ピサの斜塔は倒れない
ピサの斜塔。イタリアのピサのドゥオモ広場にある傾いた建築物。ちなみに鐘楼である。どうしてこんなものが出来たのか、倒れないのか。そもそも何故傾いているのか。
実はこの傾きは、意図したものではないのだ。
人為的ミスにより、
構造的欠陥により、
人々の願いにより、
そしてそれらが複雑に絡み合い、
その歪さと毅然さを併せ持った面持ちで、
そこに建ち、我々のことを見下ろしている。
ある地質学者は言った。
「こんな不安定な地盤にこんな物を建てるなんて正気の沙汰じゃない」
ある土木工学者は言った。
「この地質にこの構造の建築であるがゆえに、この塔は地震でも倒れることがない。狙って人間が作れたものじゃない」
ある物理学者は言った。
「重さの違うものを高いところから同時に落としても、重いほうが先に落ちるわけじゃない」
この鐘楼は、完成までに199年もかかっている。
建築途中に傾きがあることは確認された。南側に大きく傾いた。だが、何度か中断することはあっても、建築を取りやめることも建て直すこともなかった。傾きを軽減すべく当時の人間が知恵を寄せあい築き上げていったのだ。結果、8階層のこの鐘楼はところどころ歪んでいる。
数百年前の過去に思いを馳せる。建築に携わった者たち、彼らはどんな気持ちでこれを作っていたのだろうか。
「どうしてこうなった?」
「腕の見せ所じゃないか」
「誰の責任だ?」
「俺たちで良いものにするのさ」
「これ、このまま作り続けていいのか?」
「鐘の音が”見えない”なら、そこから降りな」
「倒壊しやしないか?」
「だから安全に作るんだろ」
「こんな不完全なもの作る意味ないだろ?」
「意味なんて後からついてくる」
色んな軋轢や葛藤がそこにはあったのだと思う。それでもこの塔は完成した。最上階から鳴らす鐘の音は人々に希望を与えた。
この塔は、ただそこに在るだけでいい。そういう存在としてあるだけでいい。人々の願いとその想いがあの塔を建たせたのだ。そしてその想いは連綿と受け継がれ、度重なる苦境にも力をあわせ立ち向かった。2001年に大規模な補修工事が完了し、地質学の教授によると300年は倒れることはないとされている。
翻って現代日本。
豊かさの象徴。無機質で効率的な建築物。
背くらべするタワーマンション。
萌芽せし瑕疵が虚飾を剥がし、
醜悪な現実という果実をつける。
枯木の彩りにすら劣るコンクリートジャングル。
ターミナル駅から吐き出される面々の面。
短絡的な成果を求め、
自分の人生すら近視眼的な解釈で消費する。
口の立つものが鼻につく。
マスクのしたでは誰にも気づかれはしないと、
これ以上無い悪態をつく。
頭は垂れても眉間にはシワよせ、
顔色は悪く、視線の先の足取りは重く。
自分の世界に浸るといえば聞こえは良いが、
自他の口から漏れ出る悲鳴から逃げる、
排他的音楽鑑賞。
現代人は疲れ切っている。
今の我々が、あの塔を作り上げた人たちと同じような気持ちで物を生み出すことができるだろうか。長い年月と思いを込めて、人々に感動を与えるものを作れるだろうか。
作れなくていいよ、とか。
作らなくていいよ、とか。
言うのは簡単だし、実際のところその通りなのかもしれない。でもそれは、すごく寂しい。
無理して頑張って背筋を伸ばして、高さと見せかけの完璧さだけが取り柄のような振る舞いはやめようじゃないか。
片側に重心を預けて、少しふらつく位でちょうどいい。揺れて揺れて傾いて、たっていられりゃ十分じゃないか。
そんな具合に傾いて、ぐるっと周りを見てみよう。
首を傾げて、思考を傾げて。
それはたったの約4度。
それだけでも、変わるものがあるんじゃないか?
塔は、見る角度を変えると胸を張っているようにも感じる。その頂上の北側に腰掛けた歴代の職人達が、ワイン片手にお前もこっち来て座れと、屈託のない笑顔で手招きしている気がした。
人々の想いが「重い」になって、この塔はバランスを保っている。だからずっと、倒れないのだ。
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