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本懐は遂げられたか『クズの本懐』

『クズの本懐』という漫画原作のアニメを観ました。

好きなアーティストの曲がテーマソングになっていて、それがきっかけで知ったのだけど、なかなか見る機会がなく、でも内容が気になっていた作品。

視聴した時期と感想を書ききった時期が違うので、細かいところは間違ってるかもしれないけど。


はじめに

割りと感想文ってサラサラ書ける方なんですよね。作品に触れていく中でテーマが何にあるかを当たりをつけてそれに沿って読み取っていくから、感想文書くときはその材料を拾ってきて繋げていくだけなので。でも、これ……ぐちゃぐちゃ過ぎて大変でした。登場人物一人一人を理解しようとしたらとんでもなく疲れる、だってほぼ全員クズなんだもん。

そりゃまあ、タイトルにもある通りクズもテーマの一つなわけですけど、ここまでクズにしなくてもいいんじゃないかってくらい。

私としては大変珍しいことなんですが、自分から他の人の感想やレビューなんかを読んでみたいと思った作品でした。で、幾人かのを読ませて頂いたところ、結構意見がバラバラなんですよね。その原因はおそらくクズの種類を分けて考えていないからではないか、だと思っています。

そういうわけなので、まずはクズとは何かを定義してから各登場人物のクズについて考えていきます。

なお、クズって言葉をたくさん使いますが、基本的には貶す意味では使っていません。長くなってしまいましたが、要約した感想自体は最後の『まとめ』とその少し上の文章だけ読めば事足ります。

クズの本懐とは一体なんだったのでしょう。


登場人物おさらい

花火:メイン主人公の少女
麦:サブ主人公の少年

左が麦、右が花火


お兄ちゃん:花火の好きな相手
茜(先生):麦とお兄ちゃんが好きな相手


左が茜、右がお兄ちゃん


えっちゃん(早苗):花火の友達

えっちゃん


モカ:麦のことを一途に好きな少女

モカ


TAKUYA:茜の恋人の一人、花火に迫る人
メイ:麦の中学時代の恋人?
       (この二名は画像なし)

篤也:えっちゃんのいとこ、えっちゃんが好き(個人的に最重要キャラ)

左がえっちゃん、右が篤也



クズの種類

大きく分けて2種類あります。

①振る舞い・言動それ自体がクズ

想像しやすいのがこちらです。
・相手が嫌なことをする
・寝盗るetc(相手の意思を揺らがせるとかも)
・弱みにつけこむ
・偶像にする

基本的には相手のことを考えずに自分が得するような結果を得るための言動のことを指します。

②言動の元となる動機がクズ

行動の動機が利己的である場合や他者のことを全く考慮していない場合のうち、そのこと自体を自覚している場合を指します。

・相手を不快にさせてやろう
・こうすれば相手は言いなりになるだろう
・自分が正しいから権利があるといった思考

言葉では説明しづらい部分ではあります。無自覚の場合はクズであるかの判定は難しいです。


さて、クズについて考えました。これを人物ごとに整理していきますが、ここで対義語を用意します。クズに対して、クズじゃないことをここではピュアと表現して話を進めていきましょう。

簡単に言葉だけでまとめると、
クズな動機、ピュアな動機、クズな振る舞い、ピュアな振る舞い。という4項目が出来ます。

そして、振る舞いというのは動機があってから発生するものなので、場合分けをするとこんな感じです。

クズな動機→クズな振る舞い
クズな動機→ピュアな振る舞い
ピュアな動機→クズな振る舞い
ピュアな動機→ピュアな振る舞い

それでは見ていきましょう。


登場人物各論

紹介順に意味はありません。

花火

主人公。よくも悪くもピュアとクズを行ったり来たりしていました。

基本的にはピュアな動機によるクズな振る舞いをしています。

お兄ちゃんへの好意や、その好意を達成するべくしてきたクズな振る舞いの数々は、ピュアな動機が元であり、「心だけは譲らない」という麦との偶像契約を結ぶのも含めて可愛らしいもんです。

