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’80年代の完全終焉と’20年代の豊かさ、日本経済:その4 「経済を回」しても経済成長はない。

 円安と物価高が懸念と批判を見る只今、私の誕生日(齢が工藤公康投手の背番号になります。)に日本銀行が「つまらないものですが、」と仰ったかどうかは分かりませんがなかなか立派なお誕生日の贈物を下さいました。
 そのお品は事実上の利上げと金融緩和の縮小です。

 私はアベノミクスには反対で今もその見方は変わりませんがその三本の矢の一本に数えられた異次元の金融緩和はその成果が道半ばにあるにせよ当時から適切と考えています。
 その問題点は金融資金が準備高として大きく増えたが丁度10年を経る今も準備高に留まっていることです。
 「♪あれから十年も、この先十年も…緩和(注射針がごろごろ…、)。」とはならずこの程に一定の節目がつくこともまた好評価します。
 私は当時に2015年頃を目処に利上げをするべしと提唱していました。
 一般に利上げは好景気の過熱による原動機の不調を防ぐための引締めとして行われるものとされますが2015年頃に好景気になる兆しも成果もなかったのでそれはあくまでも金利の下がるしかない金融緩和の異常な(或る面では必要な)状況をあるべき建前に戻すといういわばmetaphysicalでemotionalな、即ち卓れて政治的な経済政策としてです。

 しかし、その私の提唱が八年も遅れてやって来ても、これから景気が良くなる訳ではありません(なって悪いとはいわないけど。)。
 それはあくまでも経済があるべき建前に近づくことであり、景気の良し悪しに関わらず普通の経済になってゆくということです。

 しかし普通の経済とは何かということの理解が仮想先進国の日本においてはない。
 普通の経済とこの『その1』〜『その3』に述べたように、経済成長とは国土の開発のみによりもたらされ、発展途上国のみに生じるものであるということです。
 日本は仮想先進国であり発展途上国という認識がないのでまずそこで日本の経済政策は与野党とも間違いです。
 日本が経済成長をするためには発展途上国としてやり直さないとなりません。
 逆に先進国という認識を持ちたいなら経済成長はないと認識しないとなりません。
 或る面では前者で或る面では後者としての認識を持つことはありです。いずれにしても仮想先進国をやめないといけません。

 人口比での国内需要は増えも減りもしないのです。

 例のあれが騒がれ出した頃によく「あれを抑えるよりも先ず経済を回せ、」という言説が飛び火していました。
 結局は日本はあれを抑えることと「経済を回す」ことのどちらにより力を入れたのか分からないことは今や万人の認めるところです。
 そのような言説が経済界寄りではなく主に経済界とは遠いとされる左派の物するものだったのも特徴的です。

 しかし「経済を回す」というのは何かもの凄く現実味のない空理空論ではないでしょうか。
 経済人や労働者が四回転半アクセルをしたりすると思うのでしょうか?下らないニュースの見過ぎなのではないでしょうか。

 2020年を過ぎた今に、経済を回せ、国内需要と国民消費を増やせ、最低賃金千五百円という現左派の方々は意外にも八十年代とバブル時代の思潮を自ら当時から維持しているか当時を生きた年長者の影響を近年に受けています。
 最低賃金が千百円足らずでも経済に軋みが出ているのに(プーさんのおいたは何の関係もありません。)千五百円になったら派遣村どころでは済まない程に失業者が増えて経済と有職者の暮らしも崩壊します。

