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私はシチュエーションに恋している / Q.E.D.

恋愛というのは、身近な人もそうでない人も意識したことがないということはない代物だろうと思う。私も例外ではない。というよりもカテゴリとしては恋愛結婚をしているわけだし。

だからといって、いわゆる世間一般の恋愛というものとこれから私が語ろうとしているものとが同じであるわけがなく、誤解を恐れず言うならば、世間一般の恋愛というものの取り扱い範囲の狭さにすこし辟易している自分もいる。


今回は、私のちょっと変わっている?恋愛観について、読んできた漫画やらをもとに、振り返って考えてみようと思う。


「恋愛」
この言葉の配置に疑問を抱いたことがある。恋の後ろに続く「愛」に愛はないと思っているからだ。愛の進んだ先に恋があるほうがより自然だと思う。愛が土台にあると考えたほうがイメージしやすいかもしれない。

愛があってそこに恋が乗っていく。恋が消滅しようとも土台にある愛はそう簡単に消えはしない。

便宜上、「恋愛」という表現は用いる(しかない)が、この意識はとても重要だ。


愛を土台にして恋をしていく。
これについては、あの漫画の話をするのが手っ取り早い。


『最終兵器彼女』。
彼女が戦争の兵器になってしまうというタイトルまんまのストーリーだが、この物語は間違いなく純愛だ。

「僕たちは恋していく。」
この漫画のキャッチコピーで、これが全てを物語っている。

恋しいといういう気持ちのベクトル(→←)が向き合っていて力が釣り合っている感覚、だから僕たちは恋していく(ことが出来る)。
(気持ちのベクトルの表現は貰い物ですが、これ以上ない程合うので使わせて頂きます)

一般的な恋という言葉から連想される自分本位なものでなく、私が「愛」のカタチの一つとして考えている受け容れるばかりのものでなく、互いに向き合ってかつ釣り合っている、恋しいあるいは恋していくという決意。この漫画の全てはこのコピーにあると言ってもいいくらいなのだ。なお、アニメ版の第一話のタイトルにもなっている。そして、最終話でも出てくるこのセリフの意味の強さが違うのは、愛が育まれその土台が盤石になったからだろう。

恋から愛への物語ではなく、愛から恋をしていく。これが私にとってごく自然な恋愛観なのだ。


だって、愛の告白をして受け容れられることで、それは恋になっていくものだろう。でなければ、告白が失敗した片想いには愛が無いことになってしまう。それは、おかしいと私は思うのだ。言葉の定義の問題だと言われればそれまでだが、本質的なものは変わりはしないと考えている。

このことをよく思うのが少女漫画だ。そこで描かれる世界では主要キャラへ告白して、たった一コマで玉砕していくモブキャラが多数出てくる。演出だったり、キャラ設定を分かりやすくするための道具として使われるその告白シーンでも、私はその一人ひとりにそれぞれの愛があるものだと思っている。(個人的にこのモブ描写が丁寧な作品は良作だと思っている)


私の生まれ育った家では、家族の趣味で漫画雑誌が2冊常にあった。
「週刊少年ジャンプ」と「花とゆめ」だ。

小学校低学年の頃からどちらも読んでいた。「ジャンプ」の説明は不要だろう。他方、「花とゆめ」は中高生以上の女性をターゲットにした少女漫画誌で、言うまでもなく連載されている漫画の多くは恋愛ものだった。しかし、ターゲット層が少し高めの雑誌だったために、ありきたりな恋愛漫画ばかりでは雑誌として面白くないというのは、今なら容易く想像できる。

「花とゆめ」に掲載されていた数ある恋愛漫画のうち、いわゆる世間一般の恋愛がテーマになるもののほうが多かったのは事実だろう。とはいえ、ニッチなもの、今で言う多様性のある恋愛模様というのも多数表現されていた様にも思う。

もう一度言うと、私は小学生のころから、つまり男女とか異性とか恋愛とかへの知識も関心も低い時から、各漫画の登場人物たちそれぞれの恋愛(観)について耳を傾けていたわけだ。
(余談だが、週刊誌というものは複数の作者(の価値観)に触れやすいため偏ることが少なく、広い視野を持つのに優れた媒体であると思う)

読んでいた時期の掲載タイトルを見直して恋愛要素のある作品で内容をぼんやりとでも覚えていて好きだったものを列挙してみる。もし知っているものがあれば理解しやすいかもしれない。

ぼくの地球を守って(これは単行本で読んだ)
フルーツバスケット
花ざかりの君たちへ
ディアマイン
★MとNの肖像
Wジュリエット
NGライフ
★となりのメガネ君。
★カラクリオデット

★は単行本も自分で買った作品
(あと、「花とゆめ」での連載はなかったけれど当時CLAMPが好きで単行本を買い漁っていた。ちなみに「魔法少女」とか「人型パソコン」よりも前の作品たち。これについては長くなるのでカット。)

なんということでしょう。どれも、普通の恋愛という感じがしない。上に挙げたもの以外に普通の恋愛を描いた作品はたくさんあったが、記憶には残っていない。逆に言えば、普通の恋愛というものを認識したからこそ、普通じゃないものの記憶が色濃く残っているのかもしれない。


さて、実はわざと惑わす書き方をした。

挙げた作品群の「設定」や「舞台」というのは、確かに普通ではない。動物の呪いを受けた一族の青春とか、転生したら過去の記憶を持っていて愛し合った人が現世では性別が変わっていたとか、性別詐称して学園生活を送るとか、血の繋がらない同い年の姉弟とか、ロボットと人間の触れ合いだとか。