作中で何度も言及があった、「肉体による刺激が精神にある程度影響を及ぼす」というのは理解できるし、茜先生とお兄ちゃんのことや茜先生と麦との関係とかを見て、色々と思うところがあるのは理解できるし、でもね、ちょっと意思がゆらぎすぎたかな。

お兄ちゃんが好きというピュアな動機から、やがて傷ついている自分を慰めるための何か(麦、えっちゃん、TAKUYA)を求めてしまっていて、それを自覚しているからこそクズな動機に変わってしまっていったんだよね。えっちゃんを利用していることに罪悪感を感じつつも利用することを止められないのとか、クズな動機かつクズな振る舞いの典型ですよね。

だって、別荘シーンでえっちゃんに対して「友達に戻りたい」とか言ってのけるくらいですからね。えっちゃんと声揃えて「ふざけんな」って言ってしまいましたね。

で、TAKUYAとの関わり方は、ちょっと申し訳ないけど気持ち悪かったです。全方位(茜、麦、お兄ちゃん、TAKUYA、えっちゃん)に対してクズすぎる。ある種の自傷行為や実験行為と見ることは出来ますが、いややっぱこの嫌悪感は払拭できないな。

クズだと思っている茜への復讐をするために(クズな動機)、TAKUYAを利用する(TAKUYAへのクズな振る舞い)つもりだったけど、そこにはお兄ちゃんを相手(麦やTAKUYA)に重ねるという(ピュアな動機が故に生じていた)意思は欠落していて、契約までした麦や、友達という関係性を悪用したえっちゃんに対しても示しの付かないクズな振る舞いなんです。そしてTAKUYAを利用するのをやめたのも茜にはダメージが入らないと気づいたから、という理由。

(そういえば、TAKUYAとスマホでメッセージのやりとりしているシーンだったかな? バックに花火が上がっていた気がします。花火が散る描写が暗喩なような気がして、最高に気持ち悪かったです(演出としては大成功ということです)。作品を途中で投げ出すことってあまり無いんですけど、この辺で視聴をやめようかと思いました。)

まあ、そんな花火ちゃんも、最終的には名言であるところの「興味のない人から向けられる好意ほど気持ち悪いものはない」という言葉の伏線も回収して、ピュアな気持ちで進めていけるエンディングだったから良かったと思います。

ちゃんと「告白」できたし「片思い」にケリをつけられたし、充分にハッピーエンド。


悲劇のヒロイン系、途中まで何したいかよーわからんキャラ。最終的には自己愛こじらせ系クズという評価。

話が進むことで、その内心が見えてきて理解はするものの、基本的には自分のことしか考えていない他人を利用しちゃう系クズ。

茜がクズなことはわかっていて、そのクズさを含めて、あるいはそのクズさが好きだったのだから、そんなものは一人で抱えて行きていくべきだった。にもかかわらず、花火をそのクズの環に引き込んだ張本人です。

茜のクズさを理解していた上で、花火が麦に向ける好意をも茜との接点に利用しようとしていたのならばクズだし、茜とお兄ちゃんとの関係性を疑った時点で花火に茜のクズさを共有しないのは、(茜を悪く言うのに抵抗があったかもしれないとはいえ)肉体を専有する戦友に対して誠実さに欠けるとも思います。

「告白」した時に、茜の誘惑に抗えなかったのはわからんでもないが、その後の行動とか、メイを呼び出してみるとか、その辺も含めてクズな動機かつクズな振る舞いのオンパレード。


抱えているもの的にどうにもならないから可哀そうには思うけどね。それにクズな要素のそのほとんどは自分自身が弱っちいことが原因だから、強くなれたらクズではなくなるかもしれないという期待は持てるのが麦。

