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永六輔の世界観にふれる

最近どうも亡くなった人が著者の本を買うことが多い。実際昨年末から今年にかけて読んだ本を振り返ると、7,8割がこれに当てはまる。『アンナ・カレーニナ』のような本格的な小説もあれば、落語家の自伝、専門書まで幅広く、読んだ本のジャンルとも無関係だ。むしろ、存命の方が書いた本の方がジャンルは偏っている。

電子書籍のセールや古本屋で本を買う機会が増えたというのもあるだろう。だが、よくよく思うと、そうコトは単純ではないのに気づかされる。

端的に言ってしまえば、タイトルや帯で引いているのだ。『…が9割』や『世界一の…』といったようなタイトルを見ると、その本はまず買わない。それ以外にも、帯や見出しがキャッチーなものも大抵読まない。なので、本屋へ行っても、平積みされている本は買う機会は少ない。そして、一昔前の本のタイトルは比較的落ち着いている。だからこそ、そこに惹かれるのだろうと思う。

今回はそういった本の中から。読書会でも紹介したが、こちらでも。

永六輔『芸人』

永六輔といえば何が有名だろうか。「上を向いて歩こう」の作詞?ラジオのパーソナリティ?放送作家?とにかく多才な人物だ。そして、エッセイも多く残した。そのうちの一冊だ。この本以外に『伝言』も読んだが、この人の文章は非常に軽快なリズムを刻んでいる。それでいながら、物事をつぶさに観察し、的確な批評を行っている。なかなかできることではない。現代を生きる私たちにも考えさせられる、そんな文章でもある。

この本は永が聞いた話をまとめ、それをもとに永の考えを整理する、そんな構成になっている。例として、先の話題(見出しの過剰さ)に類するものを挙げよう。

P.69-70
「テレビで完全取材だとか、完全密着とか、
<完全>がついていれば、
それは、<不完全で雑な仕事>という意味です」

☆新聞のテレビ番組案内の日本語の凄まじいこと。読むほうだって信じないということが暗黙の了解で、言葉遊びをしているのだ。宣伝なんだからという開き直りも、テレビの芸のうちなのだろう。

この手の話はテレビに限らない。先に書いた通り、本のタイトルもそれに近いものが多い。売上を確保するために書店を訪れた人たちの目に留まるような刺激的な見出しが並ぶのだ。

確かにその刺激的な表現は目に留まるし、興味をそそられることもある。だが、興味を抱いたほどの釣果を得られるのはまれだ。ましてや、その刺激にすら慣れてしまった現代人への宣伝文句はさらに過激になっている。宣伝ほどの効果があるのか、宣伝の内容は正しいのかはもはや関係ないのではないか。ある種思いこませたもの勝ち、売ってしまったもの勝ち、その状況になりつつあるのではないか。そして、それを裏打ちするかのように、永はこんな話もしている。主語は芸人だが、ビジネスなどの他分野でも当てはまる部分があるだろう。

P.5
「客がよくなきゃ芸人は育ちません。芸人が育つような客が少なくなりました」

一昔前はパトロンのような人が養いながらも、芸人として一人前になるようにサポートしていたようだ。それも、結構手厳しい表現をしながら。

P.4-5
「おまえの芸は泣かせる芸じゃないね、おまえの芸は寝かせる芸だよ」

☆この言葉は目で読むだけでなく、声に出してみてほしいですね。
 「な」と「ね」で遊んでいる。
 こういう厳しい旦那に育てられて、芸人が育つ。
 もちろん、旦那は、飲ませもし、喰わせもし、遊ばせて小遣いも渡し、そのうえで、こういう一言を言うのである。

こういう味のある表現であっても、TPOを間違えれば、当然ハラスメントの対象になる可能性がある。だが、時にはそのリスクを冒さなければならない。仮に間違えて一線を越えてしまっても、相互に信頼関係ができていれば、その時に互いに指摘し合える(芸人であれば、それを笑いに変えられる)だろう。少なくとも、匿名性という盛に隠れたまま炎上させるような卑怯な真似はしない。

色々と話は飛んでいるが、こんな調子で自らの考えと照らし合わせ、自らの意見を補強したり、新たな視点を提供してくれたりする。亡くなってから6年近く。できることなら、この本と出会うのがあと10年早ければよかったとも思う。そうすれば、生前パーソナリティをしていたラジオを聴くこともできただろう。だが、時は戻らない。そして、そもそも時とは無関係に、本の存在に気づかずに過ぎ去っていたかもしれない。偶然とはいえ、こういう本を見つけられたのは幸運だった。

別にこの本を読んだからと言って人生を変えられることはない。そういう人には向かない。だが、自分の考えと著者の考えを照らし合わせて、思考を深めようとする人にはお勧めできる本だ。


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