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唯一の女友達だった人の話

高校時代に、友達とか恋人とかの区別が曖昧ではっきりと分からない私に出来た唯一の女友達だった人との意識のすれ違いのお話。

お蔵入りしていた記事ですが、愛についてのマガジンに載せてもいいかと思ったので掘り返してきました。

掘り返すきっかけを前置きとして書いていますが、こちらは読まなくてもいいし無理に理解しようとしなくても問題ありません。


前置き

これは参考文献を読む前に書き留めた雑感。たて込んで読めていないので、頭の中を整理がてら文字にしておくことにした。


「“そういうこと”になれる人とでも“そういうこと”でない状態の時は友達である」という(ある種の)美徳が担保された世界線。確かにそれは憧れる。だって私も好きな相手となら誰とだって理屈の上では“そういうこと”になれる(≠そういうことをしたい)と考えているから。憧れるのは現実世界では手が届きにくいからだ。なるほど、確かにファンタジーだ。

そして、感情移入という点に性差が関わるというのは、それはあるのかもしれない。「近過ぎるゆえの遠さ」論に立って、それとその反対との両方の立場を考えてみた。

まず私にとって、「遠いからこそ近い」方の時、どういうシチュエーションなら感情移入しやすいかを考える。圧倒的に攻めだわ、うん。次に「近いからこそ遠い」方の時はというと、これもやっぱり攻め側だ。そして、この感覚を対等に持っていこう、攻めとか受けとかを取っ払ってみようとしてみた。

ムリだった。

考えてみてすぐに壁にぶち当たった。それはカップリングとか関係構築までの立場の問題だ。攻め×攻めというのは成り立つのは想像できる。攻め×受けというのは一般的だ。しかし、受け×受けというのは通常成り立たない。どういう性別の組み合わせであってもだ。逆に言えば、何かしらを成立させるためには攻めの性質を一方に持たせなくてはいけない。極端に言えばどちらから先に話しかけるかというレベルでもこの構造は観念される。

攻め×受けや、その逆転というのは一般的である。とすると、ファンタジーを感じるためには、受け×受けが成立しにくい以上、攻め×攻めにたどり着くのは道理だ。そして、この点においてどの性別の組み合わせにするかを選ぶ(対等な友達としての表現を感じたいか)というのは、確かに性差が大きく関係するのかもしれない。

これには、どうあがいても女性性が“後者”であるという点がやはり大きな要因であると感じる。それは器質的に受け側にならざるを得ない点であり、その受け側にならざるを得ない点を、誰もがジェンダーロールと短絡しているからだろう。これはもう仕方がないことだと私は思う。この人類に根づいた価値観をひっくり返すのは、それこそ新しい属性を付与するくらいでないと不可能だ。つまり、あの設定はファンタジーをより色濃くしたいという願望の賜物かもしれない。既存の価値観では対等たり得ないから新しい価値観を付与する。しかしその行為は、女性性あるいは女性像を持ち上げて対等を目指すのではなく、男性性あるいは男性像を下げる形で対等になろうとしている気がして(その実結局は攻め×受け構造になるので完全に払拭は出来はしないはず)、私の感覚では好きになれそうにない。

ジェンダーロールに違和を感じて対等となろうとした時の手段として、(潜在意識として受け側にいる)女子がそちらの組み合わせを選択する傾向にあるのは想像できる。逆に多くの男子は対等になろうなんて考えを抱くことすらしない(理解出来ない)から、当然ながらそちらの世界に対して理解を示すことは困難だろう。(男子側のうちの対等関係を望むものは、男子にとっての「遠いからこそ近い」世界を愛好するのかもしれないが、恐らくその絶対数は少ないし、それを女子が愛好するのは全く別の理由な気もする。対称的に「遠いからこそ近い」と称したが私の感覚としては近くないので、実際のところは分からない)

なるほど、わかった気がする。そしてその本質は確かに、私の好むところの「その人だから好き」にある。ゆえに、興味が湧くのだろう。

性差というのは、かなり影響があるものだ。
(だからこそ、この差がどれくらい違いを生み出しているのかを探りたくて輪投げをしているのかな、とか思ったりもする)



そういえば、どうにもならない性差を、性差ゆえのどうにもならなさを身にしみて感じたことがある。



女友達のおはなし

私には今現在友達と言える人は3人しかいない。おそらくきっとこれは少ない方だろう(なぜなら私の中では友達というのはある意味で恋人と言えるほどの心の繋がり(信頼)が無いとそう呼べないからだ)。それはまあどうでもよくて、かつては4人いた。今日は、その友達でなくなってしまった人の話だ。

同い年の女性だった。3歳年下の妹と難病を抱えている父親との3人家族だった。母親は、生きてはいるが会うことは無いと言っていた。彼女とは私が高校生の時に仲良くなったが、彼女は高校生ではなかった。あまり働けない父親に代わり家族を養うため勤めに出ていた。家に帰れば妹と父の面倒を見なくてはいけないし、家事のほとんどもこなしていた。