がんばれ少年。たった一人、何も残っていない君だからこそ、これから得るものは誰よりも多いのかもしれない。


ぶっちぎりで視聴者からクズ扱いされている可哀そうな人。人によっては一番のクズキャラに映る彼女ですが、私はそうは思いません。あ、クズじゃないわけではないです。

茜のやっていたのはクズな振る舞いで間違いないです。でも、誰か別の女性に好かれている男性(別の女性によって価値を認められている男性)の意識を自分に向かせること(その価値のある男性が自分を選ぶという事実に価値を感じること)でしか、自分のアイデンティティを確立できないという、悲しい性分なだけなんです。さらに茜は、男性を落とす魅力もそれの使い方も心得ていて、そして合理的なんです。目的達成のための最高効率な手段をとっているに過ぎません。それが寝取りです。いえ、より正確に言えばそれしか手段は知らなかったと思われます、だからお兄ちゃん相手にそれが通用しなくて焦るわけですね。

しかし、それは現代における倫理観では嫌悪されることでしょう。身体を使ってどうこうするというのは、嫌悪される傾向にありますよね。だからちょっと、倫理観の違う世界を想像してみます。

例えば、意中の人に手料理を振る舞うのが最高の愛情表現の世界であったら茜は料理のプロでしょうし、相手に生歌を披露することが最高の愛情表現の世界であったなら茜はプロの歌手レベルになったことでしょう。ただ、披露する相手(寝盗り対象)が多いのでやはりその世界でも嫌われてしまうでしょうね。

つまり茜の動機のそのほとんどはアイデンティティの確立にあるので、これ自体はピュアに分類すべきことなんです。そのプロセスとして、誰か別の女性を傷つけてしまうのは仕方ないことなんですが、茜のクズなところは、このプロセスをも楽しんでいるところですね。お兄ちゃんの告白を花火にも見えるように仕組んだりといった行為は自覚的なのでクズな動機であるはずです。また、麦の「告白」を、麦の性癖を知っているからこそどっちつかずの状態にして利用していたのはクズな動機でしょう。

程度の差はあれ、自分という存在の価値を証明するものを欲しがるのは、誰しもがみんな持っていて、彼女は少し幼稚で、少し精神疾患的に映るだけ。お兄ちゃんなら、そのありのままの彼女を受け容れられるだろうし、もしかしたら変えることも出来るかもしれない。

お兄ちゃんとの結婚というラストを、クズが幸せになるのなんて許せない、という意見も見かけましたが、逆に言えば、こんなクズにしか見えない人でも幸せになり得るということを提示してくれている気もします。残念ながら、現在進行系で茜のような振る舞いをしている人はこの作品を見ることはないでしょうが、茜に自身を重ねて見た視聴者に対しての作者なりのメッセージともとれます。


モカ

ぱっと見、全身全霊ピュアピュア少女。

でもまあ、予想通りというか、麦のことを好きなのは麦が好きだからではなかったのですよね。恋に恋する乙女といえばいいでしょうか。王子様信仰です。

王子様が現れて結ばれるという、自己にしか本来は向いていない動機(これをピュアとするかクズとするかは意見が割れそうです)が、麦が好きという振る舞いをさせていたわけです。

でも内心としては本来の意味でのピュアなので、麦がしっかり自分のことを向いてくれないと嫌だった。あるいは向いてくれると信じたかった。
(花火と麦の関係性に疑いをもって、麦が利用されていると宣ったのもこういう思いがあると思います。)
でも、現実はそれだけでは上手くいかなくて、ついに思い出つくり(けじめと見ることも出来ますが。)というクズな動機による麦とのデートをしてしまいます。ベッドシーンの途中で、自分のクズさ(自分の内心への裏切り)に気づき思いとどまるところは、なかなかに見どころでした。

麦への想いは「片思い」といえるようなものではなく、故に「告白」という儀式も本来は必要なかったモカには、あのデートシーンは絶対必要だったわけですね。

“「私(モカ)が観たいって言った映画がつまらなかったら、悪いなって思って」
「モカは悪くないだろ。つまらないのはその映画が悪いんだ」”

