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批難のための批難という害悪

 こんにちは。

 最近、写真界隈であれこれ騒動がありました。そのうちの一つには私も思い切り言及しておりまして、騒ぎに加わっているといえないこともありません。

 そうした写真界隈のいざこざや、写真界隈以外でのネット上での騒動を見ていますと、一つの共通点があることに気づきました。

 それは、実際には当該の業界の事情に詳しくもなく、利害関係もないのに、人を叩く快感を得るためにだけやたらとハッスルする人が一定数いるということ。

事情通"風"

 わたくし自身、写真の面白さを伝える活動をインターネットでしておりまして、Youtubeで現在登録者が3万人超です。

 だいたい登録者が5000人を超えたあたりから、明確に攻撃のためだけにコメントをする人が増えてきました。
 これは一定の率で元々そういった性向の人間が社会に含まれていたのが顕在化しやすくなった面と、登録者5000人という、「なんとなく耳目を集めていそうだ」という妬みを買いやすい閾値を越えたことが合わさっているのでしょう。

 悪意のあるコメントは、ほとんどが文字を覚えたばかりのお猿さんにキーボードを叩かせたような直情的なコメントなのですが、その中に一定数、私を叩くために「自分は事情通である」とうそぶき、どこかで仕入れてきた専門用語をちりばめつつ、強い言葉を使う輩がいるのに気が付きました。

 たとえば最近のX100Vの件でいいますと、これは私が誹謗中傷の対象者ではないのですが、肖像権の理解や、路上での撮影許可の有無を絡めてさも自分は写真で仕事をしているのだ風に発言するのですが、実際に日本の商業撮影界隈で働いていれば理解できているはずのラインとはずれてしまっているものが多いのです。

 これは事情通を装うことで自分の発言に威力を持たせようと偽装しているわけで、他者との交流によって社会をより善くしようという動機からではなく、気に入らない人間を批難したいという動機からコメントしているものと判断できます。

 もちろん実際に、明確に不利益を被った被害の当事者であった場合に抗議の声を上げたり、現実にある自分の立場から事象を批評する権利は誰にでもありますし、それは健全な社会の運用のために止められるべきではありません。民主主義の根幹に関わります。

 しかし、批難のための批難というのは、まるで排泄するかのように言葉を発した本人が気持ち良くなるだけで、誰も幸せになりません。

 ※ここからしばらく私個人の事情を説明しますので、興味のない方は飛ばしてくださいね。

私の事例

 私も先述のとおり、Youtube上で一定の支持を集めたところからだんだんとアンチ、つまり発言や行動の内容のいかんを社会の良識に照らし合わせた結果の批評ではなく、単純に気に入らないという感情スタートで無条件に批難し、機会があれば足を引っ張ろって私のレピュテーションを下げようとする輩に攻撃されることが増えてきました。

 そうした存在に気づいてはいたのですが、私自身は「俺はこんなにすごい経歴だ」などということは言わず、自分が完全無欠の超人であるなどということもうそぶかず、ただの写真を撮るのが好きなおっさんで、写真を撮ることでメシを食わせてもらっている「一応プロ」という形でやっているものですから、別に気にしないでおりました。

 つまりプロカメラマン様だからお前ら言うことを聞け、という話ではなく、撮った写真はいつでも見られるように提示しておくので、写真がダメだと思ったら話を聞く必要がないからね、というスタンスでやっているので、批難されたところで「プロアマ関係なく、より撮れる人がより有意義な情報を流せるなら、勝手にやれば良いじゃない」という気持ちでいたのです。

 しかし、一定の支持をネット上で得ると、じゃあこんどはリアル世界で教えて欲しい、という要望が強まり、ワークショップという形で写真を教える場を持つことになりました。

 ワークショップはいくつかの種類を開催しているのですが、その中にスナップのワークショップというものがあります。

 私のスナップワークショップの開催の仕方は毎回同じで、どこかへ一旦集合してその後はばらけて好きに写真を撮り、後ほど貸し会議室などに集合してその日に撮った写真の添削会をやる、というものであります。

 これを新宿御苑を集合場所に設定して開催したところ、私の失点を待ち構えていたアンチたちに餌を与えたことになり、炎上というにはプレイヤーが少ない、大変ささやかなものであったようですが、社会不適合な中年の集まる某掲示板ではちょっと盛り上がっていたと聞き及んでいます。

