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わたしの日本語教師物語17~あの日のこと

今日は2022年3月12日。あの日から11年(と1日過ぎてしまいましたが)記録のために書いておこうと思います。

あの日、私はまだ日本語学校で働いていました。卒業を間近に控えた学生たちを連れて毎学期恒例の社会見学で東京都北区王子にある「紙の博物館」を訪れていたのです。ここには何度か来たことがありましたが、ボランティアの方が外国人学生にも丁寧に説明してくださったり、紙漉きを体験できるコーナーがあったり、ちょっとした見学にはぴったりの場所でした。日本語学校は早稲田の近くにあったので、ここまで都電に乗って、わいわいおしゃべりしながらやってきました。
ちょうど地下にある紙漉きコーナーで、和紙のハガキを作ろうとしていた時でした。床が大きく揺れました。

地震だ!
私は学生たちを確認して、大丈夫だよという顔をしました。外国人学生の中には地震を経験したことがない人もいるのですが、東京に住んでいれば地震は珍しくないからです。
しかし次にもっと大きな揺れが来た時、私も動揺してしまいました。ここまで大きな揺れは私も経験したことがありませんでした。直感的にこれは大地震かもしれないと思いました。

まず作業を止めて、学生たちを地下から1階に避難させました。博物館の前には飛鳥山公園があります。公園に出てみると、近所のビルの人たちも公園まで出てきていました。私はまだ余震があるかもしれないから、とりあえず学生たちを広い安全な場所で待機させました。地震の体験がない中国の女子学生は恐怖のあまり顔色が悪くなっていました。
私も内心焦りながら、「みんな落ち着いて。大丈夫だから」等と声をかけました。
香港の学生が、持っていたスマートフォンで、東京は震度5の地震、お台場で火災が起きていると教えてくれました。(日本人の私より外国人である学生の方が情報が早いというのはちょっと皮肉ですね。これもインターネットの力。)
これは想像以上に大きな地震かもしれない、と感じました。
この時はまだ東北があんな状態になっていることは知りませんでした。

私はこの時PHSしか持っておらず、確か通話ができなくなっていました。でも飛鳥山公園の隅に公衆電話のボックスがあったので、まず学校に連絡を取りました。
「全員無事です。社会見学は中止して学校に帰ります」と連絡しました。
学生たちを安全に自宅に帰すには、帰路ルートがわかっている学校からの方がいいと思ったのです。
それから、もう一件公衆電話から電話をしました。自宅に一人でいる小学4年生の息子に。
「地震大丈夫だった?」
「うん、ゲームしてたらテレビが落ちた」
とりあえず無事は確認。怖くて泣いているかと思ったら案外普通にしていました。

それから学生たちを連れて高田馬場にある学校まで帰ります。都電は止まってしまっていたのですが、ちょうど池袋行きのバスがありました。とりあえずこれで池袋まで行こうと学生たちと一緒に乗り込みました。
この時はまだこの地震の全貌が分かっておらず、バスの中もそんなに緊迫感はありませんでした。もう一人の引率教師はバスの中で偶然、元の教え子に会って、おしゃべりしたりしていました。
池袋に着いてから、あれ?これは本当にいつもの地震とは違うぞという気がしてきました。
池袋駅が閉鎖されて人が外まで溢れていたのです。そして見上げると駅前のドン・キホーテの看板が、ブランと垂れ下がっていました。
池袋から山手線で高田馬場まで行くつもりでしたが、山手線も止まっているので、歩いて戻ることにしました。私は土地勘もなく、さらにとんでもなく方向音痴なので、学校までのルートはもう一人の先生にお任せ。学生たちがはぐれないことに気を配りました。
でもね、結局、学生はスマホを持っていて、Google MAPで調べて、彼らが先導してくれるという始末。それにしても他にも歩いている人が大勢いました。明治通りをゾロゾロと。東京でこんな光景を目にするとは思いもよりませんでした。

暗くなる前にようやく学校に到着。
家が近くで帰れる学生は帰宅させました。こんな時にもかかわらずバイトに行かなきゃという学生もいました。
学校に着いてからも余震は続き、あの緊急地震速報の嫌な警報音が学校中に鳴り響くたびにドキッとしました。学校のテレビでようやくどんなことが起こったのかを見ることになりました。釜石や仙台や陸前高田、そして福島第一原発の様子が映し出されていました。でもなんだか現実のものを見ているのではない感覚がしました。信じたくないという思いなのか。