麦、クズのくせにいい事言う。

そう、麦もモカも悪くないんです。その“映画”が悪いだけで、“新しい映画”を(自分ではない誰かと)観に行けばいいと麦は言ったのです。
(観ていたのが人魚姫モチーフっぽいのも意味深でよい演出でした。)
にも関わらず、モカがデート終わりに縋ってきたのを振り払うことなど当然できないクズな麦くんなのでした。そしてベッドシーンへ繋がるわけですからね、麦のクズっぷりが極まっています。

自分の気持ちに気づいたモカは、麦との”映画”のフィルムを捨て去って、文化祭でのファッションショーに登場します。純白のウェディングドレスを身にまとい、自信に溢れた表情のモカ。
モん句なしにカっこよかったです。


えっちゃん

出ました。本作におけるキングオブクズの称号は(私の中では)彼女です。

なんというか、どこがどうクズかをしっかりと書けないです。ある意味でえっちゃんは、作品で一番苦しい立場にいました。それはわかるんですが。


えっちゃんは花火と麦の関係をみて、花火が麦を利用しているということに気づきます。そして、どうせなら自分を利用してくれと考えます。この最初から負けているからこその破れかぶれ感が強いのもそうですし、そこまで分かっていても自分の欲求を優先し、なおかつ友達であるがゆえに花火が断りにくいことも分かっている状況を利用するのもクズです。しかも、自分は友達という感覚は(おそらく)薄いにも関わらずです。

花火のえっちゃんに対する認識とえっちゃんの花火に対する認識には差があります。それをあやふやにしたまま迫るというのは、ピュアではないかな。まあでも最終的に吹っ切れたようで良かった。

割りとこう私自身と重なる部分が多く、やはり上手く書けないのです。というより、作中で一番まともで“普通”だとも言えるんですよね。クズだけど嫌いにはなれないキャラでした。


篤也

この作品の良心かつ、私の(論理的思考部分の)心情の代弁者。

えっちゃんが好き。というピュアな動機で篤也は行動しています。

所構わずえっちゃんに好意を振り撒くとえっちゃんが迷惑だから目を直視しないで済むように、前髪を伸ばしています。かわいい。
二人きりになったら隠さずに好意を向けまくるのもかわいい。

花火との二人の旅行についてきた(クズな振る舞い)のも、えっちゃんがクズのままで在ることを善しとしなかったからだし、旅行に一緒に行くという決断をした花火(のクズな振る舞い)の牽制目的とも言えます。全てはえっちゃんのため。ピュアピュア。

そして篤也の思考は、喫茶店でえっちゃんと会話するシーンでありましたが、その人個人のことを好きになるのは仕方がないことでしょう、というもの。

“早苗(えっちゃん)はさ、相手(花火のこと)が好きなのは女性っていうカテゴリーだからなの?”

そして言外には、
いとこ同士だからって俺のこと見ないのもちがくね?
っていうメッセージでもある。策士である。

(余談ですが、レビューとかでえっちゃんが同性愛者とかの表現があるのですが、男性嫌悪や興味が湧かないのは(痴漢描写などから)観念できるものの、それ以外の要素というのは作品中では触れていません。同性が故に「友達」と「恋人」との関係性の間で悩むという様子は、物語の演出上必須ではありますが、あくまでも「個人」への愛情や「好意」という作品のテーマに影響を与えないためだと私は考えています。えっちゃんはえっちゃんでしかないし、えっちゃんはただ花火が好きだっただけなんです。)

篤也によって気付かされたえっちゃんの花火に対する想い(そして、篤也のえっちゃんに対する想い)というのは、モカの麦を求めていた想い(王子様信仰的なもの)とは違います。むしろ、花火や麦の、それぞれの好きな相手を想う気持ちに近い。というのをこの後半戦でしっかりと(視聴者にも)気づかせてくれるのです。重要なポジションでしょ。

しかも、花火と二人で会話したあとに、えっちゃんと二人で話しやすいように風邪を引いたって嘘までついて自室に引き上げる、なんて出来た子でしょう!(と思っていたら本当に風邪だった、いやでもきっと篤也なら結果的に同じ行動はしていたはず、えっちゃんLOVEな彼なら絶対。)

