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永六輔『大往生』より~日々の営みにある「しあわせ」~

永六輔の本を紹介してから2週間ほど。その後、『大往生』『二度目の大往生』『職人』と立て続けに読んだ。どれもテンポよく読める。それでいながらにして、永が集めた「無名人名語録」やエッセイは、生き方そのものの在り方であったり、物事の見方だったり、様々な面で考えさせられる。

『大往生』にはこんな一節がある。

P.23-24
「こうやってね、毎朝、魚を売って歩いているのよ。八十をちょっと越しましたけどね。毎朝、こうやってね、魚を売ってるの。
 魚はね、おじいちゃんがひとりで漁に出てね、こうして、私が売る分だけ釣ってくるんだよ……
ありがたいこと、ありがたいこと」

☆長寿県、沖縄の糸満港で逢ったお婆さんの言葉である。こういう「しあわせ」が厚生省の役人の頭の中にないのだ。ここには、余計に釣られない魚の「しあわせ」もある。

このおばあちゃんの言葉からは、ささやかながらも満ち足りた生活が垣間見える。無理なく、無駄なく、そして、つましい生活。だが、夫婦で様々な困難を乗り越えたその先に見出した「日常」というしあわせ。それをひしひしとかみしめているからこその言葉なのだろう。この「しあわせ」には成長の要素がない。日々の営みそのものが幸せなのだ。

「成長」という言葉には負の側面もなく、無条件に良いものであるような響きがある。だが、現代社会で言うところの成長、特に経済成長は物質的な豊かさを提供するかもしれない。しかし、必ずしも精神的な豊かさは提供しない。それは過労死や孤独など、経済成長の裏で生じる歪みとして存在している。

おばあちゃんがしあわせなのは、精神的な豊かさの表れであろう。そして、何度も言うようだが、ここに「成長」は存在しない。日々の生活に必要な分だけを得るのみだ。おそらく「余暇」といっても、旅行やショッピングとは無縁で、夫であるおじいちゃんとお茶を飲む時間や散歩する時間、近くでお互いの好きなことをしている時間、そういうことをしていたのではないかと思われる。おばあちゃんにとってはそれが「しあわせ」なのだ。

自分たちがどのような状態にあることがしあわせなのか。私たち自身の「成長」の先に本当に私たちが思い描くようなしあわせが本当にあるのか、一度立ち止まって考えてみるのも良いかもしれない。

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