実際には

 私が新宿御苑にワークショップの集合場所を選択してしまったことはミスでした。

 なぜなら、新宿御苑の規則には、有償の写真教室をやるな、という旨がたしかに明記してあり、そのルールを最も厳格に運用した場合、

・集合場所が新宿御苑内だった(その旨告知してしまった)
・御苑内で「教室」に相当するレクチャーはしていない
・後の添削時に提出する写真を撮っているが園内では全員ばらばら
・WSシステム上、撮影中の金銭授受もしない
・添削会場も御苑外

 最初の「集合場所が新宿御苑内である」という部分はたしかにダメだったね、という風に思います。事前のリサーチが足りておらず、そこは御苑の皆さんに対して申し訳ないなと一応思います。後にお役所仕事そのもののメールを受け取ってからは、その思いもあまりなくなりましたが。

 ここに「なぜ公共施設だからすなわち有償写真教室がダメなのか?」「有償無償よりも占有の問題では?」という疑問も湧きますが、そのあたりはまた別の回にしましょう。

 私は、新宿御苑を集合場所に設定してしまったこと以外、悪とは考えておりません。過去の公共施設利用の際にあちこちへ問い合わせた経験上の判断です。

 最近の日本でスタンダードになってしまっている「めんどくさい奴が勝手に悪判定して来そうなことはすべて前もって回避しよう」という考え方では、何かアクションを起こす度にコストばかりかかって社会に益が少なくなります。

  新宿御苑の件については、事前にルールをきちんと知っていれば御苑での開催は避けましたが、大事なのは、誰かを傷付けるか? 誰かが悲しい思いをするか? のように、実際の害が及ばないように事を運ぶことであって、名目上の違反どうこう、の問題ではないと考えています。

 もちろんこれも独善に陥っている可能性はありますから、であれば、議論としてその点を突き、健全化して皆でより善くなっていこう、と考えるのがまともな人間です。

 アンチのうち、突出して嫌がらせ能力の高い輩が新宿御苑に「伴が・有償の・写真教室を開催している」と表面上の事実を切り貼りしたメールをしたところ、事実の裏を取るでもなくお役所仕事に徹する公園事務所から「めっ」というメールが来ましたが、これはクレーマーに対するアリバイ工作でしかなく、議論をしようという姿勢ではありませんので私もそのまま「そうですか」とメールを読んだのみで終了です。

 よほど私を妬ましく思っていたのでしょう、その後のアンチたちは、私が関わっていた書籍の版元や編集プロダクションに粘着リプライを繰り返し、さらには編集プロダクションの取引先にまでその勝利の手型を突きつけると脅し、編集プロダクションは大きな取引先を失いたくないという恐怖心から、思慮することもなく私を呼び出して謝罪文を掲載させようとし、私は拒否。以後の取引を停止いたしました。

 こうした経緯のうち、いくつかの時点では「戦おうか?」とも思うこともあったのですが、現在の日本のあらゆる場所での常識が、文句を言った人間が「文句を言ったことで」有利に振る舞えてしまう状況が多く、またサラリーマンである編集者に事情を説明したところで「揉めないでください」以外に回答が出るわけもなく、著者を守る姿勢がないこと、出版の仕事の根本を理解していないことにうんざりさせられる結末となりました。今後、当該の社と取引することは先方からも当方からもないでしょうね。

 こういった対応は幼稚園などで「どちらが悪いという問題ではなく、揉めたことが問題」とする悪しき教育に顕著に現れているように思います。

 これらの経験から、私は「自分が何か世の中に意見を発した時に、ストレートにその事柄に対してネガポジの意見を述べるわけではなく、ひたすら気に入らないだけで叩いてくる奴がおるんだな」というネット社会の常を実体験として学びました。

文句を言った者が有利

 本来であれば、文句を言った人間は文句を言う資格が問われます。

 写真のことで言えば、「人の写真の撮り方に文句をつけるお前は、さぞ撮れるんだろうな?」と切り返されて、ウッと詰まったら負けです。

 もちろん問題にもよるのですが、およそ人間社会に生きている人間であれば、ことさらに他人に無謬を求めるべきものでないことは分かる筈です。なぜなら「じゃあお前はそんなにパーフェクトなのか?」と聞かれたら、そんな人間はいませんし、なくて七癖のように、本人が自覚していないだけで迷惑を撒き散らして生きている疫病神のような人間もたくさんいます。私もそうでないとは到底断言できません。