他の方のレビューなんかでは、勝手についてきて邪魔だとか、ストーカーだとか、居なくてもよかったとか、むしろ全く話題にも上がらないことのほうが多い不憫な彼です。

でもね、とっても重要な要素はまだあるんですよ。

別荘シーンで、篤也の横顔を見た花火は、二人が似ていると感じます。メタ視点で見ると、この部分は視聴者に届ける必要はない情報です。その意味を探ると、
①花火が、えっちゃんが男の子だったら良かったのにと思った
②花火が、えっちゃんが男の子だとしても恋愛的な好きにはならなかったと思った
③花火的には、何の意味もない

はい、③です。①も②もあの流れで花火がそんな風に考えることはないでしょうから、③です。これはつまり、視聴者に対してのメッセージで、その意味する所は、

えっちゃんと篤也は似ているから、えっちゃんも篤也と同じ思考にたどりつける。ということを示唆していたわけです。

実際、別荘回が終わってからはえっちゃんは物語から一時消えます。そして登場した時にある変化がありました。

そう、髪を切っていたのです。これは、花火への想いを断ち切ったという風に素直に見ることは出来ますが、髪型と言動を思い返してみましょう。

“(モブ男子に告白されていた花火の隣に行き)ちょっと、私の花火を困らせないでくれる?”

直視しずらいように前髪を作りややボサボサの髪型で。

まんま篤也ですやん。
篤也のように、カテゴリーによる関係性にとらわれず、ありのままの想いを素直に表現出来ています。最後の最後で、このキングオブクズのえっちゃんがピュアになったことを間接的とはいえちゃんと伝えてくれるのがこの篤也というキャラなのです。

そして、この作品のテーマの「片思い」と「告白すること」についても篤也は答えを提示しています。

作品のうちで、相手に対して常に好き好きオーラ全開にしているのは篤也とモカでした。モカは、最終的には吹っ切れて麦と二度と会うことはないでしょう。ところが篤也はそうもいかない。終わらない「片思い」と戦い続けなくてはいけない。何故なら、敗戦という名の終幕の意味もある「告白」が篤也には出来ないからです。好意を伝えるだけでは「告白」とは言えません。

果たして、篤也は本当にえっちゃんと結ばれたいのか、という疑問もわいてきます。いやまあ、そりゃそうなんでしょうけど、それは手段の一つであってゴールじゃない。きっと篤也はえっちゃんが幸福であって欲しいのでしょう、お兄ちゃん風に言えば「(茜に対して言った)健康であって欲しい」と同じようなものです。だから側にいるし、口出しするし、身を引くべき所はわきまえる。出来た男です。



お兄ちゃん

視聴者からその内心が見えないからこそ、クズにはなり得ず必然的にピュアになっちゃった人。

なんだろう、
「ただ、あなたが健康で存在してくれればいい(他になにもいらない)」というのは、私も持っている感覚ですし、究極の愛に近いと考えています。茜に対して、男遊びが好きならすればいい、好きなことをやめろなんて言わないよ、というのは私もそう思うので、共感できます。男遊びに興じるところまで含めて茜が好きなのです。

しかしだな、そう思うまでの過程が一切視聴者には提示されないんだ。いやまあ、表面上ドクズな茜を救済する存在として描く以上、お兄ちゃんが茜を好きになるシーンというのを挟みにくいのはわかる。けれども!

“「(母親との思い出の桜が舞うシーンがオーバーラップして茜との出会いを)運命だと思った」”

マジか?!