 その八十年代とバブル時代の思潮とは円高は正義という観念です。

 円高は正義なので、この十年に勧み及び近頃にさらに加速している円安は「経済を回らなくさせる」というのです。

 彼等は八十年代の円相場が相対的には緩々と円高の傾向にあったがさほどの著しい円高はなく実質としては円安ともいえるものだったという事実を誤認しており、剰え、円高は経済成長の鶏と卵だと信じているという誤りにあります。
 そもそも近年に妙に活気づいている「経済を回せ」の左派は中曽根政権とそれに先立つ福田政権を通し自民党支持に転向した方々の末裔です。それが小泉政権と安倍政権の時代を通し反自民に回帰しています。
 1980年頃の自民党は票を増やすために自民党を支持しなければ就職も結婚もできない、末は「あんな人達(浮浪者)になるよ、」いう有権者への脅かしを津々浦々で展開して彼等を一とする大量の票を獲得しました。
 彼等の父や祖父は大東亜戦争の頃には竹槍による防衛と国民に戦争への協力を求める政治宣伝を推進し、戦後は日教組(そもそもは政治的中立の労働組合で組織としての左派色というものはない。)に一枚噛むことによりいわゆる日本的価値観を創造して普及しました。いわゆる日本的価値観というものは天皇制とも神道とも仏教とも、況や儒教ともキリスト教とも何の関係もなく、明治以降に輸入された新プラトン主義の哲学を基に(箪笥に眠る)和装が施されたもので、それが彼等だけの思想ではなく日本に広く普及したのは1970年頃からです。JAPAN, cince1970(毛筆調の刺繍)という感じです。
 右派は逆に戦中も平気で反戦運動をしていました。安倍晋三総理の祖父安倍寛さんや大日本愛国党の創立者赤尾敏さんもその一人です。

 彼等はwhyそんなに円高を望むのでしょうか?
 円高は貨幣現象であり経済とは無関係なのに。
 逆に円安も貨幣現象なので経済とは無関係で、金融緩和が猶も続くことが良いのでもありませんがではそれに節目がつき円高に転ずるという訳でもありません。
 それはまさに「経済を回す」という異様な言葉に象徴されるように、高度成長後及び石油危機後の日本経済が剰余(資本の蓄積)を悪として資金の回転(自転車操業)を善とするようになったからです。
 国にも企業にも国民にもお金の足りない状態を常に保ち、それをひたすら川の流れのように動かし続ければ円相場は高く保たれます。
 しかしただ高いだけで円が世界に普及した訳ではありません。
 どんなにドル安になっても常に世界に普及して事実上の高い信用を保っているのはUSドルであり続けています。何でかいうと、為替は貨幣現象であり経済とは別だからです。

 そんな中、1970年代頃からの日本は一貫して国民の社会進出に伴い各種の権力を数多に創造し、世界一の地方分権国家を形成。
 しかし権力を与えても金は与えず、偶に与えてもそれ以上に官民への各種の支払いを増やすことにより「武士は食わねど高楊枝。」や「宵越しの銭は持たない。」という江戸由来の思想を津々浦々に植えつけて東京一極集中を勧めました。そのために親から子へ、子から孫へと暗躍したのが彼等再転向組の左派です。自民党の横暴だけではなく共産党もそれをアシスト。
 日本は中央集権国家だから地方分権を推進すべしという説の根本的誤りもその辺りから見えて来ます。日本は明治以来地方分権国家で、昭和にはそれが更に助長されましたが平成にはそのような誤りを身を切りながら大真面目に主張する方々の台頭によりこの国の問題が有耶無耶にされているのです。

 人間にとり最もやばい状態の一つは権力はあるが金のない状態です。
 しかしこの五十年来、即ち半世紀来の日本はそれが善だと一部の権力者だけではなくあらゆる層の国民に植えつけられています。
 権力も金もないのはもう少しましで、人間は基本としては(人権を除いては、)一に金で二に物、三四がなくて五に権力が大切なものです。
 権力があっても金がないから、持て余す権力を傘に着ての様々なハラスメントや犯罪が横行します。議員などの公務員の給与を削減せよなどというのはまさにそれを更に助長するものです。

 異次元の金融緩和はそれが何に使われるか分からないにはせよ(北朝鮮の兵器にも使われる?)取り敢えず日本には潤沢な金があるということを印象づけることにより治安の悪化の抑制になったという経済以外の意義がありました。しかし、「いつまで緩和を続けるのか?」と金融緩和の半端な懐疑論が広まるにつれまた治安が悪化しています。経済界や経済評論界があれだけアベノミクスを称賛しながら(というか、まずそこからが間違いなのだが、)2020年が近づくにつれ掌を返し出したことも良くないですね。

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