彼女は、一人で家族のその役割全てを演じていた。妻であり、母であり、父であり、娘であり、姉であった。


で、破綻していた。だって、中身は未成年の少女なんだから。


中卒で就ける良い条件の仕事なんてそうそうあるはずもなく。給料は安いのにキツイし、若い故に無理がきくからとハードな勤務状況だったらしい。家に帰っても家事に追われ、休みの日に心と身体を癒して仕事に備える日々。

周りの同年代は青春を謳歌している時に、だ。私と会うのもせいぜい月に1,2回で、あとは私の学校帰りに立ち話を少しだけという、時間の融通のきかなさだけは立派な社会人だった。(彼女は仕事の関係で携帯電話を持っていた、私も別の理由で既に持っていた。これがなければろくに会うことすら出来なかっただろう。当時は高校生で携帯電話を持っているのは私の地域では珍しかった)

後から気付いたことだが、彼女は他の友達だった人達と疎遠になっていたようだ。携帯電話を持っていない人達との繋がりは学校に依存していたろうし、中学校を卒業した後は時間も合わなければ話題も合わないのだから無理もない。

その点、私は聞き役になるのが常だし出会う以前のことは知らないので私から話題にはしない。それが彼女が抱えている闇に触れなくて済み、彼女にとって居心地が良かったのだと思う。彼女が自分から喋る分には構わないが、こちらから話を振ることはなかった。(これは果たして対等な関係だったのだろうか、とふと思ったりもする)

彼女は歌うのが好きで、会うときは大抵カラオケに行っていた。彼女を紹介してくれた共通の友人と三人で行くこともあれば、(主に彼女が喋りたいだけの時は)個室に二人きりになることも多かった。ちなみに私にはその時“付き合っている人”が既にいたのだが、そんなことは気にせずに会っていた。

(少しだけ、“付き合っている人”にも触れよう。告白をされて、嫌いな要素が無かったのでOKした。恋愛というものに興味があったからというのも大きい。より正確に言えば「恋→愛」があるかの実証実験をしてみようとした。だから、その人のことを好きだったかと言うと実は微妙で、でも彼氏としての振る舞いは出来ていたとは思う。それは苦痛ではなかったがとても苦労したのを覚えている)

一つ言えることは、私は“付き合っている人”と会うよりも、友達である彼女と会うことのほうが楽しみだったし楽しかったし、簡単に言えば愛の量が多かった。ただ、この感情を以って付き合いたいとか思っていたのではない。ここでは簡単に友達として好きだったとでも解釈しておいて欲しい。

彼女は私には特別な感情を持っていないことはなんとなく分かっていた。だからこそ安心して私も彼女のことを友達として好きでいられた。私に“付き合っている人”が出来たおかげで、その距離がさらに縮まったような気もした。私としては接し方は何一つ変わらないが、彼女にとっては私に“付き合っている人”の存在があるということが、縮まる距離感の中でも安心出来たようだ。

でもやはりズレは起こるもので。

彼女は妹さんを溺愛していて、自分が出来なかったことを何でもさせてあげたいと考えているようだった。それが妹さんは煩わしかったのかも知れない(あるいは姉である彼女に負い目を感じていたのかも知れない)。妹さんとの関係が悪化して、いつも以上に思い悩んでいたようだ。それは、シングルマザーが心の寄る辺にしていた我が子に疎まれて悲しみに沈んでいるような感じだった(母子家庭かつ反抗期を迎えていた私はその雰囲気を知っていた)。

その姿を見て、守りたいという表現は少し強いけれど、もう少し側にいたい、くらいに私は思ってしまったのだろう。

“付き合っている人”によって縮まった彼女との距離、そして私が勘違いしたまま学習したことが、仇となった。

“付き合っている人”は、私を好きだと言って、よく私の手やら腰やらの身体を触ってきた。その気持ちは分かっていたので嫌な気持ちはしなかった。たとえ私の方に特別な感情が無くても触れる体温は心地よいものだった。だから、そういうもんだと思った。それに、男友達となら気楽にスキンシップはしているじゃないか。

私は確かに彼女のことが好きで、そして彼女は友達だろ?


どこに触れたっけ。手首のあたりだったはず。

言われた言葉は覚えている。

「そういうのじゃないの」

ああ。「そういうのじゃないの」じゃ、ないんだよ……と、心の声でつぶやいて、私は謝った。


当時の私がもう少し強ければ上手く説明できたのかもしれない。いや、どの道彼女が話を聞ける状況ではなかったろうから無駄だろうなとも思う。今となってはもうわからないし考えても仕方のないことだ。

その後は、二人きりで会うことは極力避けた。彼女は何もなかったように接してくるし、私もそれに合わせる。でも、私の中ではもう友達とは呼べなくなっていた気がする。それ以上は踏み込んではいけないという明確な線が引かれてしまったから。

成人式にも一緒に行ったが、それ以降の記憶はあまりない。いつの間にか連絡もとらなくなって(おそらく彼氏が出来たからだ。やはりこの部分の価値観に大きな差があったのだ)、今はどこでを何をしているのかも知らない。

私はあの時の自分の行動を後悔してはいないが、もし彼女が彼だったら、あるいは私が女性だったら、今でも仲良く出来ていただろうなぁ、とは思うのだ。

(おわり)





だから、女子の夢だけでは無くて私の夢も詰まっているのかもしれないと思ったんだ。

これが扉を開く理由のひとつ。



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