 私自身が、たとえば芸能人の不倫のような、広告に使っていた企業以外はよほどのファン以外どうでもいいじゃん、と思うような事件に対して目の色を変えて批難するひとを「ちょっと恐いよあんた」という風に冷めた目で見てしまいがちですから、もともとそういった感覚に乏しいのかもしれません。

 法令違反のようなことであれば、社会に害をなしているという見方もできます。
 しかし本来、ルールというものは法令に違反した「から」社会に害をなしているのではなく、社会に害をなした過去の例があったからガイドラインとして法令を制定している、というものです。

 ですから、たとえ当事者でないとしても批評の自由はありますが、批難のための批難をする輩というのは、社会に益をもたらすわけではありません。こういった点について考えることなく、快楽のために批難をする、下手をすると人格攻撃までする輩というのは明確に害悪です。

 しかし社会は文句を言ってくる人間と文句を言ってこない人間で分けた場合、文句を言って来る人間にはコストがかかり、文句を言ってこない人間にはコストがかかりませんから、文句を言ってくる人間に対してコストを割き、重点的に配慮することになります。

 本来であれば、文句=クレームについては内容のいかんを常にすべてのケースにおいて問わなければなりませんが、新宿御苑の窓口担当者同様、個別のケースについて調査するよりも、目の前のクレーマーのお気持ちに沿った配慮をしてしまいがちです。

 こうした目先の楽を取る姿勢は、いわゆるお役所根性であり、サラリーマン根性であります。こういった言葉は、真面目にやっているお役所の方や戦えるサラリーマンの方に申し訳ないのですが、似たようなことがありすぎて人口に膾炙してしまった表現ですから、世の中にそれだけ多くの事例があるということです。

 文句を言われたくない、という個別の事なかれ対応が、日本社会全体でアンチ体質の文句を言うだけの人間を甘やかし、あらゆるところに無駄なコストがかかり、税が高くなり、自由が減ります。

最終的に

 私の考えとして、上に挙げたような体験を通じ、「つっても誰も守ってくれるわけじゃないんだから、そういうアンチが湧かないところで仕事するしかないよなあ」という風に考えました。

 幅広く奥深い日本語表現を愛していますから今後も日本語圏で仕事を継続したいと思っていますが、仕事をする領域を自由に選べるフリーランスですから、仕事をする相手や、自分の仕事が届く相手は自由に設定できます。

 もしこれを読んでくださっている方が自分では職業を選択する自由がないとしたら、私の選択は単に好きにできる奴が無責任に投げ出しているだけに見えるかもしれません。

 しかし私が皆さんに求めたいのはそこです。

 つまり、批難のための批難をして気持ちよくなってしまうような輩を議論の頭数に入れるのは、もうやめましょう。

 個人レベルで神経をすり減らして対処したり、組織レベルでも事前に必要以上のクレーマー/アンチ対策をするのをやめましょう。

 批難のための批難をしたい輩というのは、リアル社会で自分が思うほど自分や自分の考えることが大事にされないという不満をネットに叩きつけている子供に過ぎません。だから話の内容よりも自分の意見が大きく見えるように事情通であることを偽装までするのです。

 そうした輩のために社会のコストを割り振っても、本来割り振るべきであったところを削る結果にしかなりませんから、私はどんどん皆さんが対応をやめるべきだと思うのです。私企業であれば商品の値段に、自治体であれば税に跳ね返って、真っ当な人間の首もろとも締めています。

 先日のFuji X100Vというカメラがプロモーションに失敗した際など、富士フィルムの公式Twitterに「責任を取ってこのカメラの発売をやめてください」というようなことを書き込んでいる輩がおりました。
 背景を何も考えず、直情のみで他人の仕事や人生に手を突っ込み、自分は匿名の安全なところで何も責任を取らないのです。こういった輩を基準に物事を運用するのは無駄です。

 長い文章で個人の体験をお知らせしたのも、社会が多くの人にとってより快適で、生きるべき場所だと実感できるものであってほしいという思いからですので、どうか思いを同じくする人に届いてくれることを願っております。

 それではまた!

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