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やはり、最初は。




最近、日本でも「安楽死」が議論されてますね。







私個人としては、小学生の頃から安楽死は認められるべきだと考えて来て、今でもその考えは変わっていません。






上記のYahoo!ニュースのコメントです。


大津秀一 認証済み | 3/18(木) 13:59
緩和ケア医師
報告
ALSや末期がんの患者さんと接して来ている身として「私なら死ぬ」の問題点を考えてみる。「私なら死ぬ」と見聞きした時、感じるのは「断絶」なのではないか。
「私なら死ぬ」と話し書く人も様々だろうが、中には深い思慮なしに口に出している人がいるのは事実だ。病者はしばしば「わかっているつもり」でしたり顔に語る人に疲弊している。病者も様々な背景があり、希望を持って生きている人もたくさんいる。しかしそれを知ろうとすることなしに「私なら死ぬ」と決めつけられることは無理解と断絶の思いを強めることになるのではないか。
一部にステレオタイプな見方が存在しているのは事実で、実際とも乖離がある。「私なら死ぬ」と話す・書く前に、そのような状況におかれている人たちが実際はどのように思い、どのように生活しているのか、まずそれをより知ろうとすることが大切なのだと考える。それが意図せず人を傷つけることを回避してくれるだろう。

記事後半にある難病患者の岡山祐美さんのコメントが問題を端的に指摘しています。「難病や障害があるなら、つら過ぎるのだし死なせてあげたらよいとのメッセージを含んだ報道は、その死にたいほどつらい状況へのサポートを放棄するとのメッセージ」。
サポートの少なさや自分のサポートにあたる人の待遇・処遇の悪さ、社会的な孤立、偏見と無理解。そうした不利な社会環境に身を置かなければならない障害者が、生きることよりも死を選ぶことに意思が寄っていくことは、自己選択でも自己決定でもなく、社会がおのずとそこに追い込んでいるものととらえるべきでしょう。
大切なことは、そうしたサポートを行う社会的な仕組みを整え、障害者等の「生きづらさ」を軽減するベクトルのなかで安楽死議論を始めることです。
不利な状況に障害者等を置いたままでその安楽死の議論を行うことは、彼らを「死に追い込む」ための議論を行うことに等しいと思います。

当事者に聞かせる目的で
「ねえねえ私貴方みたいになったら死ぬわ、人としての尊厳ないと思うわ」
ってわざわざ伝えたら確かに大変失礼だろう、でもそうじゃないよね
安楽死について議論してはいけない、美辞麗句しか言ってはいけない
そんな社会が正しいとでもいうのか?
尊厳ある死、安楽な死を求める人が居るのは間違いのない事実
その事実に目を背けず真摯に考えるにあたって、もし自分なら?と考えるのは
アプローチする方法の一つとして妥当だ

>安楽死を選ぶことはその人が自分はこういう状態なら生きていたくないということです。つまり自殺そのものです。
だからといって、安楽死を選んだり自殺する人が全て悪で、その問題について異見を述べるたりそう考えたりする事は許さない、なぜなら自分や自分が知る人が障害や疾病を抱えても生きる事を選択しているから、というのは、人間の内面のものの考え方の自由にまで土足で踏み込んで自分たちの考え方を正義として押し付けようとしているような気がするのですが、、

「私なら死ぬ」は単なる誹謗中傷であり、安楽死の容認問題とは別次元のハナシ。
安楽死のハードルを上げたい為に、無理やりにヘイト話にすり替えるのは止めましょう。
生きる気力を失った人に対して「私なら生きる」や「頑張れ」も相当に残酷ですよ。

>立岩真也・立命大教授は「私なら死にたい、と公言することはヘイトスピーチ」と指摘する。
個人の感想や主張にまでレッテル貼りする立岩真也なる学者は言論統制が専門なのかね? 自分の主張にそぐわない考えを封殺するために「ヘイトスピーチだ」ほど便利なフレーズはない。

