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相対と絶対:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教 その4

平成-令和の思想風景

 よく聞かれる現代の日本の風潮についての批判に相対主義が強まっていて例えば子供を叱れない親が増えているとか価値観の多様化で共通の話題が乏しいなどというのがあります。

 私からすれば叱るか叱らないかは様式や方法に過ぎず相手や社会を結果として統治できればどちらでもいいし話題は共通かどうかではなく何であれ疎通のできる様式や方法のあることが大切だと思います。

 とはいえ、如何にも相対主義ぽい感じが今の日本を或る面では覆っていることは確かですが逆に或る面では絶対主義的風潮も強まっている。
 さように相対主義か絶対主義かの二択で生温く盛り上がっているということは相対主義もまた一種の絶対主義になっているといえます。

 三十年前にリクルート事件という政界のお食事券があり、その批判も一因して宮澤内閣が総辞職して解散総選挙、八野党による連立の細川内閣に政権が交代しました。
 そこで宮澤総理が池田総理との共同創立者で今の岸田総理の持つ派閥宏池会は時代遅れの存在として力を失い、また宮澤総理と共にリクルート事件の疑惑の渦中の者となった竹下総理は日本の旧い政治体制の悪の権化のように見做されました。竹下総理は消費税の導入(当時の税率は3%)の時の政権です。
 宮澤と竹下の政治とは調整の政治、the politics of adjustmentです。
 宮澤は金利などの経済を調整し、竹下は与野党の政策を調整する。
 政治には普通に必要なもので、それが当時からは悪いものだということにされた。政治だけではなく社会にも必要です。
 尤も、調整だけではいわゆる料亭政治と言われるようにそれに携わらない一般国民には何が行われているのかは分かりにくく、故に政治には国民への伝言、messageが必要と認識されたので細川が勝った訳で、その内容を問わなければその伝言の政治はそれからの三十年に一貫して受け継がれています。
 安倍総理が密やかな個室の料亭ではなく周りに一般客のいる広間の料亭で報道人等との会食をしばしばしていたのは印象的です。

 宮澤・竹下の失脚と共に、日本は相対主義的風潮が雪崩を打つ御神木のように広がり出します。
 大概に、世の中が豊かになれば自ずと相対主義が強まり、貧しくなれば絶対主義が強まります。
 彼等の失脚の前から既に相対主義は強まっていましたが三十年前はそれが更に強まってゆくのではないかといわれていました。
 しかし経済成長がより低くなれば自ずと絶対主義が強まってゆく筈で、そのように批判をしていた方々は歴史の理を知らないか近い内にまた成長が高まる筈だとを高を括っていたかということになります。
 故に、実態は逆にこの三十年に相対主義が弱まり絶対主義が強まっているのです。
 しかし多様性というような相対主義の支持率は年々高まっています。
 その奇妙さは、一つは絶対主義が強まっていると現実に感じている方々の危機感です。ここで相対主義を支持しないと絶対主義がより強まってしまうという。
 もう一つは相対主義が絶対主義を守るための砦、日本版great great wallとして利用されていることです。
 不寛容を認める寛容とか差別も自由の一つとかいうようなのもそも砦の一つです。

 確かに貧しさを脱して豊かになるためには或る種の絶対主義も必要で、かつての北朝鮮、フィリピンや今も続くシンガポールの体制などはその典型例です。
 しかし今の日本にはそのような本格的絶対主義体制による経済の成長はなかなか支持されそうにはありません。

相対主義と絶対主義は経済力が第一の要因

 豊かなら相対主義になり、貧しければ絶対主義になる。
 それはほぼ鉄則です。
 但しどちらも必ずしも良いか悪いかは限られません。

 豊かならば物心における選択の可能性が増すので余程に頭が弱くなければ諸々の物象や事象が相対なことに気づきます。それが思想に再構成されます。
 貧しければ物心における選択の可能性が減るのでそれなりに頭が強くないと諸々の物象や事象が絶対なように見えます。それが思想に再構成されます。

 いずれにせよ、経済力が第一の要因でありながら頭の強さ弱さも影響します。
 豊かでも頭の弱くなる選好が強いと絶対主義になりますし貧しくても頭の強くなる選好が強いと相対主義になります。
 それは自分の能動的選択のみには因らず、他者に示される受動的選択にも因ります。
 分かり易い例はアメリカの共和党は前者が多く民主党は後者が多いことで、前者の極みはトランプ政権でしたし(貧困層を取り込めたことが決定打だが彼が公認候補になれることは昔からの共和党の風土。)後者は如何にして貧困層にも頭の強くなる選択の内容と機会を与えるかということに腐心しています。結局は相応の頭の強さがないと豊かになることはできないのでそれを豊かになってからではなく貧しい内に得られるようにしようという訳です。