だが、そこに描かれているのは普通の恋愛と呼べるものもあっただろうし、呼べないものあるのだろう(私にはその違いがよく分からないのだが)。しかし、恋愛と呼ばれるものと同じような心の動きは確かにあったと思うし、作者はそれらを恋愛と絡める形で表現していたのだと思う。これらのことを普通の恋愛かそうじゃないかという括りで考えること自体がナンセンスだと私は思う。


中学生の頃、友人にすすめられ(押し付けられ)た小説を読んだ。

泣ける話と評判の年齢制限がかかっているPCゲームのノベライズで、そちらも年齢制限がつく小説だった。まあ、そんなもの気にせず(というか知らされずに)授業中に読破したが。

確かに泣ける話ではあったと記憶している。性的描写も当然あったわけだが、当時の私はよくわかっていなかったように思う。官能小説というジャンルは今も読んだことがないが、おそらくそういったものより表現はマイルドだったのだろう。しかしそれでも私は蛇足だと思った。大人になった今なら、その中の心理描写も読み取れて必要なシーンだったと思えるのかもしれないが、当時の私はそういったことは経験したこともなかったので、嫌悪感はないが不快感に似たものがあったのだと思う。その描写は必要ですか、要らなくないですか、と思ったのだろう。(後に全年齢版とかアニメ化もされているので、まあ無くてもよかったのだろう)

この泣ける話たちは、悲劇を背負ったヒロイン(達)との心の触れ合いから生じるものであり、そこに恋愛要素は無くても成立していたのだと思う。というよりも、少女漫画も少年漫画も読んでいた私からすれば、その悲劇(過去の出来事に囚われているだとか、実は人外でしたとか、余命短いとか)はそんなに目新しいテーマでもないわけで、性的描写やそういった恋愛模様は必要でないことは知っていた。その上で、この小説でそういうものを半ば無理矢理に見ることになり、(創作物の)恋愛にはそういう描写は必要ないという価値観がより一層強くなったのだとも思っている。

(これは主目的と副産物のバランスの話で、性的描写を主目的としたもの、たとえばアダルトビデオだとか年齢制限つきの同人誌だとかを否定しているのではない。仮にその中で本格ミステリ並の表現があっても、それは評価の対象外というか表現する必要性があったのか、という話)


漫画『花ざかりの君たちへ』では、男子校に男性と偽って潜入した女性主人公のことを、本当は女性であると知らずに、男性としてのその主人公を好きになってしまっていることに葛藤している男性キャラが出てくる。同性愛だの何だのの概念が無い当時の私は、好きなものは好きでいいじゃないか、と思っていた。それこそが本当の愛ってやつじゃないのか、とか思っていたのかもしれない。早い話が、主人公が本当に男であっても成り立つ(私は楽しめる)話だと考えていたと思うのだ。

でもきっとこのキャラクターの葛藤は本来は当たり前のことなんだろう。好きだと思って行動していくその先に訪れる(男同士という)現実が、必要じゃないならその点に目を向けなければいい、とかいう問題じゃなく、必然的に本人達(漫画のキャラ)にはのしかかってくるのだから。



こういう風に考えていくうちに、(これはもしかしたら幼稚で夢見がちで自分勝手なものでしかないのかもしれないが)私はこの、禁断の恋――同性愛、不倫、近親者、先生と生徒、身分の差、敵国の王子/姫、異種族など、アナタが思い浮かべる普通でない恋のそのいずれも――とかいう表現をされるようなものを、望んだり成立させたいと思ったり、実際に行動に移すかどうかという、この時点での心の揺れ動きが垣間見えるシチュエーションが好きなのだと思う。フィクションでもそうだし、ノンフィクションでもそうだ(これはなんだか危険な響きだ)。

結末まではいらない、それは哀しいものにもなり得るし、ハッピーエンドになればそれでいいというものでもない。だから、その過程が無限に続いていく状態が好ましく感じるのだ。これを恋愛によるトキメキと表現せずになんと呼ぶのだろう。禁断の恋にもトキメキを感じるのを否定されないのであれば、ありとあらゆるものに恋愛的なトキメキを感じることは充分にあり得ることではなかろうか。

箱の中に希望があるのか絶望があるのか、猫が生きているのかいないのか、それは蓋を開けなければ分からない。なら、分からないままでいい。そのままにしてしまえ。その可能性の中で微睡んでいようじゃないか。

循環小数を、同じ数字が無限に続くのを分かっていながらそれでも書き続けるような、円周率の計算をいつか答えが出るかもと期待して無限に解き続けるような。そんな、「数字の上」や「=の上下」に点を打つだけで断ち切れてしまうものを、記号を割り振ってそういうもの、、、、、、として置くことを、それを「しない/出来ない/したくない」ままずっと悩んで計算していくような、そういうシチュエーションに私は恋しているのかもしれない。

今まで書いてきたn=1の愛を土台にして。



ラブソングなら歌詞の最後の「愛してる」を伝えるために何小節も費やす。恋愛小説ならラストシーンの「愛してる」に込められた思いを伝えるために何万文字も費やす。恋愛漫画なら最後のコマの感動を際立たせるために何千コマも費やす。


私のこれは、たった一言で済んでしまうものを証明しただけのもの。足跡一つない秘密の海岸を眺めて叙景詩を詠んだ者を詠った、まわりくどい叙情詩に過ぎない。


かく示された。




ひとまずこのシリーズはこれで終了です。お付き合い頂きありがとうございました。

ここまでの物を書く暇があった。とはいえ流石に寝不足気味ですのでしばらく、、、、は書くのはお休みしようかな。観たいフランス映画と読みたい小説と漫画が溜まってるので、そちらに時間を割くことにしよう(とか言いつつ、どうせ感想文を書くのだろうが)。

とりあえず今日くらいはゆっくり寝よう。

おやすみなさい。



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