安楽死については色々な考えがあるだろうけど
絶対治らない病気で日々苦痛にさいなまれている人に
苦しいだろうけど頑張って生きろとは簡単に言えないのでは?
大切な人でずっと生きていて欲しい人であっても
一生苦痛にのたうち回りながら過ごさせるのは忍びない。

実際に身近で、殺してくれと何度も言われた者として、同じ状況になったら絶対早く死なせてほしいと思う。
この記事の人こそ、一部人の意見だけ取り上げて、切実に安楽死を望む人の状況を本当に見ているのかと思う。
いつ終わるとも知れない苦痛に何度も何日も襲われる辛さがどのような物か・・・・
それを見てまだ安楽死を否定できるとしたら、それは心がよほど鈍感に出来てる人だと思う。

>困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。
そういう意味ではないんだよ。
他者の身になって考えているんだ。
なぜそういうことが分からないかなあ。
誰しもこの病気にかかる可能性がある。
そのことを仮定して考え発信することに何の問題があるのだろう。
これが問題となるなら何も表現できない。





 私たち全国「精神病」者集団は、1974年5月に結成した精神障害者個人及び団体で構成される全国組織です。
 6月2日に放映されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」は、多系統萎縮症の日本人女性が「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方に基づいてスイスに渡航し医師による自殺ほう助で死んでいくドキュメンタリー番組でした。番組中では、安楽死が肯定的に表現され、死に様までもが克明に放送されたことは私たち障害者にとってたいへん衝撃的でした。
 さて、この「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、相模原市における障害者施設で発生した連続殺傷事件の被告の優生思想につらなるものであり、平然と公共放送で流されている状況は看過できないです。相模原事件の被告につらなる「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、つまるところ障害者の生を否定するものであり、私たち全障害者に向けられた殺意そのものです。決して肯定的に捉えることはできません。こうした意見は、障害者を中心にSNS上でも散見されます。しかし、こうした障害者側の意見に対して、ご遺族が「そっとしておいてほしい」と言っていると漏れ聞いています。
 「死んだ人のことをあれこれ言うな」「私たちもつらい」「そっとしておいてほしい」というご家族の訴えは、一見するともっともらしくきこえます。しかし、今回に限っては、その訴えは的を射ていないと言わざるを得ません。本当に、そっとしておいてほしいのであれば、誰にも知られずに、ひそかに息を引き取ることもできたはずです。また、純粋に自らが尊厳のある死だけを望んでいるのであれば、わざわざ書籍を出したり、テレビに出演したりする必要など全くないはずです。
 彼女がそうしなかったのは、ただひっそりと死にたかったわけではなく、自分の死に方を社会的に認めさせる主張をするためにテレビに出演し、書籍を出したからにほかなりません。一連のテレビ出演には、自らが死ぬことを通して自己の主張を正当化するねらいがあるのです。
 ひとたび社会的な発信をしてしまったら、当然ながら様々な賛否両論にさらされます。テレビに出演したり、書籍を出したりした以上は、そっとしておいてはもらえません。ましてや「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、相模原事件の被告の優生思想につらなるものであり、全障害者に向けられたものである以上、障害者が黙っていられるはずがありません。ご遺族の「そっとしておいてほしい」との発言は、全障害者に向けられた殺意に対して沈黙させようとするものであり、遺族感情をたてにとった言論封殺です。私たち障害者に沈黙を強いることは、結果として相模原事件の被告につらなる思想に異議を唱えさせず、従わせていくだけのプロセスになっていくでしょう。
 NHKは、一見すると個人の選好の問題のようにみえる安楽死を公共放送に流すことによって優生思想・特定の人々に向けられる殺意の増長(ヘイトクライム)を促しました。このことについて障害者団体として遺憾の意を表明します。
   2019年6月23日

NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」に関する声明 – 全国「精神病」者集団(公式サイト) (jngmdp.net)




いろいろな角度から議論しないといけない、難しく、大きな課題ですね。




ただ、一番最初の取り掛かりは、この動画からかなと。





勿論、人それぞれ、いろいろな条件下での選択になるでしょうが、



この動画は、同じく人間にも当てはまる事例ではないでしょうか。





「生」であれ「死」であれ、


「救われる」 


形になればいいですね。

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