僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
“社会人の人”と話す機会が増えて思うことがある。
社会人はみんな気を遣うスキルに長けすぎている。それが故に本当に伝えようとしていることを伝えられていない。
相手が嫌な気持ちにならないように言葉を選ぶことはとても大切だ。
そこを意識しすぎるあまり、妥協してしまっていないだろうか。
俺は思ったことを言葉に出来る。
だから、人の意見を代弁することがある。
非常に面倒くさい。
何故、自分が本当にいいと思ってることを言葉にするよりも、相手にどう思われるかを優先してしまうのだろう。
お面を被り、“いい人”であり続ける人生は楽しいか?そもそも、それは本当に“いい人”なのか?
文句を言えと言っているわけではない。
自分の意見を持っていても言葉にしなければ、持ってないのも同然で、意見を求められているのに言えない人は存在価値が無いとも言える。
スペイン出身の留学生とこんなエピソードがあった。
その留学生は大学の課題で「本音と建前」について勉強していた。理解が難しかったらしく、俺に意味を尋ねてきたのだ。俺は自分の理解の範疇で例を出して説明してみた。
「友達が髪の毛を切ってきて、もしそれがあまり似合ってなかったとしても、似合ってると言ったりするんだよ」
こんなことを言った気がする。
俺の説明に対してその留学生は
「それってただの嘘つきだし、失礼じゃん。」と言った。
その通りだ。
建前はただの“責任放棄”じゃないか?
偽りの“似合ってる”になんの意味がある。
俺は小さい頃から日本で育っているので本音と建前を使い分ける気持ちは分かる。しかし、言いたいことを言えないのはとてもダサい。
本当にその人のことを思っているなら、自分の思いを伝えるべきではないのか。
あなたが“付いて行きたくなる人”とはどんな人ですか。
本音と建前の上手な人。
多少格好悪くてもストレートにぶつかれる人。
少なからず俺は気を遣う能力が異様に長けるが余り、言いたいことが言えない人に付いていこうとは思わない。
権力に屈すること無く、自分の信念を貫く人に心を撃たれる。本気で良くしようとして伝えてくれる人のことを嫌いになる人なんていない。
何があっても譲れないものはあるか。
自分の言いたいことを言えることは大きなアドバンテージになる。
特に日本だとそれだけでも異質な存在になれる。
それに言いたいことを我慢するというストレスが無くなるため、とても人生が楽になる。
思いを言葉にせずに、自分を偽っているうちに自分という存在が分からなくなってしまうのではないだろうか。
尾崎豊さんの歌にはこんな歌詞がある。
「僕が僕であるために
勝ち続けなきゃならない
正しいものはなんなのか
それがこの胸にわかるまで」
嫌われるかもしれないという恐怖に打ち勝ち、自分を表現し続けることでしか、見えない景色がある。
俺はそんな“かっこいい大人”になりたい。
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