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自己顕示欲ベース

 こんにちは。写真を撮ったり教えたりして食っている伴です。

 Twitterをやっていると、毎日いろんな変な人の情報が流れてくるんでありまして、今日はそういったことから感じることをひとつ。

 自己顕示欲という言葉があります。

 自分をオラオラと他人に示し、自分を評価してもらいたい、までが自己顕示欲という言葉が指す情動としてセットのようですね。そういった気持ちがまったくない人はあまりいないと思いますし、自己顕示欲ゼロだから偉いというものでもありませんから、自己顕示欲があること自体は別にまあ、暴走しなきゃいいよね、という程度のものだと思います。

 自己顕示欲の強い人は、オレオレ、わたしわたし言うのでうざったいが、良い方向に作用すれば社会に益をもたらす場合もあるのでアリ、といった感じですよね。

 ちなみに私自身はほぼ自己顕示欲というものがありませんで、評価を得るとお金になるなら、あった方が良いかねえ、というレベルでしかありません。

 湧き上がる自己顕示欲をコントロールできない! みたいな感覚には残念ながら見舞われたことがありませんで、性欲が抑えきれなくてやばい! みたいな危険な人を頻繁に見かける写真界隈ではかなり乾いた人間だと思いますが、まあとにかくそういう感じ。

 写真の界隈を見ていると、性欲に突き動かされておねえちゃん写真を撮り、撮った写真からも性欲が溢れちゃっている人がたくさんいるのですが、それと同様に、自己顕示欲をスタート地点にして写真を撮り始めている人というのが一定数おりまして、けっこう扱いに困ることがあります。下手すると両者のハイブリッドだったりいたしますね。

自己顕示欲が動機

 自己顕示欲が動機になっている人を見ていると面白いのは、自分がこうしたい、これが好きなんだ、というより先に「俺、目立ちたい。評価されたい」というのが大きな柱としてあり、そのために何を使って有名になろうか? 評価されようか? という考え方であること。

 性欲の人もけっこう似たところがあり、ある意味ではファッションに興味がないのにモテるためにファッション雑誌を買ってくるような感覚なのかもなあ、と思ったりします。

 つまり、写真なら写真という知識と技術の体系があり、それをゼロから学び、実践することで喜びを得て、結果として撮影された写真が評価されちゃった、というのがある意味では一番美しい技術と評価のあり方だと思うのですが、自己顕示欲ベースの人というのはそういう思考回路を持っていません。

 俺、目立ちたい。じゃあどうするか? ちょっと写真に興味があるから、写真を利用しよう! となるんですね。

 技術型の人間というのは、技術を知る、そして身につけることが目的ですから、途中経過である技術を身に着ける過程なんかもけっこう楽しめてしまう人が多いと思います。そうした課程で自分に起きる変化が面白い、出来ないこと、分からないことが楽しめるというのは技術との付き合い方で一番理想的なんじゃないでしょうか。

 しかし、自己顕示欲ベースの人の場合、最終目的である「俺がちやほやされること」に最短距離で向かいますから、そのために最低限必要な知識や技術にしか関心がありません。コツコツ練習して積み上げるのは余分なコストであって、そこは目的ではありませんから、技術そのものに興味はなく、例えばその技術を開発した人間に対して敬意はありません。

 私自身はトレーニングが楽しいタイプの技術信奉、能力主義者なので、結果のみを求める人間というのは理解できませんし、技術はイコールで人間と人間社会だと思っていますのでそれらに対する軽視はどうなんだろうと思うのですが、もちろんそういう選択は個人の自由ですよね。

マーケには強い

 しかしそんな自己顕示欲ベースの人、マーケティングにはめっぽう強いんですね。自己プロデュースと言い換えても良いかもしれません。

 自己顕示欲ベースの人の場合、スタート地点ですでに「俺は評価されておかしくない人間だ」という、根拠のない自信で満たされている事が多く、評価されていないのは自分以外の何かがおかしいからだと考えます。

