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call my name.

先日、仕事で普段めったに用がない部署に電話をかけた。出たのは8年前くらいに少しだけ一緒に働いた人だった。

最初は気づかなかった。ありきたりな名字だし、事務的な会話だし、電話越しの声はやっぱり少し機械的で記憶のドアをノックしないもんだ。

それでも変わらないのは話し方と間投詞。「あっ」とか「えー」とか、そういうの。

これはひょっとすると……程度に弱々しく扉をたたき始める。

用件を伝え終えて、いざ終話の段になって、

「あの」が聞こえた。強めの語気で。


「○○ ○○さんですよね?」

フルネームで呼ばれたら、記憶の扉は吹っ飛んで確信に至る。

「そうですよ。△△ △△さん。お久しぶりです」

受話器の向こうで漏れる息が聞こえた気がした。

言葉にならない喜びを感じた。

そうして暫く、部署間の横のつながりを作る仕事と称してコミュニケーションをとった。


病院の待合や、他社の方と商談なんかする時にはフルネームを使うし呼ばれる。私の名前はありきたりな名字と唯一無二(多分)な名前で構成されているから、名字だけでは何かと不便だし相手方にとっては珍しい体験となるからだ。こちらとしては幾度となく繰り返してきたやり取りではあるものの……まぁ、そういうわけだからフルネームで呼ばれることなんて大したことではない。

でも、そうじゃない。

認識記号としての名前じゃなくて、ちゃんと人としてその存在として認めてもらっている感覚。ここにいて居てもいいよと許されるような感覚が、彼女との電話の中にはあった。

目の前にいる人に呼ばれる場合はフルネームである必要はない。極端な話、名前である必要もない。「お前」でも「そこの」でも意思疎通は出来てしまうから。

電話越しの彼女の声は、フルネームを呼ぶその声は、見えているはずもないのにそれでも私の形になっていたのだと思う。もう何年も会っていないから印象だっておぼろげなはずなのに。フルネームを呼ばれた瞬間に、彼女の世界に私が象られているのを感じた。それがたとえ私の誤認であったとしても、嬉しかったんだ。

実際、名前を名乗って思い出されることはよくある。それこそ珍しい名前だから、それが記憶の扉を開くカギになりやすい。でも、今回は逆だった。

名前はおまけで、私という存在を覚えていてくれていたことを、そのおまけであるフルネームで呼ばれることで実感できたのだ。

恋愛もののセリフなんかで「あなたに名前を呼んでほしかった」とか、親が子の名前を愛情を込めて呼ぶことが子育てには肝要だとか、そういった話はよく聞くけれど、名前を呼ばれることによる喜びというのは、なにも特別な人に限ったことではないのだろう。存在を認められるということ、こんな単純なことが何とも嬉しい。

これが、フルネームで呼ばれることが人よりも多い人生を歩んでいる私が最近になって気づいたこと。え、遅すぎるって?


私は大雑把に言えば生きる意味なんて無いと思って生きている。でも、もしかしたら、これはその座に据えてもよいものかもしれない。


call my name.





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