 頭の弱くなる選好とは様々ですが哲学に関してはプラグマティズムが代表的です。
 頭の強くなる選好とは様々ですが哲学に関してはスピノザ哲学が代表的です。
 私は基本的にはどちらでもなく、道教的信仰を基に功利主義を取ります。プラグマティズムとスピノザ主義のどちらかといえばスピノザ主義を擁護します。
 功利主義はスコラ哲学スピノザ哲学などの多くの哲学のように体系的ではなく散文的なことが特色です。
 日本の政治家が国会で公然と莫迦にすることさえあったアメリカの平均的知性の低さはプラグマティズムが1920〜’50頃に普及したことが大きな要因で、落合信彦も重ね重ね力説するようにそれがケネディ政権の時代から懸念されてプラグマティズムが下火になり、レーガン政権の時代にアメリカの知性が完全回復を見たとされます。
 プラグマティズムはアメリカにおいては既にどうでもいい日本の地方私鉄のようなものになっている訳ですが日本においては順調な増加の傾向にあり、まさに地方私鉄の赤字と累積債務の拡大の放置や温存を志向するような思想です。
 しかし、今は日本もアメリカ並みになっているといわれる。

絶対は変化する。

 世界が相対であるなら絶対はないのかというとそうではありません。
 :それが結論です。

 世界はあくまでも相対でしかなく絶対はないというなら、相対主義が絶対主義なことになります。
 全ては絶対に相対である:古典的欺瞞で、今はそれが最も逸っている思想でしょう。
 国粋主義も多様性の一つなどというのがその典型です。

 相対というとあくまでも認識や感覚におけることのみとされがちですが実は物理現象も相対が基本なことはアインシュタインの特殊相対性理論にも明らかで、その哲学的基礎はデカルトやスピノザにあります。

      🔽

 🟡         🟣

 この🟡と🟣との距離は🟡から測るのと🟣から測るのとは違う。
 それが相対性理論の基本の黄です。
 或いは🔽から両方への距離を測り三平方の定理で割り出す測り方もあり得ますがそれもまた違う距離になる。
 勿論、そこまで皆違うということでは切りがないので殆どの場合はどの測り方でも同じと見做すものではあります。いわば++象限のみで測るということです。
 因みに私は全ての色の基準値は黄色と紫色だろうと思います。
 何でかいうとどちらも「きいろ」だからです。
 白と黒、⚪️⚫️は実は相対的感覚的にしか存在せず、物理的に存在する色は全てが有彩色で、その基は黄と紫、🟡🟣。白とは消えてゆく黄のことで黒とは消えてゆく紫のこと。そして白はどこかで黒に化け、黒はどこかで白に化ける。
 その相対性を社会に応用すると、例えば権力勾配や税制などになります。
 普通に相対主義なら分かる事柄ですが今の日本のように相対絶対主義の思潮ではそれらは分からないか分かっても考えたくないことになります。
 寧ろ、普通の絶対主義なら絶対的権力などの絶対値が相対的観測の基準値を示す、見えるようになることになるので相対主義を否定しても無駄で許すほかないと分かる筈です。絶対王政の時代とはそのような分別のある絶対主義の時代だったでしょう。
 開発独裁体制のような国が豊かになるための絶対主義もその一種。

 相対絶対主義の顕著な例は社会距離、social distancesが普及しないことです。ウィルスがあってもそれなのでウィルスがなくなると社会距離の崩壊が止め処なくなってしまうでしょう。
 線が引いてあると一応は線の上に立つが線がないとずんずん近寄られる。
 それは立ち位置を線や円という絶対位置で示すことも一因でしょう。
 例えば:
       ◀︎   ◀︎   ◀︎      🟧収銀所

 このような後向の三角印や矢印で示せば、列の間隔が自ずと後に空くようになるでしょう。そこに立てというだけではなくそこよりも後に立てということでもあるからです。
 線というのは絶対位置なようで取り除けばなくせる相対的なもの、世を忍ぶ仮の姿という感覚で見る人も多く、処が或る時には同じ人さえ絶対風を吹かせたりし、社会距離などの道徳が根づきにくい指示や表示の方法、いわばプラグマティックで頭の弱いやり方です。

 良きにつけ悪しきにつけ、絶対は可変、variableである。
 絶対存在が同じ位置で揺らいだり違う位置に移ったりすることがある。
 絶対はないというのは個々の相対存在が各々揺らがず移らず絶対位置を占めることを良しとするということで、色々とあてはまる例を考えるとそれが如何に馬鹿げているかが分かります。

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