 実際に技術で生きている人間からすると、「いや何もやってないんだから評価されなくても当然じゃん」と思うのですが、それはゼロから積み上げる人間の発想らしいんですね。

 写真をやっていて思うのは、表に作品を出して作家として活動する場合は、自己顕示欲が強い人間の方が有利。
 ここで誤解してほしくないのは、自己顕示欲が強いことは良いことでも悪いことでもないのです。問題なのは自己顕示欲がスタートでありゴールである人。

 彼らは過程に一切、もしくはほぼ興味がなく、撮られた写真にも興味がなく、それらが世間の目に触れて評価されることが目的ですから、写真の出来がどうだこうだは「さておいて」ぐいぐい押しまくる事ができます。作品を見ろと言いながら実際は自分を見てもらいたくてハフハフしているんですね。

 もちろん、評価されるための肩書は写真を選んだ時点で「写真家」であったり「フォトグラファー」になっていますから、口ではそれっぽいことを言うんですよ。ポエムを書き連ねたりもします。自分をよく見せ、評価してもらうために利用できるものは何でも利用しますから、他人から見て自分の評価が上がりそうで、かつローコストなものは何でも取り込みます。

 このように、自己顕示欲というのは、自分を世間に押し出す際にはたいへん強い動機づけと実際の力を生み出すようでして、日本のように情報の整理があまり上手くない社会で名前がグイグイ出ている人というのを見てみると、本筋の議論よりも自己を顕示することに命を賭けている人間というのが珍しくありません。政局ばかりでニュースのネタになるのを狙う野党議員みたいなものです。

 前述の通り、実力が伴っていれば大いに結構な話なんですけどね。根拠のない自信も、後から死にものぐるいでその根拠になるだけの力を身に着ける人が稀に。それならそれでOKだと思うんです。

サイコパスじみた振る舞い

 ここまでの話でしたら、単純に個人の性向であり選択の結果ですから、各人好きにしましょうという話なのですが、自己顕示欲ベースの人というのは、自分が目立ってちやほやされるのが目的ですから、悪意のあるなし別にせず、他者を容赦なく利用します。

 たとえばストリートスナップと称して、小型のカメラを町へ持ち出し、写真を撮るジャンルがあります。 

 撮影対象は一番穏健なものであれば、人間を排して町並みを撮るスタイルでありまして、次に人間が写っていることでより時代性やドキュメンタリー性が強くなりますが、人間が写る面積が大きいものになるにつれ、撮る側としてはいつ「やめろ!」と咎められるか分からずプレッシャーを感じるものになります。

 極端なものでは、明らかに拒絶のポーズをする人が写真の枠いっぱいに写っているものまであり、しかも撮った側の人間は「ここまで赤の他人に嫌がられながらも肉薄しているんだから俺はすごい」と自慢していたりします。

 もちろん撮られる側にとっても、何気なく通り過ぎる姿を街の一部としてパチっと撮られる分には「まあ良いか」「こちらも観光地に行って人間が入っちゃった写真を撮るしね」という風に流してくれるものが、追いかけ回されたり、回り込んで顔に思い切りカメラを突きつけて撮られたりすれば不快になること間違いありません。

 そうして撮られたストリートスナップというのを写真の世界にいると毎日といって良いほど目にするのですが、私からすると、それは「やむなくやっていること」ではなく、撮る側が自己顕示欲を満たす道具として、そのへんの通行人を無理やり利用しているだけにしか見えないのです。

 もし私に娘がいて、町を歩いていて見知らぬ男にカメラをぐいぐい押し付けられながら追い回されたとしたら、普通に張り倒すと思います。気色の悪い変質者でしかありませんよね。

 しかしそういった迷惑ストリートスナッパーは、ドキュメンタリーだから! とか、東京の今の姿を残す! といった風に、自分は文化的なことをしているんだと言いはります。

ドキュメンタリーと嫌がらせの境界

 前述のようなストリートスナップをやっている人、口では文化的だ芸術的だと言いますし、たしかに大枠でとらえれば、その日、その時に写真に写っている場所や人やモノがあり、そこに並んでいたことは間違いありません。そういう意味ではドキュメンタリー性は確かにあります。

