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読書ログ4―自然と湧き出てくる「何か」―

先日、世田谷文学館へ行った。

目的は谷口ジロー展。先月たまたま「美の巨人たち」での放送を見て興味を持った。その後、本屋で『歩くひと』を買って読んだのだが、漫画のイメージを覆させられた。勝手な想像ではあるが、漫画というと絵は比較的シンプルなものが多いイメージであった。だが、谷口の漫画は「絵画」や「デッサン」の中に物語が入っているかのような、そんな印象を抱いた。何より描写が細かく、丁寧である。そして、表情の微細なニュアンスからどのような感情を抱いているのか、どのようなことを思っているのか、その想像を掻き立てられる。

その画は大量生産できるようなものではない。ジャンプのような週刊誌に掲載するにはストーリー展開以前の問題(時間的制約)で無理だろう。ただ、時間をかけて積み上げられた結果、作り上げられた漫画は一種の芸術作品のようであり、またある種の無声映画のようでもある。それでも画から様々な情景や感情が読み取れる、というよりもそれらを感じざるを得ない。

柳家小三治『どこから話しましょうか』にこんな一節がある。

P.30-31
 今のNHKのドラマにしても、よく出来てますよ。ただ、表現の方法が変わってきました。役者の表現の方法もつくる側の方法も変わってきたけど、それはいつも画面から与えられる楽しさや悲しさです。この映画のは、画面から与えられるものじゃなくて、見てる人の心の中から湧き出てくる楽しさや悲しさや切なさだった。
 私の噺が目指しているのは、そういうものかもしれないねえ。いちいち全部説明してやって、どうだ、楽しいだろう、悲しいだろうっていうものじゃなくて、見てる人が感じざるをえない、楽しさや切なさや悲しさ、それが湧き出てくるような噺ですね。

※この映画・・・木下恵介『野菊の如き君なりき』

ちょうどこの本を読んだ後に実際に映画も観た。ストーリー展開もそれなりに想像がつく。演者も「棒読み」感を抱かせる。だが、この映画は最後まで観た後の余韻(どれだけ冗長に感じても飛ばさない方がよい)は、まさに小三治の言葉の通りであった。そして、谷口の漫画からも同じような印象を受ける。

それらはアピールなどしていないように見える。自然と物語が展開していくに過ぎない。まるでアピールすることそのものが一種の恥であるかのようだ。

もしかすると、私たちの社会は「アピールすること」に慣れすぎているのかもしれない。確かに本当に良いものであればアピールは不要なはずである。アピールせずとも滲み出てくる価値をきちっと見出せるかどうか。ここ最近、本や映画、展覧会などからそのようなものの重要性を問いかけられ続けている、しかもそれらは別段意識して学ぼうとしたものではなく、たまたま手に取ったり見たりしたものから同じようなメッセージを得たに過ぎない。それにしても偶然とは面白い。

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