学校では交通機関が止まって帰れない学生が多くいたので、教室を開放して待機させていました。事務局の方々が温かい豚汁などをふるまったようです。
さらに同じ方面の学生を集めて学校の車で送っていこうとしたのですが、これはすぐに断念されてしまいました。何故なら交通渋滞がひどく、ピストン輸送はとても無理だということが分かったからです。
でも電気が止まっていなかったのが不幸中の幸いだったと思います。まだ寒い時期でしたがエアコンも使えましたし、トイレも使えました。(学校は電気がないとトイレも使えないシステムでした)
学生たちは教室でしばらく待機した後、自分たちで帰宅する方法を見つけたものは、徐々に帰っていきました。もちろん帰れない学生はそのまま教室にいることができました。

教師たちは教員室に残っていました。
学生たちを学校に送り届けたので、次に息子のことをなんとかしなければなりません。私が利用する地下鉄路線も止まっていたので自宅に帰れません。夫とメールで連絡を取ることができましたが、やはり彼も都内から自宅まで帰る手段がありません。実はラッキーなことにマンションのお隣さんが友人で、その子どもも息子と幼馴染です。なんとかそのママ友と連絡を取ることができたので、今晩はそこに預かってもらえることになりました。息子には電話でそれを伝えました。ママ友ネットワークに本当に感謝です。

あの時、連絡手段は公衆電話だけでした。地下鉄の駅に公衆電話があって、ここも多くの人が並んでいました。(今はどうなんだろう。あの時みたいな大災害が起きた時、スマホは使えるのか?公衆電話はあるのか?)

コンビニは開いていたので、自分の食べるものとこれからのことを思ってパスタや電池などを買いました。パンなどは既に売り切れていたと思います。
それから地下鉄が動くまで、ずっと学校の教員室で待機。テレビからは想像を絶する光景が次々と目に入ってきました。実は教師の一人に陸前高田出身者がいて、呆然とした様子でした。私はいたたまれず、声をかけることもできませんでした。

朝、5時ごろようやく地下鉄が動き始めたので、帰宅。隣家に息子を迎えに行きました。夫は夜中に途中の駅まで行き、そこから歩いて帰ったそうです。橋を二本渡って。

あの日は金曜日でしたね。週末に予定されていた様々なことは中止。
さらに可哀そうなことに、翌週立派なホールで実施される予定だった日本語学校の卒業式・パーティーも中止になってしまいました。

学生たちに修了証を渡す必要があるため学校に行ったのですが、すると急遽小さな卒業式をやろうということになりました。今回のことで国の親御さんが心配して帰国してしまった学生もいました。でも今いる学生たちのため、何か形に残ることをしたいという学校の先生方の思いからでした。私はパーティーに出すお菓子を買うために、駅前のお店まで走っていき、いろいろ調達してきました。

あの時の気持ちを思い出します。みんな大変な経験をさせちゃったね。ちゃんとした卒業式をしてあげられなくてごめんなさい。日本語を勉強してくれてありがとう。

その後、多くの日本語学校は経営的に厳しい状況になりました。原発事故の影響で日本に留学する学生が減り、教師はコマ数が減って自宅待機を余儀なくされたり。今の状況と似ています。災害、疫病、世界情勢、様々なことにもろに影響を受けるのが日本語学校なのです。

それでも日本語を勉強したいという学生、日本が好きだという学生は必ずいます。それは私たちの「宝物」です。大切にしていきたいと思っています。

東京での3.11の経験は東北の方々とは比べようもありませんが、外国人の学生たちを預かっている身として、何か起こった時、どのように行動するかは常に頭においておかなければならないことだと思い、ここに書き記しました。
東日本大震災で犠牲になったすべての方にお悔やみを申し上げます。震災のせいで人生を否応なく変えられてしまった方々にも思いを馳せたいと思います。

また、あの原発事故のようなことが、地震という災害でなく、最も愚かな人為的な原因で起こるかもしれないという現実が今まさに目の前にあります。絶対に起こしてはいけません。

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