 しかし私が問題にしたいのは、そうした大枠でのドキュメンタリー性の有無や多寡ではなく、他者に不快感を与えて、わざと引き起こしたアクションを撮影して「ドキュメンタリーです」というのは成立しないというのがまず一点。作為で反応を引き出しておいてドキュメンタリーと言われても、ですね。

 また、公序良俗で考えた時に、嫌がる人にカメラを突きつけて追い回したり、不意打ちを食らわして撮ることに問題があると考えます。人によってはやたらと女性ばかり追い回しているような性欲成分の多い、より犯罪じみた写真を並べている人もいます。
 そうした写真を撮ってご開陳している人は捨てるもののない無敵の人であって、まともな社会との接点がなかったりするのですが、ごく普通に社会通念に照らし合わせれば到底許されないでしょう。

 もし社会と折り合いをつけられるのだとすれば、行きがかり上被写体になる人に対して不快感を与えないことが最低限のラインになると考えます。

 最後に一点、自己顕示欲の「自分が目立ちたい、ちやほやされたい」を起点に嫌がらせじみたストリートスナップを撮り、それを自分の実績だから評価クレクレとやっている人は、被写体への敬意なしに自分の気持ちを満たすために他者を利用しているだけであり、そんなことをしていては写真自体の社会的な評価が下がってしまうのでやめてほしいんですよね。

 昭和の大先生写真家で、出世作になったのが銀座の真ん中で道行く人たちの顔を思い切り大写しにしたものだったという方がいらっしゃいますが、その方は最近、ずっと利用してきたモデルさんに告発されて「なんだ自分の欲と名誉のために他人をお安く利用してきただけじゃないか」というのがバレてしまいました。

 写真世界の「変わった人たち」の中での評価が高いから、というので社会の中で地位を得たわけですが、現在はもっとシームレスに繋がっており、業界内でだけ通用する非常識な振る舞いというのは容易に暴かれ、受け入れられない時代になっています。

 私自身はアナクロ趣味がありませんので、それを嘆く気持ちにはなりません。時代が移り変わるのは仕方がないことですし、総体としては不快に思う人や人生を破壊される人が減っているのだから、それで良いと思っています。

 自己顕示欲ベースで他者を利用し、自分だけが良い思いをしようというスタイルは、紙がベースで情報の流通量が少なかった、また流通経路も短かった時代にだけ通用したことであり、現代に通用するものではありません。

 むしろその常識と非常識の境界こそをテーマにして作品を撮るなり、議論をするなり、というのが本筋だと思うんですよね。

最後に

 ストリートスナップ、という言葉は便利なゴミ箱のような存在でして、いろいろな被写体やいろいろな撮影方法、撮影動機を一緒くたに放り込んでおける上、そう名乗っておけばなんとなく響きがカッコ良いので重宝されております。

 しかし、実態を見てみると単なるスケベ根性の盗撮であったり、自己顕示欲で他人を利用する、社会性の低いやつがカメラを持っているだけという状況であったりします。
 実際は良いものも沢山あるんですが、異常なものの方が耳目を集めやすいのは確かで、精神的にバランスを欠いたようなものばかりがもてはやされる傾向が強くあります。

 私としては、写真を撮らない皆さんが見た時に「オエッ、これが写真の世界なのか? 気持ち悪いから近寄らないでおこう」とならないようになって欲しいと思っています。
 そうでないとよその社会とつながってお金が流れ込みません。頭がおかしい好事家の集まりと認識されてしまうと社会と隔絶され、内部の人材も血が濃くなるばかりでいけません。

 写真を撮る人間同士だけで「やりますな・・・ドゥフフ」というようなコミュニティは、放っておいても勝手に形成されるわりに間違った方向に行きがちと思っていますし、写真を楽しむのが何も撮る人間だけに限定される必要はないじゃない、と思っておりますで、是非皆さんの良い意味での介入をしていただきたいのです。

 だからこその、撮る側から見たやばい撮る側のお話でありました。

 それではまた!

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