運命。いや確かにそういうのを重んじる価値観は理解できるし尊重もするけど、このリアルなクズさにまみれた物語で、運命というのはあまりにピュア過ぎる。と、思ったのでした。

と、考えると。
少なくとも本作上の表現では、お兄ちゃんが茜を好きになる理由というのは見えておらず、茜個人を好きになったという確証はない。しかし、茜の生い立ちと今までの振る舞いを考えれば、一個人として自分を好いてくれているお兄ちゃんによって茜は自分の感情に気づいたという感じ。悪い言い方をすれば、鳥の刷り込み。ラブラブハッピーエンド、になるのかなあ? というか、花火の好意にも気づいていなかった鈍感お兄ちゃんだから、過去に女性と付き合ったこともないだろうし、お兄ちゃん視点で話が進んだことはないし、ちょっと不気味さはあるかもしれない。「一番(意味不明で)気持ち悪いキャラ」と言っている人がいるのもわからんでもない。

他の方の感想などでは、さんざんクズな振る舞いをしていた茜が幸せになるのは腑に落ちない、などと書いている人もいました。個人的には、何とも言えないかなあ、と思います。何せ、この二人が上手くいくかどうかの判断材料が少なすぎる。だからむしろ、この二人の結婚という流れは、本来の主人公である花火と麦のために誂えられたもので、お兄ちゃんと茜の恋愛事情は深く考えることはないのかな、と思ったりもする。

だって

この物語の主人公は花火と麦で、この二人のクズの本懐の決着をつけてやらないと終われない。

タイトルの『クズ』はこの記事で何度も書いてきた単語としてのクズではなく、花火と麦(と二人の偶像契約)を指したものだと思います。なので二人の「本懐(wish)」を考えます。

花火の本懐は、お兄ちゃんの幸せと自分の恋の向かう先(に決着をつけること)。

麦の本懐は、クズな茜と変わらない自分のクズさ(性癖ともいえるもの)を抱えたまま結ばれること。

花火はお兄ちゃんと付き合って、互いに幸せになるのが理想だった。その過程の恋の在り方まではこだわっていなかった。(だから、お兄ちゃんと茜の結婚という事実が大切で、二人の恋愛事情は花火の心情には影響がないので描かれなくていい。)
物語中盤くらいで花火はこんなことを言います。

“「(一緒にいられて、居心地もいい)
麦のことを好きになれたらいいのに
(こんなに苦しまなくていいのに)」”

麦の部屋で泣きながら。

この言葉は、花火のこの作中での本懐が、自分の幸せだけにあることではない事、あるいは、好きという感情を置き去りにした恋や擬似的な関係性なんて欲していない事と解釈できます。このシーンでラストは絶対に花火と麦がくっつかないというのは予測できましたね。


麦は、自分で求めて手に入れてしまう、というのは上手くいきません(メイのこともそうだし、茜に「告白」して敗戦出来なかったこともそう)。だから、たとえ報われなくても「告白」よりも前の関係でいるべきだったけれど、お兄ちゃんによって茜が変わってしまったため、否応無しにケリがついてしまったのでしょう。


ラスト。花火と麦がくっつくわけが無いのは分かり切っていたけど、裏切られないかハラハラしながらも、ちゃんと別の道をすすんで一安心。麦は「クズだから茜が好きだった」から「好きになった人がクズだった」に思考が変わっていかないとこれから先も苦労しそうだなーと思いました。


以上より、私の解釈では花火は本懐を遂げられましたが、麦は遂げられませんでした。


まとめ

この作品を面白いと感じない人というのは、きっと心が純粋でキレイなんじゃないでしょうか。あるいは、自分の中に抱えたクズを払拭できた人かもしれません。

面白いと感じる方は、登場人物の抱えたクズさに魅力を感じたのだと思います。少しでも共感する部分があると引き込まれやすいように感じます。私は麦とえっちゃんが特にクズだな〜と思って見ていましたが、これは立派な同族嫌悪というやつです。自分のクズっぷりを客観視しながら、共感や同情や反省しながら理解していく。痛い目にあえばいいと思ったり、やめとけと思ったり、救われて欲しいとも思ったり。そういう目線で見ていた気もします。

万人に薦められるものではないですし、ハマる人でも面白いと感じる場所は全然違うでしょう。ですが、人を好きになる気持ちはしょうがない。という真理を描いた、生々しくも美しい恋愛作品だと思いました。


※見出し画像及び記事内の画像はアニメ公式サイトより引用しています。

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