1週間ほど前に、ある記事に彼女からコメントをもらった。それは明らかに不自然だった。どう考えてもそれは別れの言葉だった。その時に、私はこの瞬間をはっきりと意識していた。
 これこそが彼女の誠実さなのだ。私の好きな彼女の誠実さなのだ。何も言わずに消えてしまえるSNSで、別れの言葉を残していくのだ。
 無尽蔵と思えるほど膨大な文章を紡いでいた彼女が、たったひと言残していったのだ。それだけで十分に、烏滸がましいことだが、私達はわかりあえた気がしたのだ。


 彼女の記事を初めて読んだのは2021年9月7日のことだ。その内容に感銘を受けて、翌日に記事を書いたことを覚えている。そして、その記事に彼女がスキをつけてくれたことも覚えている。
 私が今もnoteを続けている理由の一つとなっている。

 約半年で、どれくらいの言葉を交わしたろうか。いや、実際に交わした言葉はそう多くない。むしろ、私が一方的に彼女の文章を通して受け取っているばかりだった。
 何かを返したいなどとは思っていない。この文章も、今までのやり取りも、全て私が私自身を喜ばせるために行っていたことだ。ただ偶然、そのベクトルが一致していたに過ぎない。それは、ささいなことで二度と会えない方向へとすすんでいく。そういったものでしかない。
 
 これは、恋に似ている。
 自分の望むべきことが相手と一致しているという関係性。どこまでも自分本位で構わない。だが、それはやがてずれていく、失われていく。
 自分の思うようにいかないそれは、怒りや悲しみ、喪失感を覚えさせるのだろう。失恋に似ているのだろう。

 あぁ、だが待ってほしい。これは、今のこの状態は、私がのぞんでいたことに他ならない。心の底から欲していたことに他ならない。
 だったらこれは、失恋ではないのではないか。失恋に似て、非なるものではないか。
 この胸の痛みもあふれる涙も湧き上がる感情も、名前を与えて、その理由を押し付けて理解した気になってよいものなんかじゃない!
 その一つ一つを噛み締めて行くことこそが、私に残された――彼女が残していった誠実さではないか! いや、より正確に言おう。これは、彼女の誠実さとは違う。彼女の誠実さを受け取った私の誠実さだ。誠実にあろうとする心だ! 空っぽになった心を満たすものだ!

 

 種を受け取った。涙は胸の内へ流そう。

 うつくしい花を咲かせるために。


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